ひびきのさと便り 



No.29 日本文化の役割とは ('02.9.17.)

 8月20日付毎日新聞の「マイ オピニオン」欄に、文化庁長官の河合隼雄(かわい はやお)氏が登場していました。かねてより、現代日本文化のさまざまな領域に影響を及ぼしてきた方ですが、今年から文化庁長官の役職に就いたことで、名実ともに日本の文化を代表する人物となった、と言えます。
 有名な方ですから、ご存じない人は少ないと思いますが、同欄に載っているプロフィールを引用させていただきます。

 かわい はやお  74歳。兵庫県生まれ。京都大学理学部卒。高校教師を経て、日本人として初めてユング派の精神分析家の資格を取得する。京都大学教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任。著書は「昔話と日本人の心」「明恵 夢を生きる」など多数。

 この記事は、毎日新聞論説委員の池田知隆氏によるインタビューで、池田氏は前置きとして次のように述べています。

 政界、経済界から警察、教育そして食品業界まで日本のいたるところでモラルハザード(倫理観の欠如)が表面化している。戦後57年たち、私たちは豊かな社会を築いたものの、その生活基盤をなす倫理意識を見失いつつあるようだ。これからの日本社会への信頼をどのように築いていくのか。日本人の心を支えるものはいったい何なのか。・・・

 池田氏の提示した問題意識を受けて、インタビューが展開します。何箇所か、引用させていただきます。

 −−−文化庁長官になって半年、今、何に力を注ごうとしているのか。
 ◆文化ボランティアを広げよう、との呼びかけに予想以上の反響があった。・・・各地の神楽や祭りなども相互に交流し、大きなお祭りができないかと考えている。文化ボランティアの国際的交流も進めたい。・・・日本、韓国、中国のボランティアの交流ができれば、“文化国防”になる。徹底的に仲良くなれば、戦争する気にはならないはずだ。だから、“文化国防”のためにイージス艦一隻分の金を、と要求している。
 −−−日本は他国の文化を吸収しても、自ら発信する力が弱いようだが。
 ◆これまで日本文化は特異だ、と言い過ぎたし、上手な解説が不足していた。・・・京都の有名なお寺を夜に開放し、素敵な笛や琴の音色を流し、「こんなすばらしいことがこの世にあるのか」と外国人に思わせることもできる。・・・文化も観光と結びつけば、経済もより活性化する。
 −−−世界で宗教や民族の対立が激化する中、日本文化が果たす役割は。
 ◆日本の社会、自然の中では、各宗教は共存し、お互いに比較的寛容だ。だが、日本人は自らの宗教についてはあいまいで、もう少し自覚し、言語化して世界に説明する必要がある。・・・一方で宗教教育を学校で行うのは難しい。かつて日本人の場合、生活と宗教が入り混じり、「もったいない」という生活規範があった。モノが豊かになった今、そのような生活規範をどう教えるか、きちんと考えていかないといけない。
 −−−今春、小中学校に配布された道徳教育副読本、「心のノート」に、国家統制につながる、と反発の声もあるが。
 ◆むしろ反発がないとおかしいし、論議が起こることを待っていた。・・・「心のノート」では、できるだけ子供たちが自覚的に考えられるように工夫している。自分なりに考えて意見を発表する力をつけてほしい。親子の間でも、その内容をめぐって話し合ってもらいたい。
 −−−京都では「道徳教育1万人市民アンケート」が行われているが。
 ◆日本に神さんがいたらこんなことをしなくてもいい。しかし日本には、アンケートくらいしか神がいない。大体どのくらいの人が「これはおかしい」と思っているのか、を知るのは大切だ。・・・
 −−−どこかで社会の最低限の規範、ルールをはっきりと示すことが必要だ、と。
 ◆そう。少なくとも親は子に対して「オレはこう思う」「それはいやだ」とはっきりと言わないといけない。その責任を今まで放棄してきた。子供たちと接していると、とても自由でおもしろい。それがだんだんおかしくなるのは、まさにそんな大人の問題だ。・・・まず、「子供たちにスジを通し、あとは自由」という姿勢を貫くことが一番いい。私は日本の社会を悲観的には見ていない。自由でおもしろい子供たちに、どのように社会的な判断力をつけさせるかが、現在の日本の大きな課題だ。
(アンダーラインは中塚)

 「おもしろい」「楽しい」、「おもしろがる」「楽しむ」等のことが、河合氏の考え方において非常に大切であることが、記事の内容からよくわかるように思います。
 今回、このインタビュー記事を取り上げることにしたので、あらためて、河合氏が文化庁長官に就任して以来の新聞の切り抜きを見直してみました。いくつかの部分を引用させていただきます。

文化庁長官に河合隼雄氏/「日本中を楽しく」/戸惑いつつも豊富(1月5日付日本経済新聞) 
 次期文化庁長官への就任が決まった前国際日本文化研究センター所長で、心理学者の河合隼雄さん(73)は4日夜、「文化を振興し、日本中を明るく楽しくしたい」と抱負を語った。・・・長官就任を決めた理由については、「最近、日本は不良債権など経済的な面で悪口ばかり言われ、腹が立っていた。日本の文化は依然、良質。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを指揮した小澤征爾氏が良い例」と話した。・・・


2002女性 元気の処方箋/男に変わり変革担える/壁破り前進を/家族の再生も不可欠 (1月5日付日本経済新聞) 
 −−−充実感がほしい、という女性も多い。
 「それなら、もう一度、自分や周辺を見つめ直して、人生の中で何をもっとも大切にするかをよく考えるべきだ。お金なのか、趣味なのか、家族なのか、優先順位をつけて生き方を選択し、何が人生の目標なのかを決めて動き始めれば行き詰まり感は消えていくはずだ」
 −−−生き方の絞り込みはとても難しい。
 「本当に大事なことを見つければ、それが新しい鉱脈につながる。仕事でも、家庭でも、趣味でもいい。夢中になって熱中する鉱脈を掘り当てろ、ということだ。鉱脈にぶつかれば、思いがけない力が出て、目が輝き出す。優先順位こそあっても、あれもこれも頑張るエネルギーと集中力もわき出てくる」
 −−−家族の再生には夫婦の協力が欠かせない。
 「日本の男性は総じて父親役に慣れていない。夫婦が協力して家庭の楽しさを見出すべきだ。会社も変えたい。『子供の誕生日だから早く帰ります』と言え、当たり前に認める会社が増えないといけない。・・・家族が一緒に過ごし、語り合って、心が通じ合えばどんなに楽しく、心が和むか。これが一番の元気や活力の源泉になる」

河合文化庁長官が初登庁/「文化財や芸術 経済と国の両輪」/「文化ボランティア」普及に意欲
(1月19日付日本経済新聞) 
 文化庁長官に起用された・・・河合隼雄さん(73)が18日初登庁し、遠山敦子文部科学相から辞令を交付された。遠山文科相には「日本の文化を国際的に発信する責任は重大。勝手なことをたくさん言いますが・・・」とあいさつ。職員には「文化財や芸術は国にとって経済と両輪といっていいくらい重要。誇りを持って仕事をしてほしい」と話した。記者会見で・・・「日本の文化水準は高いが、必ずしも国民に浸透していない。歌舞伎や能、オペラを見たこともなくて死んだらもったいない。楽しいことにおカネを使いましょう」と呼びかけた。

河合長官発案 文化の懇談会/高松で開催
(4月13日付朝日新聞)
 地元の芸術関係者や住民が、河合隼雄・文化庁長官らと文化芸術振興について意見交換する「文化芸術懇談会」・・・が12日、高松市玉藻町の県民ホールであった。・・・河合長官は講話の中で「難しく考えず、好きなことをするのが文化。『個』の働きを全体に広げ、新しい『公』の創出を」と語り、・・・さらに、・・・「心の失速も経済の失速も似ている。一面的な治療では解決しない。不景気な時代こそ、文化で国を活気づけられるのでは・・・」と語った。


 このように引用を並べたからといいましても、別に、河合氏に対して含むところがあって、アラ探しのために切り抜きを集めているというわけでは、まったくありません。
 河合氏自身も述べていますように、文化の重要性にはきわめて高いものがあります。ただ、河合氏は、記事を読む限り、文化庁の仕事として、文化財や芸術品、伝統芸能などを取り上げ、その楽しさをアピールすることを、かなり重視しているようです。役所の性質からすれば当然なのかも知れませんが、もっと、人間の、精神のあり方そのものを取り上げ、その現れとしての文化というものを、社会に訴えていただければ、と思うのです。

 話がいきなり飛んでしまい恐縮ですが、1981年、マレーシアの首相に就任して以来、20年以上の長きに渡って、強力なリーダーシップのもと、同国の飛躍的な経済発展を実現したマハティール氏が、この間、正式に引退を表明しました。マハティール氏が首相に就任して、最初にとった重要政策が、有名な「ルック・イースト(東に学ぼう)政策」です。これは、マレーシアが見習うべき国として、日本や韓国をあげ、西欧諸国よりもこれらの東方諸国との関係を拡大することを望んだものでした。おもに日本から学んだ、労働倫理の高さ、労働者福祉の充実、高い技術力等々が導入され、マレーシアは1995年になると、半導体、カラーテレビ、エアコンの世界最大の輸出国に躍り出ました(『マハティールの夢』,M・ラジェンドラン著,安藤一生訳,サイマル出版会,1995より)。
 さて、そのマハティール氏は、引退を発表するに際して、ルック・イースト政策の廃止、と受け取れる発言をしています。このことは、「こころのとも」第13巻8月号の詩でも取り上げましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。ここに再掲します。

マハティールの言葉
 マレーシアの/マハティール首相が/辞任する
 親日家だった/彼の残した言葉に/次のものがある
 日本から学ぶことは/もう何もない/ただ/日本のようにだけは/ならないようにしたい


 先日(8月28日前後だったように記憶しています)、NHKのニュースで、マハティール氏の講演か会見かが取り上げられ、氏はそこでも、まったく同じことを繰り返していました。つまり、マレーシアの人々にとって、日本から学べることがあるとしたら、いまはもう「あの国の二の舞を演じることだけは、避けなくてはならない」ということしかないのです。
 マハティール氏だけが、ことさら日本に冷たい目を向けているわけではないと思います。むしろ、親日家のマハティール氏だからこそ、言えたことなのではないでしょうか。いまや、世界中のほとんどの国が、日本の現状にあきれ果て、見放しつつあると考えるべきだと思うのです。とりあえずお金だけはたっぷりある金満国ですから、せいぜい世界の財布として、上手に使ってやればいい、と、各国は日本のことを見なしているのです。
 日本はいま、こういう、きわめて厳しい状況に陥っています。日本が不景気なおかげで、世界中が迷惑していると思われていますし、かつてトップレベルを誇った工業技術の力も低下する一方です。また、国民の人心荒廃に至っては、世界最低と言っても決して過言ではありません。この現状を的確に認識し、今後のあるべき姿を明確に描き出すのは、第一には政治の役目だと思いますが、文化に携わる人々も、そこではたいへん重要な役割を担うことになると思います。むしろ、現実路線を行く政治家の先導役として、その先々を照らし出すのが、文化を創造し、広める人々の務めだと思うのです。
 そういった責任を担っている文化関係者の、総元締めといってもよい文化庁長官が、京都の古寺をライトアップし、笛や琴をならして外国人を呼び集め(おびき寄せ?)、伝統芸能に酔わせてお金を使わせよう、そうすれば経済も活性化するではないか、文化伝承と景気回復で一石二鳥だ、などと言うのは、あまりにもお気楽に過ぎるのではないでしょうか。もっと言うなら、この期におよんでそんなことをいっているから、外国からバカにされるのだ、と、声を大にしたいくらいなのです。
 しかし、河合氏の現状認識だけが問題を含んでいるのではありません。財務大臣の塩川正十郎氏は、しばらく前、記者団に対して「キミらマスコミが、不景気だ不景気だと騒ぎ立てるから、日本の景気はちっともようならんのだ。もっと希望のある報道をしたまえ」という主旨のことを述べていました。この論法でいけば、テレビや新聞が、日本の景気は完全に回復した、と連日報道すれば、日本の景気は良くなることになります。同じように、日本好きの外国人観光客が京都や奈良におおぜい集まってくれば、日本の文化が世界に貢献していると言えるのでしょうか。そのようなことがあるはずはありません。

 能や歌舞伎はファンタスティックですよ、華道や茶道はワンダフルですよ、襖絵や屏風はビューティフルですよ、相撲や柔道はエキサイティングですよ等々、そんなことをいくら宣伝してみても、そこで喜ぶ人もいればお金を儲ける人もいるでしょうが、文化が意味をもったことにはなりませんし、まして、日本人の精神性が高まることなど、ほとんど、否、まったく期待できません。文化をもつのは人間だけであり、「精神」を有するのも人間だけですから、文化とは人間精神そのものにほかならないと考えられるわけです。そうしますと、河合氏が述べているような「好きなことをするのが文化」というとらえ方は、根本的に問題があると言えます。「好きなことをして暮らすのが人間の生き方」と言っているのと同じなのです。
 これまで何度か引き合いに出したのですが、いま、日本の高校生の6割は、「楽をしてたのしく生きるのが人生の目的」だと考えています。これは、1年前に日本青少年研究所が行った調査の結果で、現在でしたら割合がさらに上がっているかも知れません。ですから、河合氏が理想としている考え方は、少なくとも10代〜20代くらいの若者の間には、かなり深く、広く浸透していると言えるわけです。
 問題なのは、こうした状態に比例して(と言いますか、反比例して)、若者の精神的な諸問題があらわになってきていることです。例を挙げ出せばきりがありませんが、近いところでは、不登校の問題があり、文科省が先頃発表した学校基本調査の結果によると、現在、小中学校を合わせての不登校児の数は13万9千人に上っており、この十年間では倍増しています。「不登校イコール精神的に問題があるとは言えない」等、議論の余地はありますし、二百万人を超えているとされるアメリカの現状と比較すれば、「たったの14万人弱」とも言えるわけですが、何とかして増加傾向に歯止めをかけようと躍起になっている中での激増ぶりなのですから、これはやはり大きな問題として捉えなければなりません。引きこもりの若者のうち相当数が、不登校の経験者であるとされており、不登校には根深さとともに、他の現象と関連し合っているという、すそ野の広さという問題もあります。
 また、同じく学校基本調査の結果によりますと、今春、大学を卒業した人のうち、約2割が就職も、大学院への進学もしなかったことが明らかになっています。この中には、海外へ留学したり、就職や進学の浪人も含まれていますが、文科省は、このほとんどがまったくの「フリー」であると見ているそうです。つまりこの人たちは、「大学を出たら就職しなければ」とか、「定職がないなんて、世間の手前、かっこうがつかない」とか、「いつまでも親のスネをかじってはいられない」とかの、ひと昔前でしたらごく普通だった社会通念など、おそらくほとんど念頭になく、フリーターやパラサイトに甘んじて、堂々と「好きなこと」をしているのです。その人たちを非難することが目的ではありませんので、これ以上は申しませんが、青年らしい覇気や活力からはずいぶん遠い人たちが増えていることは、残念ながら事実と言わなければなりません。また、こうした状態が、「文化」と呼べるものからは、はるかに隔たっていることもまた、事実です。文化庁長官としての河合氏の発言は、こうした現状を踏まえた上で、吟味されなければならないと思うのです。

 これまでも、「こころのとも」や、この「ひびきのさとだより」で述べてきましたように、「自己・他己双対理論」では、人間の精神が、自分に閉じた「自己」と、他者に開かれた「他己」という、矛盾した2つの「モーメント」から成っていると考えています。
 「自分の好きなことを、好きなようにしたい」と思うのは、自己に属する心の働きです。しかし、人間は(あらゆる存在の中で人間だけが)、自己だけではなく、他者を思いやって心を通わせ合おうとし、社会に配慮してその中で行動しようとする、他己をも有しています。そして、人間は、自己に傾きすぎても、他己に傾きすぎても、健全な精神状態を保つことはできません。両者のバランスをとり、再統合しながら、日々の生活を送っているのです。しかし、現代では、全般的な傾向として、人々の自己肥大と、その表裏として必然的に起こる他己萎縮が、急速に進んでいます。
 前号でもふれましたが、人間は、自分自身の中に存在の根拠をもっていません。別の言い方をしますと、生まれることも、死ぬことも、自分の自由にはできないのです。仏教で「生老病死」の四苦の教えを説いていますように、老いたくないと思っても自然に歳をとっていくことは止められませんし、健康を損ねたくないと思ってどれほど体に気をつけていても、病気を100%予防することは不可能です。
 「生老病死」に代表される、かぎりない制約と限界の中で、人間は生きていかざるを得ないという事実を一言にまとめれば、人間はだれしも相対的な存在である、ということになるのです。 
相対的な存在である人間は、一方において、他者により否定されます。具体的に言いますと、たとえば限られた食糧を前にしたとき、だれかの取り分が増えることは、別のだれかの取り分が減ることを意味します。現代日本のような飽食の社会に暮らしていれば、こういうことは実感として迫って来にくいと思いますが、ほんの少し考えの範囲を広げてみますと、国内物価に比べれば信じられないほど安い国際流通価格で、大量の農産品を輸入しているおかげで、大半の日本人はぜいたくができていることがわかります。むろん国内を見ても、農業に従事している人の収入は、それだけではとうてい「食っていけない」ほど、低いものです。以前「こころのとも」に書きましたように、北海道では年間の離農者が500軒にのぼっているという現実が、このことを如実に表しています。つまり、多くの人々の生活は、食糧生産者の犠牲の上に成り立っており、言い方を換えれば、生産者を否定して(食いものにして)その他大勢の人は生きながらえているわけです。また、サラリーマン社会を見ましても、誰かが出世して高給を取るようになることは、誰かが出世できずに安い給料に甘んじることを意味しますし、学生の受験競争で、誰かが合格することは、すなわち誰かが不合格になることに等しいわけです。つまり、実際の殺し合いや奪い合い、傷つけ合いには至らないまでも、実のところは、お互いがお互いにとってオオカミになり、相手を否定し合っているのです。
 しかし、このまた一方で、人間は、他者がいなければ、自分の存在すらがあり得ず、生活も成り立ちません。たとえば、誕生ということを考えた際、人間はだれでも、父と母という社会をなす2人の存在によって生まれてきます。その父と母もまた、2人ずつの両親をもっており、先祖を過去にたどっていくと、30代さかのぼっただけでも、たいへんな人数になります。これは、人間は多くの人に依存して、誕生のはじめから存在を許されていることを示しています。また、このことは、生物学的な出生の法則を意味しているだけではありません。私たちがヒトとして生まれて、文化をもった人間に育っていけるのは、実は両親をはじめとした社会のおかげです。ポルトマンという学者が、その著書『人間はどこまで動物か』(岩波新書)で書きましたように、人間ほど無力な状態で生まれてくる動物は他にありません。それは、生まれたときに無力であるほど外界からの影響を大きく受けることができ、それだけ文化の継承に都合がよくできている、ということなのです。ですから、人間にだけ、オオカミに育てられればオオカミ少女に育ってしまうようなことが起きるのです。つまり、人間は、自分だけで勝手に生きているのではありません。どこまでも、「社会」によって「生かされている」からこそ、「自分」が「生きている」ことができるのです。

 人間が、このような相対的存在であることを、いくら知識としてもってはいても、根本的に自己肥大と他己萎縮が進んでいて、自己に執着していれば、真に気づいていることにはなりません。そして、多くの人が、人間は自分の力で生きているのであり、個人の「生きる力」を伸ばし、発揮することこそ大切だと考えていれば、それ以外の価値観には気づきようがありませんし、示されたとしても、強い拒絶反応が起こるのです。
 揚子江やアマゾン川の濁った水の中で一生を過ごす魚にとっては、澄んだ水など無縁です。水が濁っていれば、視力に頼ってエサを探す必要はありませんから、しだいに目は退化していきます。ですから、澄んだ水に放されても、何も見えません。それでも、魚は黙って泳いでいますから、まだましであるとも言えます。
 自己(心の濁りや垢)に強く執らわれた人は、自分の価値観にない、清浄な世界を示されると、バカにして鼻先でせせら笑います。気の荒い人になると、「何だこんなもの」と怒って、攻撃すらしてくるのです。
 しかしながら、人間にとっての、真の幸福や安心は、自己に執らわれている限り、訪れては来ません。究極的には、自分の死を、他人の死と同じように、客観的に受け入れることができなければだめなのです。人間の社会全体の安心も、自分を受け入れるように、皆が他者を受け入れるようにならなければ、実現しません。自分が生きるということと、他者が生きるということとは、自分への執着を捨てれば、実はまったく等しいことなのです。この世のあらゆる存在の中で、人間だけが、自己と他己から成る「精神」を宿し、弁証法的な二重性の中に生きているというのは、こういうことなのです。
 人間は、自分だけが生き延びれば、自分だけがおもしろければ、自分だけが楽をできればよいのではありません。他者の悲しみは即、自分の悲しみ、他者の痛みは即、自分の痛み、他者の空腹は即、自分の空腹なのです。そういう「人の心を感じるこころ」をもっているからこそ、ヒトは人間なのです。

 このような、自他統合の心境に至るというのは、自分の頭の中で好きなように考えて実現できることでは、決してありません。むろん、最終的には、個人の内部における体験がすべてではあるのですが、自分勝手な思い込みは、それこそまさに自己への執着にほかならないのです。
 自他統合、すなわち解脱、人格完成の境地は、その境地に至ってでないと、その何たるかを味わうことはできません。そこに至るプロセスがどれほど高まっても、その途中で「悟る」ことはないのです。99.999…%の、自他統合に至っていない人々にできるのは、その境地に達した人を信じ、その説くところに従って精進を重ねることだけです。そのときに、たとえ死ぬまで自他統合にいたることがなかったにしても、人生の中で間違いや悪を犯すことなく、幸せに生きていくことができるのです。そのためには、相対な存在である自分を超えた、絶対な境地があることを信じる、信仰心が不可欠です。「自分の好きなようにしたい」「好きなようにできるはずだ」「自分には好きなようにする権利がある」等々のはからいは、邪魔なのです。

 現代日本の自己肥大、他己萎縮の風潮は、上に述べたことの正反対をいくものです。それを代表するものとして、河合氏による一連の発言があるのです。
 毎日新聞のインタビュー記事は、見出しに「考え、伝える力を/国際交流と教育に期待」と掲げており、先ほどの引用に繰り返しになりますが、本文中で河合氏は次のように発言しています。

(子どもたちには)自分なりに考えて意見を発表する力をつけてほしい。

 「自分なりに考えて」発表するのであれば、内容の如何は問われません。間違っていようと、自分勝手であろうと、とにかく「言う」「言える」ことが第一に求められるのです。かんじんなのは、真偽、正邪ではなく、同調者を増やせるだけの「説得力」(それはほとんど詭弁術に等しいと言えます)がどれだけあるか、ということです。巧みな弁舌によって、多数の人が賛成すれば、それが正しい意見になるのです。
 あることが真か偽か、正か邪か、ということは、何かの基準に照らしてみなければ判断できません。しかし、現代の社会、とくにこの日本では、そういう外的な基準がほとんど崩壊しており、個々人が自分の利益と選好に基づいて判断するのが当たり前になっています。いちいち実例はあげませんが、裁判すら、この傾向をまぬがれるものではありません。それはすなわち、他己がなくなった、ということなのです。

 続いて次のような箇所もあります。

 −−−どこかで社会の最低限の規範、ルールをはっきりと示すことが必要だ、と。
 ◆そう。少なくとも親は子に対して「オレはこう思う」「それはいやだ」とはっきりと言わないといけない。


 「最低限」かどうかはおいておくとして、社会の規範、ルールを形づくるものは、他己にほかなりません。その他己が失われた中で、つまり信じるものも、頼るものも、何もない中で、親が子どもに「オレはこう思う」「それはいやだ」と言ったら、どうなるのでしょうか。親の損得や好き嫌いが、ストレートに子どもにぶつけられることになります。
 「オレはなあ、お前がおらなんだらもっと好きなことが思いっきりできるのにって、毎日思うとんのやで」、「何が嫌やいうて、お前の顔みるのがいちばん嫌やな」と親が子に「はっきり」言ったら、子どもの心はどうなるでしょう。いや、こういう会話は、もはや多くの家庭でごく当たり前になっているのかも知れません。これほど幼児・児童虐待が蔓延している現状からしますと、そう考える方が当たっているとすら思えます。

 子供たちと接していると、とても自由でおもしろい。それがだんだんおかしくなるのは、まさにそんな大人の問題だ。・・・まず、「子供たちにスジを通し、あとは自由」という姿勢を貫くことが一番いい。

 今の子どもたちを「とても自由でおもしろい」という河合氏の見方は、どこから来るのでしょうか。氏のいろいろな発言から推測しますと、多くの子どもたちが、自分の考えたことや言いたいことを、遠慮せずに、堂々と、それは言い換えれば、他者や社会に配慮せず、自分勝手、好き放題に表現する姿を見てのことではないでしょうか。この価値観に立つなら、学級崩壊を引き起こすような子どもも、いや、そういう子ならよりいっそう「自由でおもしろい」ことになると思うのです。
 河合氏は、そういう「自由でおもしろい」子どもたちが、大きくなるにつれて「だんだんおかしくなる」と述べています。しかし、子どもたちの悪口ばかりを言っている、と誤解されると困るのですが、多くの子どもたちが、いま、「だんだん」どころではなく、幼いうちからすでに「おかしく」なっています。
 自己肥大、他己萎縮の価値観を通して見れば、実際の「おかしさ」も、「子どもらしさ」に映るわけで、体が小さく、腕力も口もたいしたことがないうちは大人が抑えられますが、小学校高学年くらいに成長し、思春期を迎えるころになると、だんだん大人の手には負えなくなって、「本格的におかしい」とあわて始めるのだと思います。子どもの様子は、本質的に変わっていないのですが、それを見る大人(の都合)が変わっているのです。
 そして、こうした子どものあり方は、あらゆることが大人自身の鏡そのものなのです。その点で、「まさに大人の問題だ」と河合氏が指摘していることは当たっていると言えるわけですが、その「大人の問題」の本質が何かということを、河合氏は十分に明らかにしているわけではありません。
 「子供たちにスジを通し、あとは自由」という姿勢を貫くことが一番いい、と、氏は述べていますが、かんじんの「スジ」の中身については触れられていないのです。あえて読み取ろうとすれば、「オレはこう思う」「それはいやだ」とはっきり言うことが「スジ」である、となるのかも知れません。しかしそれだけでは、「スジ」でも何でもない、単なる親の執着を、子どもに押しつける危険性の方が、はるかに高いのです。
 「スジ」とは、社会的な規範であり、倫理です。普遍性をそなえた原理、原則です。すなわち、他己にほかならないのです。それは、個々人が好きなように考えてつくり出せばよいのではありません。長いあいだにわたって、社会に受け継がれてきたものを信じ、従うのです。現在の日本が、もっとも失っている姿勢であり、もっとも嫌っている考え方です。ありもしない「スジ」を通せといったところで、ないものは通しようがありません。
 河合氏の意見は、次のようなことばで締めくくられています。

 自由でおもしろい子供たちに、どのように社会的な判断力をつけさせるかが、現在の日本の大きな課題だ。

 「社会的な判断力」といいますのも、本来は他己そのものです。子どもにつけさせることを云々する以前に、大人がそれを身につけているのかどうかを反省しなければなりません。現実はどうかといえば、インタビュアーの池田氏が冒頭に、「モラルハザードが表面化している」と嘆いているとおりです。そういう大人によって育てられ、教育される子どもたちに、どうしてまともな「社会的判断力」がつくというのでしょう。そのことを真剣に目指すのであれば、まず当の大人自身が、みずからを振り返り、恥じ入らなければなりません。このあいだ国会議員を辞職した田中真紀子氏は、「隗より始めよ」という名(?)台詞を残しましたが、自分にできもしない(自分がしてもいない)ことを、他人には厚かましく要求する人が、いまどれほど社会にあふれていることでしょうか。
 大人たちが、自己を抑えて他者をたて、社会の「法」に則って、悪を犯さずに正しく行動していれば、ことさら押しつけがましく教育しなくても、子どもは大人の姿を見て、自然と同じように育っていきます。また、大人が反対のことをしていれば、子どもも勝手にそうなっていくのです。善きにつけ悪しきにつけ、人間の「文化」はそのように伝わっていくものなのです。

 インタビュアーの池田氏は、河合氏とのやりとりをまとめた後に、こう記しています。

 日本人それぞれがいかに自らの哲学をもてるか。そこにしか羅針盤のない時代を生きる希望はないのだろうか。

 揚げ足をとるように思われるかも知れませんが、池田氏のこの言葉は、河合氏の意見も、現代を生きる羅針盤にはなり得ない、と言っていることになります。他者の考えは頼りにできない、また頼る気もない、「自らの哲学」をもって生きるしかないのだ、ということなのです。この考え方はまた、多くの日本人の共感を呼ぶところだと思います。
 しかし、相対な存在である人間が、「自らの哲学」をもつなどというのは、自己への執着を強めること以外の、何ものでもありません。平たく言えば、自分の頭の上に自分で立とうとするようなもので、ひっくり返ることは必定なのです。自分1人がひっくり返るだけなら、自業自得ですむかも知れませんが、たいていそうはいきません。家族(とくに大きな影響を受ける子ども)や身近な人を巻き添えにして、大きな迷惑をかけることになります。仏教のことばで言えば、業(ごう)のままに生きる人が、あらたな業を周囲の人に背負わせる、ということなのです。
 人間にできるのは、絶対な境地を説く哲学を信じて、その教えの通りに実行することだけです。このことを人々に広めることこそ、文化本来の、もっとも重要な役割なのです。
 いま、日本と日本人は、こうしたあり方や生き方から、世界でいちばん遠いところにいます。その結果、社会は惨憺たる有り様を呈しています。日本の文化が、これから世界に貢献できるとすれば、それは、自己に閉じて他己を失った人間がどうなってしまうのかを、現実の姿で示し、それでもそこから抜け出せる可能性があるということを、みずからの身をもって示すことです。
 前の方で、マハティール氏の言葉を紹介しましたように、日本がいま、世界から、「ああいうふうにだけは、なってはいけない」という、いわば反面教師としての存在意義だけを認められています。河合氏は、「私は日本の社会を悲観的には見ていない」と言っていますが、悲しいかな、現実はそうなっているのです。
 もし、日本と日本の文化が、世界の反面教師ではなく、建設的で積極的な意味において貢献できるとすれば、上に述べましたように、人間の精神のあり方と、その危機、および克服の道すじを、具体的に訴えていくことだと思うのです。



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