ひびきのさと便り



No.30 子育てから消える「不妄語戒」  ('02.10.8.)

 毎日新聞には、毎週日曜日、「子育て相談ルーム」という欄があり、子育てに関する読者からの質問を受け付けて、それに対する専門家の回答を掲載しています。9月1日、寄せられた相談に答えていたのは、東京心理教育研究所長の、金盛浦子氏でした。
 まず質問を引用させていただきます。

親の意見が異なる
 ・・・3歳の息子がいますが、夫は私と子育てに関する意見が全くといっていいほど合いません。極端な例として私が「うそをついてはいけない」と言うと、夫は「うそをついて、うまくいくならそれでいい」と言います。こういうふうにうそをつくといいと教えるほどです。こんなに方針が違う両親のもとで育つ子どもは人の顔色ばかりうかがうようになるのではないか、心配です。 (東京・29歳女性)

 相談された女性の夫が言っていることは、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、この「ひびきのさとだより」の、「No.26 法意識はなぜ変わったか」(8月2日付)で検討したことと、まさしく重なっています。このこと自体、かなり深刻で、ある意味においては興味深い問題なのですが、それはとりあえずおいておきまして、質問に対する金盛氏の答えを引用させていただきます。少々長くなりますが、ぜひ読んでいただいて、ご一緒にお考えくださればと思います。

むしろ思慮する力をはぐくむ
 ・・・ことの程度はともかくとして、子育てに関する両親の意見が異なるのは、当然のことであり、そうあってしかるべきだと私は考えています。
 家庭の中を統一された一つの意見や見解が支配している、そうした中で育つと、社会における意見や見解の多様性を受け入れがたくなる。つまり視野や価値観の狭い、共感性の乏しい人に育ってしまいます。・・・ 
 ・・・お母さんが「うそをついてはいけない」と諭す。その場面に他の意見が介入するのは好ましくないに違いありません。しかし、その後のどこかでお父さんが、「まあ、つい、うそをついてしまうことがあるのも人間だよな」と語ってあげる。すると、子どもの心には、うそをついてはいけないという理念と同時に、時には理念を逸脱する場合もあり得るのだという人間的な幅の広さが培われます。
 うそ、盗み、ごまかし。そんなことをしたときの心地悪さ、罪悪感はあえて厳しく教え込むものではありません。自分の心のあるがままを開ける子であれば、あえて教えなくても感じ取ります。そこにこそ、本物の節度、道徳観、正義感の目覚めがあります。
 親の顔色をうかがう心は、厳しい追及や叱(しか)ったことの結果であり、思考停止という弊害をも招きます。意見の多様性は、むしろ思慮する力を育みます。
 うそをつくにはさまざまな理由があり、単純に良い悪いで線引きし断罪することはできません。それが人間の人間たるところです。
 さてさて、あなたはうそをついたこと、ありませんか? 意見の相違を互いに認め合える懐の深い夫婦関係、築いてみたくはありませんか。
(アンダーラインは中塚)


 さて、これを読まれて、どのようにお感じでしょうか。
 私は、率直に申し上げて、驚きを通り越して呆れる思いがしました。また、質問者である29歳のお母さんに、同情すら感じてしまいました。適切なアドバイスが示されなかったばかりでなく、聞かなかった方がはるかにましと言えるようなことを答えられてしまい、よけいに悩みや混乱が深まったのではないかと想像されるからです。 
 私は、回答者である金盛氏のことを十分には存じませんし、当然、この方に対して何らの偏見も反感もありません。申し上げるまでもないことですが、ここでは、程度の低い個人攻撃をしたいのではなく、「三大新聞」の1つとされる大きな公共報道機関によって、このような考え方が広まり、これを読んだ大多数の人が「なるほど」「その通りだ」「こうでなければ」といった感想を抱くであろうことの問題について、検討したいと思うのです。

 まず最初にはっきりとさせておきたいのは、人間は、人間として、人間らしく生きるために、「うそをついてはならない」ということです。
 金盛氏は、うそをつくことも「人間的な幅の広さ」だとしていますが、そんなことはまったくの間違いです。こういう言い分が通ってしまうのであれば、食品メーカーの偽装ラベル問題も、賞味期限のごまかしも、原子力発電所のトラブル隠しも、医療ミスの証拠隠滅も、全部が全部、「人間的な幅の広さ」でカタがつくことになります。うそをつき、人をだまし、悪事をごまかし、私腹を肥やして自分が得をするために行動する、それこそが人間らしい行いだ、ということになってしまうのです。
 こう極端に書きますと、金盛氏は「そうは言っていない」と否定なさるかも知れません。しかし、氏の回答を少しばかり露骨な表現にすれば、こうなってしまうのです。多少、程度の差はあっても、本質的には何ら変わりがない、ということです。
 いまの日本からは、「うそをついてはならない」という規範意識が、ほとんど失われています。うそをついても、ばれなければいい、と考えている人が、圧倒的多数を占めているのです。質問者のお母さんの夫が、「うそをついて、うまくいくならそれでいい」と言っているのは、まさしくそのあらわれですし、企業や政治家などによるうそが、連日ニュースで取り上げられる様子から、日本社会で、誰もがうそをつくのは当たり前になっていることがわかります。そして、金盛氏の回答は、(ご本人の意図ではないにせよ)その風潮をさらにあおり立てるものになっているのです。
 今回、表題にもあげましたように、「うそをついてはならない」というのは、仏教で言う「不妄語戒」のいましめです。つねづね「こころのとも」でも触れていますが、仏教には、誰でもが守らなければならない戒律として「五戒」があります。それは、@不殺生戒、A不偸盗(ふちゅうとう)戒、B不邪淫戒、C不妄語戒、D不飲酒(ふおんじゅ)戒、の5つです。これらのいましめは、解釈の余地が多少はあるにしても、絶対なものです。「まあ、つい、うそをついてしまうことがあるのも人間だよな」などという、相対的でいいかげんな価値判断で破っていいようなものではないのです。
 「うそも方便」ということばがありますが、これは、自分の利益のためではなく、相手を幸せにするためなら、うそを言うことも許される、とする教えです。たとえば、ガンの患者に病名を告知しなかったり、死に瀕している人に「大丈夫だ、がんばれ」と言って励ましたりするような場合です。
 金盛氏は、「うそをつくにはさまざまな理由があり、単純に良い悪いで線引きし断罪することはできません」と述べていて、この方自身、うそをつくことに対する善悪の判断がまったく欠如しているとしか言いようがありません。この価値観でいきますと、「自分の利益のためにうそをついてもいい」ということになります。むしろ「自分の利益のためにうそをつくことこそ人間らしい」と奨励することにすらなりかねないのです。

 「うそをつくのが人間だ」と言うのなら、その人は、自分がだれかからうそをつかれたとしても、怒ったり叱ったりするのではなく、「人間らしいつきあいをしてくれたなあ」と、かえって喜ぶべきだ、ということになります。
 金盛氏の場合でしたら、たとえば詐欺にあって、氏が所長を務める研究所がだまし取られ、身ぐるみはがれて一文無しとなり、路頭に迷うようなことになっても、「それでこそ人間というものです。人をだましてまで欲しいものなら、どうぞお取りなさい。足りなければ、遠慮なくそう言いなさいよ」と、「泥棒に追銭」をしなければならないのです。そして警察が犯人を捕まえたり、裁判になって有罪判決が下ったりするようなことには、積極的に反対しなければなりません。金盛氏がそうなさるかどうかはわかりませんが、可能性は低いと思います。
 こんなことが横行したら、社会が崩壊したに等しいのは、誰にとっても明らかなことだろうと思いますが、いまの日本は、ほとんどこの状態に陥っています。何が正しくて、何が間違っているのか、何が善いことで、何が悪いことなのか、何がすべきことで、何がしてはいけないことなのかといった、判断基準、規範、倫理が失われています。本来、規範や倫理といったものは、人々がそれを信じ、従うものです。個々人の相対な価値観、つまり自分勝手な思い込みやこだわり、損得や好き嫌いを超越した、絶対な真理なのです。相対的な人間が寄り集まって、話し合いや多数決で決められるようなものではありません。いつも言っていますように、真偽や善悪が話し合いで決まるのでしたら、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」になってしまいます。
 相対的な人間を超えた絶対の境地や、そこで説かれる教えに従うのは、信仰をもつことにほかなりません。世界で唯一、信仰や宗教を失った日本人の価値観が混乱し、転倒するのは、当たり前と言えば当たり前のことなのです。

 今回、この記事を読んで、今からもう十年以上も前に、知り合いの方から聞いた話を思い出しました。それは、別のある若いご夫婦のエピソードなのですが、ある日、その奥さんが、当時2歳くらいだったお子さんを連れて、スーパーに買い物に行ったそうです。必要なものをカゴに入れてレジを通り、会計をすませて、買ったものを袋に入れようとしたとき、ふとお子さんの手元を見たら、買っていないはずのお菓子が握られていました。どうやらお母さんの気づかないうちに、目についたお菓子が欲しくなり、持ってきてしまったようです。お母さんはあわてて、「黙って取ったらいけないのよ」とたしなめ、通り過ぎてきたレジに逆戻りして、店員さんにわけを話し、お菓子の代金を払ったそうです。
 さて、問題はこの後です。奥さんはその晩、仕事から帰ったご主人に、ことの次第を話しました。そうしましたら、そのご主人は奥さんに向かって「お前はなんてバカなんだ」と、烈火のごとく怒った、というのです。ご主人に言わせますと、「店員が気づかなかったんだから、もらってくりゃいいじゃないか。わざわざ金を払いに戻るなんて、まったくお前は間抜けだ、話にならん」ということなのです。
 その奥さんは私の知り合いの方に、「本当に私がおかしいんでしょうか、それともおかしいのは主人の方なんでしょうか」と話され、その方もさすがに「それはご主人が間違っていると思いますよ」と、はっきり言われたそうです。
 人の物を取ってはいけない(不偸盗戒)、たとえ触るだけであっても、相手の了解を得てからでなければいけない、ということを子どもにしつけるのは、親としての大事な務めです。そのとき、親のどちらかが「そんなことをしてはいけないよ」と言い、どちらかが「いいんだよ、ちょっとくらい」と言ったのでは、子どもは混乱します。お父さんとお母さん、どちらの言うことが正しいのか、どちらの言うことを聞いたらいいのかがわからなくなります。
 しかし、金盛氏の回答によりますと、お父さんとお母さんの意見や見解が統一された家庭の中で育った子どもは、「社会における意見や見解の多様性を受け入れがたくなる。つまり視野や価値観の狭い、共感力の乏しい人に育ってしま」う、とのことです。お父さんとお母さんとで意見が異なるのは、「当然のことであり、そうあってしかるべきだ」というわけです。これは、少しことばを換えますと、子どもにとっては価値観の混乱が起きることの方がむしろ望ましい、と言っていることになると思います。混乱が望ましい、というのが言い過ぎならば、「価値観などもたない方が、多様な意見を受け入れることができ、共感力の豊かな子どもに育つ」、ということになるでしょうか。
 ここで紹介したエピソードでしたら、後日、お父さんがお子さんに、「欲しいモンは取ってまうのが人間ちゅうもんや。ほんでな、今度お菓子を取ったら、ママにも見つかったらあかん。取ったらいつまでも手に持っとらんと、すぐポケットにしまうんやで。見つかって怒られたら、返しておけばええ。ハイ、パパの真似して練習してみ」と、万引きの手ほどきをした方が、子どもは広い視野や価値観をもつように育つ、ということになるのです。

 うそや五戒についての議論から、話題が拡大しますが、いま、実態として、家庭で両親の意見や見解が統一され、2人の価値観や生活態度が、子どもへと積極的に、信念に基づいて伝えられたりしつけられたりしている、というケースは、さほど多くないように推測されます。
 その例として、今年6月に内閣府が行った、「国民生活に関する世論調査」の結果を見てみます。この中に、14番目の質問として、「あなたにとって家庭はどのような意味をもっていますか」というものがあります(複数回答可)。これに対する答えでもっとも多かったのは、「家族の団らんの場」の60.2%でした。その次には「休息・安らぎの場」の54.0%、「家族のきずなを強める場」の45.1%などが続いています。
 子育てに直接関係する項目としては「子どもを生み、育てる場」と、「子どもをしつける場」の2つがありますが、前者の回答率は21.4%、後者はさらに下がって16.4%でした。これらの数字を高いと見るか低いと見るかについては、いろいろと言いようがあるにしましても、団らんや休息と比べて、子育ての重要性がそれらの半分以下に過ぎない、ということは事実です。
 なお、回答した人々の年齢構成ですが、20歳以上の男女が調査の対象で、人数のピークはだいたい40歳台から50歳台にあります。一般的に考えて、児童期〜思春期、またはそれ以降の子どもをもっているであろう方々が、回答者の多数派を占めている、ということです。
 そうした、いわゆる子育て世代の人々が、家庭の役割として、団らんや休息(これらはすなわち、どちらかと言えば親自身の楽しみや「癒し」であると考えられます)に比べると、子育てやしつけにはウエイトをおいていない、という実態があるのです。このことからしますと、いま、多くの家庭では、子育てに関する夫婦間の意見統一は、あまりされていないと見るのが妥当だと考えられます。

 こうした家庭のあり方を金盛氏の論法に当てはめますと、日本では、多くの子どもが、広い視野や多様な価値観をもち、他者への共感力が豊かになっている、となるはずです。しかし、子どもたちの実態はどうでしょうか。
 不登校の子どもたちの数は、調査開始から増加の一途をたどっており、新聞などで報道されましたように、先日発表された数値は14万人に迫る勢いです(中学生では平均して1学級に1人を超えています)。いじめの問題もほとんど解決されていませんし、校内暴力は低年齢化(高校、中学から小学校へと波及)の傾向があります。
 また、若者の引きこもりは、世界で日本だけに特異な現象です(今のところ、に過ぎないのかも知れませんが)。さらに、青少年による凶悪犯罪もあとを絶ちません。ついこの間は、家族を恨んだ高校生が、仲間を呼んで、あるいは単独で家族を殺したり傷つけたりしたという事件が連続して起きました。どちらも、ひと昔、ふた昔前でしたら、社会に大きな衝撃を与え、数年は風化しなかったと思われる凶悪な犯罪のはずですが、今ではもうめずらしくも何ともないのか、新聞やテレビの扱いもたいしたことはありません。
 精神や行動の上で問題を抱えていたり、犯罪を犯してしまったりすることはなくても、日本では、多くの子どもや若者の心がすさんでいるという例は、いろいろと挙げることができます。
 日本では、8割以上の高校生が、「親や教師に反抗することは本人の自由」と考えていることや、6割の中学生が「楽をしてたのしく生きるのが人生の目的」と考えていることなどは、これまでも紹介してきました。そしてまた今年、日本青少年研究所が、「高校生の未来意識に関する調査」としまして、日本・米国・中国の3カ国間比較を、インターネットで公開しています。詳細について関心がおありの方は、同研究所のホームページをご参照いただければと思います。集計結果から、数値が目立つものをいくつか挙げてみますと、次のようなものがあります。

「先生に親しみを感じる」ことがよくある: 日10.4% 米42.4% 中34.2%
「校則がなければよいと思う」ことがよくある: 日44.8% 米22.8% 中18.6%
「勉強する習慣が身についていない」と、全くそう思う: 日53.4% 米33.9% 中8.5%
「自分はダメな人間だと思うことがある」というのは、自分の考えによく当てはまる:  日30.4% 米11.9% 中11.1%
「自分に起こったことはすべて自分の責任である」というのは、自分の考えによく当てはまる: 日27.0% 米44.9% 中56.2%
「現在持っている大切な夢(希望)は何ですか」
  希望の大学に入学できること: 日32.9% 米64.6% 中79.9%
  親に自分のことをわかってもらうこと: 日6.2% 米28.3% 中14.5%
  先生に理解されること: 日1.5% 米12.2% 中4.2%
  思い切り遊んだり、好きなことをしたりすること:  日48.6% 米38.0% 中17.2%
「学校を選ぶ場合」
  一流であることはとても重要: 日10.6% 米40.4% 中65.2%
  学問水準が高いことはとても重要: 日14.0% 米39.9% 中69.4%


 これらのデータから、ただちに、日本の子どもや若者の「心がすさんでいる」と言うことには、抵抗をお感じになる方がいるかも知れません。しかし、少なくとも、広い視野や多様な価値観、豊かな他者への共感力などを有している、といった状態からは、ずいぶんかけ離れていることは指摘できると思います。しかも、そういう若者が、アメリカや中国と比べたとき、日本に際だって多いことが明らかなのです。
 この原因を、いくつかの観点から詳しく検討することは、別の機会に譲ることにしますが、親による子育てのあり方が、きわめて大きな影響をおよぼしていることは、ほぼ明らかだと思います。そしてそこでは、金盛氏がむしろ良いとしている、子育てに対する意見や見解の不統一(あるいは方針のなさ)が、大きな要因になっていると考えられるのです。 さらにその根本には、日本人が信仰、宗教を失ったことがあります。別のことばで言えば、思想や哲学の喪失、普遍的な原理原則の欠如があるのです。そして、信仰などを失ったこと、もたないことをむしろ良いことと主張する日本人は多く、その間にも、人々の心の荒廃がどんどん進んでいるのです。

 お父さんだけ、お母さんだけという場合は別としまして、どの家庭にも父母(夫婦)の間に、なにがしかのバランスが存在しています。では、子どもにとって、あるいは家族全体にとって、望ましいバランスとはいったいどのようなものだと言えるでしょうか。
 このことを考えるのに、かつて私が指導した学生が行った研究*は、たいへんに大きな示唆を与えてくれます。その内容と結果は、おおよそ次のようなものでした。なお、研究に協力してくださったのは、自閉症児をもつご家庭のお父さんとお母さんでしたが、ここから得られた知見は、子どもの障害の有る無しには関わらない、一般性の高いものであると考えられます。
 まず、私が開発しました、障害児をもつお母さんの精神的ストレスの高さを客観的に測定することのできる「ストレス尺度」を、協力してくださったお母さん方に答えていただき、その結果から、ストレスの高い「高ストレス群」と、ストレスの低い「低ストレス群」の2グループに分けました。
 もう1つ用いたのは、これもかつて私が、「自己・他己双対理論」の実証的研究のために開発した、「自己・他己検査」です。この検査は、簡単に申しますと、人々がふだん、「自己」と「他己」のどちらを重んじて生活しているかという、価値の志向性を問い、それを数値化して表示できるようにしたものです。
 検査は、「@欲望追求」、「A社会貢献」、「B他者志向」、「C出世追求」、「D自己追求」、「E秩序尊重」という、6つの尺度からなっています。尺度名から想像していただけると思いますが、第1・第4・第5尺度は、自己を優先する生き方を、一方、第2・第3・第6尺度は他己を優先する生き方を示しています。
 さて、ストレス尺度に答えていただいたお母さんに、自己・他己検査にも協力していただきました。そして両者の関係を比較検討しましたところ、高ストレス群のお母さんは、自己・他己検査の、「@欲望追求」と「C出世追求」において高い得点をマークする傾向が現れました。これは、高いストレスを抱えるお母さんが、他己より自己を優先させる場合が多いことを示しています。低ストレス群のお母さんではどうだったかと言いますと、高ストレス群のお母さんと正反対の結果が出ました。つまり、「B他者志向」と「A社会貢献」で高得点をマークする傾向があり、自己よりも他己を優先するお母さんは、ストレスをあまり感じていないことが明らかになったのです。
 お子さんに障害があってもなくても、子育てには多大な時間と、エネルギーが必要です。自己を優先したいお母さんにとっては、子育てが大きな心理的負担になるのです。つい「この子さえいなければ」と思ってしまいがちです。そうすればもっと仕事ができるのに、お金をかせげるのに、楽ができるのに・・・。こうした思いが高まると、お父さんとの衝突も生じることが多くなります。そして、ますますストレスが高くなり、その解消を、欲望の追求に向ける、しかし、欲望を完全に満たすことはできず、さらにストレスが高まる、という悪循環が生じてしまうことが考えられます。
 一方、生き物の中で唯一、自己と他己という「精神」をもつようになった人間は、他者と心がつながっているということを実感できるときだけ、本当の幸せと、生きている喜びを感じられる、と言えます。ですから、他己を優先させ、他者との心の通い合いを大切にしているお母さんが、ストレスを感じずにすんでいるというのは、この、人間性の本質と照らし合わせて考えてみれば、実はごく当たり前のことでもあるわけです。人間の幸せと生きている喜びは、心と心のつながりにあるということが、この研究によってデータ的に裏付けられたとも言えます。
 さて、ここでの本題は、夫婦間のバランスということですので、そちらに話を進めます。この研究では続いて、お母さんのストレスの高低にしたがい、お父さんを2つのグループに分けました。そして、お父さんにも自己・他己検査に協力してもらい、ストレスの高いお母さんの夫と、反対にストレスの低いお母さんの夫とでは、自己と他己の優先の仕方に、それぞれどのような傾向があるかを調べたのです。
 この結果、次のようなことがわかりました。まず、高ストレス群のお父さん(つまり、お母さんが高ストレス群に属しているお父さん)は、反対の低ストレス群のお父さんに比べて、「@欲望追求」と「C出世追求」の得点が高くなる傾向がありました。妻のストレスが高い場合、その夫は欲望と出世を追求していることが多い、というわけです。
 低ストレス群のお父さんに特徴があったか、といいますと、こちらのお父さんは、「B他者指向」と「E秩序尊重」の尺度得点が、高ストレス群のお父さんよりも高くなる傾向がありました。つまり、他人を気づかい、秩序(約束やルール)を守ろうと努力する夫がいると、その妻はあまりストレスを感じない、ということです。
 欲望と出世を優先する生き方は、自己を優先させる生き方です。お母さんがこうだと、お父さんもこうなっているのです。反対に、他者や秩序、あるいは社会を優先する生き方は、他己を優先する生き方です。これもまた、お母さんがこうなら、お父さんもこうなっていることがわかりました。そして、前者のような夫婦ですと、妻の精神的ストレスが高まり、後者のような夫婦では、妻のストレスは低くなっているのです。このような夫婦間のバランスや、妻(お母さん)のこころのあり方が、子育てにきわめて大きく影響することは、想像に難くありません。

 さらに、この研究では、もうひとつ、たいへん興味深いことが明らかになりました。それは、お母さんが低ストレス群に属しているお父さんでは、お母さんが高ストレス群のお父さんに比べて、「D自己追求」の得点が高くなるという特徴があらわれたことです。
 これは、前段で申し上げた、「自己より他己を優先する夫の妻は、ストレスが低い」という結果と矛盾するように見えます。しかし、このことは次のように解釈できるのです。
 「D自己追求」の尺度は、次のような3つの項目からなっています。

 「より善い明日を目指して生きていきたい」
 「自分の生きがいを見つけたい」
 「自分の可能性にいつも挑戦する人でありたい」


 これらはどれも、出世、金もうけ、名誉、権力などを求める、世俗的な欲求ではなく、「生きる意味」「人生の目標」などといった、人間として生きていく上での、精神的な価値を指すものだと言えます。これは、家族や世間をないがしろにして、自分の欲望やしたいことを追求するのではなく、「こうありたい」「こうあるべきだ」という願いが、他者や社会に開かれたものになっている、と言うこともできると思います。お父さんのこうした思いをあらわす「自己追求」尺度の得点が、お母さんが低ストレス群にいる場合は高くなり、反対に高ストレス群にいるときには低くなっているのです。
 この、「自己追求」尺度の得点が高いお父さんは、家庭や子どもを振り返らないまま、自分の欲求や願いだけを追い求めているわけではありません。家族に注ぐエネルギーと、自己追求への情熱が、完全に一体化している、と考えられます。父親としてのあり方を通して感じる悩みや苦しみ、そして喜びが、自己追求への情熱をさらに燃やし、また、自己を追求することによって高まった人間性が、父親としてのあり方をよりよいものにしているのです。その結果、家庭に幸せがもたらされ、お母さんのストレスを低めることに影響している、と推測できるのです。
 ここでの研究から得られたことをまとめますと、次のようになると思います。
 まず、お父さん、お母さんが、ともに自分自身の欲望の追求はほどほどにして、それよりも、つねに社会へと心を開き、他者のために何かをしてあげたいと思っている、こうした夫婦であれば、2人とも精神的にかなり安定し、お互いの関係も良好なものになるだろうと考えられます。そして、お母さんはとくに、夫や子ども、それから世の中の人々に対してやさしく、ほがらかに接したり、細やかな気配りをしたりすることが望ましいようです。いつでも、周りの人たちをあたたかく包み込むようなお母さんであってほしい、ということです。一方、お父さんは、仕事や社会的な立場の中で、あるべき自分の姿を見据え、そこに向かって力強く前進していく姿勢をもつことが望まれます。
 もちろん、お父さんとお母さんが助け合い、支え合うのが大切なことは言うまでもありません。とくに人間は、「人の心感じるこころ」によって、他者とのこころのつながりを実感できることが、生きていく上で何よりも大切ですから、お互いにいちばん近い存在である夫婦が、いつもコミュニケーションをしあい、こころとこころを通じ合わせているのは、幸せな夫婦関係、ひいては親子関係、家族関係を築く上で、きわめて大切なことだと言えます。

 すでに引用しましたが、金盛氏の回答は、次のように締めくくられています。

 さてさて、あなたはうそをついたこと、ありませんか? 意見の相違を互いに認め合える懐の深い夫婦関係、築いてみたくはありませんか。

 金盛氏がここで言われる「意見の相違を互いに認め合える懐の深い夫婦関係」というものは何なのか、回答の内容から察する限り、「うそをつくにはさまざまな理由があ」ることに気を配り、お互いが「単純に良い悪いで線引きし断罪すること」のない間柄、ということになるでしょうか。しかしここでは、「決してうそをついてはならない」という、人間としてのあるべき姿が、まったくないがしろにされています。「だれだってうそはつくでしょう。あなたはうそをついたことありませんか? 生まれてから一度も? 自分がうそをつくくせに、人にはそれを禁じるんですか? 人のうそは責めるんですか?」と迫り、「人間は誰しもうそをつくもの」、「したがって、人間である以上、うそは許され、正当化されてしかるべきである」となってしまったら、人間関係や社会のけじめ、秩序はどうなってしまうのでしょうか。それを「懐の深い夫婦関係」と言ってしまうのは、詭弁と指摘されても仕方がないように思えます。
 真偽や善悪のけじめをつけずに「互いに認め合う」といいますのは、お互いに正しいとも言わず、間違っているとも言わない、善いとも言わず、悪いとも言わない、するべきだとも言わず、してはいけないとも言わない、等々と同じことです。これは反対に言えば、何でも正しいんだし、何でも間違っている、何でも善いことで、何でも悪いこと、何でもしてよくて、何でもしてはいけない、俗なひとことでまとめれば、「ミソもクソも一緒」ということになってしまうのです。
 子育てやしつけの上で、正しいことは正しい、間違いは間違い、善いことは善い、悪いことは悪い、すべきことは断固やり抜くべきで、してはならないことは決してしないというように、強くけじめをつけ、統制を加えるのは「父性原理的態度」です。一方、好きなこと、したいこと、興味をもったことを思う存分させてあげ、自由を認めるのは「母性原理的態度」です。子どもが、バランスのとれた、健全な精神の持ち主に育っていけるには、子育てやしつけに、この両方の態度が含まれていることが必要なのです。
 父性原理的態度が父親にしかとれず、母性原理的態度が母親にしかとれないかと言いますと、決してそんなことはありません。父親が母性的な、あるいは母親が父性的な役割を担うことは十分に可能ですし、時には、子どもにそうしたかたちで接することが必要な場合も考えられます。ただ、先ほど、研究をもとに夫婦間のバランスや価値志向のあり方について述べましたように、どちらかと言えば、やはり父親は父性原理的、母親は母性原理的な態度に向いていますし、その方が自然で、親子関係や家族関係がより安定しやすい、ということは言えるだろうと思います。

 また、父性原理的態度=統制と、母性原理的態度=自由という、両方の基礎には、子どもに対する、無限の深い愛が不可欠です。愛を欠いた統制は、単なる管理や束縛でしかなく、また、愛を欠いた自由は、単なる放任や野放しでしかありません。
 子どもは、好きなことやしたいことを自由に、思う存分させてもらうことで、自己・他己双対理論でいう「自己」が育ちます。また、統制を加えられ、我慢して言いつけに従わされることで、「他己」が育ちます。そして、自己と他己がばらばらにならずに、バランスよく育たないと、精神的に健康にはなっていけません。このとき、自己(→自由)と他己(→統制)とを結びつけるものこそが、親の愛なのです。愛に支えられずに、自己と他己がアンバランスに育って、両者の統合ができませんと、いろいろと精神的な問題を抱えた人間になってしまう危険性が高まります。
 愛情をかけず、好きなこともさせないで、親の一方的な言いつけだけに従わせていた場合、子どもは自分の希望や理想をもてず、かと言いまして、社会的な期待や要請、つまり「どうすることがみんなにとっていいことなのか」「みんなのために自分はどうするべきなのか」などといったこともわからずに、ただ強者の顔色だけを見て動く、卑屈な人間になってしまうと考えられます。
 また、愛情をかけない代わりに、親の言いつけにも従わせず、好き勝手なことをさせて放任していると、わがままで、社会性のない、つまり人の心の痛みも温かみもわからない、自分本位な子どもに育っていくでしょう。
 このようなケースの他に、愛情はあり、好きなこともさせるけれど、我慢を経験させないでいるという場合も考えられます。そうしますと、ある程度は人のこころを理解したり、人とこころを通わせたりすることはできますが、いったん自分の情動や自我が傷ついたり、脅威を感じたりしますと、そのとたん、他者や社会に配慮することなく、自分のこころの動揺をそのまま表出するような子どもに育ってしまうと考えられます。また、困難に出会うと、すぐにくじけてしまい、自分の目標に向かって着実に歩んでいけなかったり、自分がどうすることが社会的に望ましいのかがわからない子どもになってしまうでしょう。
 さらに、愛情はあっても、好きなことはさせず、親の言うことばかりに従わせることもあり得ます。その場合は、他者のこころの動きを理解しようとし、社会へもよく適応しようとしますが、他人がどう考えているのか、社会はどう期待しているのかばかりを気にするような、自分のない、あるいは自分の出せない子どもに育ってしまうと考えられます。

 今回、新聞に寄せられた質問には、「こんなに方針が違う両親のもとで育つ子どもは人の顔色ばかりうかがうようになるのではないか、心配です」と書かれています。お父さんとお母さんとで、言うことやしつけ方がばらばらな場合に、「人の顔色ばかりうかがうような」子どもに育つかどうか、それだけでは言いきれないと思いますし、また、質問者であるこのお母さんと、それからお父さんが、お子さんとどれくらい情動を共有し(つまり、こころの通い合いを大切にし)、愛情をかけ、時と場合に応じて、どれくらい自由にさせてあげたり、必要な統制を加えたりしているかはまったくわかりませんので、この先どのように育っていくのかについて、確実なことは言えません。
 ただし、お母さんがいけないと言ったことを、お父さんが簡単に(たとえお母さんのいないところで言うにしても)「いいんだよ、それくらい」とひっくり返したり、またはその反対がひんぱんに起こったりするようですと、子どもに、していいことといてはいけないことについて、価値の混乱が起こることは明らかです。自分のしたいことが、果たして社会的に許されるのかどうかが、わからなくなってしまうのです。
 そして、現代は、他人がどう言おうと、どう考えようと、したいことはすればいいし、言いたいことは言えばいい、むしろ積極的にそうするべきだという、「民主主義的」な考え方が一般的で、おおかたのしつけや教育はその考えに基づいてなされていますから、価値観の混乱した子どもたちが、その風潮に染まってしまい、自己を肥大させ、他己を萎縮させていくことは、ほぼ必然であると言えます。その具体的な現れは、これまでにも「ひびきのさとだより」や「こころのとも」、論文などにおいて、さまざまな角度から検討してきました。
 自己ばかりが肥大した人間は、あらゆる場面で「オレが」「ワタシが」と自己中心的に振る舞い、人がどうだろうと構うもんか、と傲慢になりますが、それと同時(裏腹)に、他人のことが気になって気になって仕方なくなります。
 人は、自分に照らして他者や社会を見ますから、自分が他者に無関心で、ないがしろにさえしていると、まわりの人々もみな同じであるように思えてきます。自分はきらわれているのではないか、知らないところで意地悪をされ、笑い者にされているのではないか、だまされて、損をさせられているのではないか、つけ狙われて、命をとられるのではないか、等々、周囲が信じられなくなり、疑心暗鬼に陥ってしまうのです。
 そして、自己が肥大していますから、自分は他者に関心を向けず、愛情をかけないのに、自分だけは他者から大事にされたい、愛情をかけてもらいたいと欲しますし、自分はそうしてもらって当然だ、と思い込むこともあります。いまは多くの人が、こうした意味で他者に過敏になり、「人の顔色ばかりうかがうように」なっていると言えます。

 金盛氏は回答の中で、次のようにも述べています。

 親の顔色をうかがう心は、厳しい追及や叱(しか)ったことの結果であり、思考停止という弊害をも招きます

 このような、単純で断定的なアドバイスをするだけでは、「子どもを叱ってはいけないのだ」ということだけが、新聞を読んだ人々に強く印象づけられてしまうおそれが大きいと思います。
 今年の「こころのとも」5月号で書きましたように(「保母の幼児虐待死事件に思う」)、親と子、大人と子どもとの間で、本当のこころの通い合い、すなわち情動の共有、コミュニケーションができている場合には、きびしく叱ることは不必要になります。やさしく「こうした方がよい」「そうしない方がよい」と教えてあげるだけで十分なのです。もっとも、叱らないといいましても、それはあくまでも結果としてそうなるということで、してはいけないことや、しなければならないことがわかっていない子どもに対しては、愛情に基づいた統制を加えてやらなければならず、子どもの様子に応じて、それが「叱ってやる」というかたちになることが必要な場合はあり得ます。
 ここでの相談のように、「うそをついてはならない」という、人間として生きていく上で、絶対に守らなければならない真理についてさえ、価値観の混乱や喪失が起こっている中で、叱ることを放棄する風潮が広まることは、事態をますます悪化させるものです。別の言い方をしますと、よって立つべき原理原則が失われていて、叱るべきか叱らざるべきか、適切な判断ができず、それと同時に「叱らなくていい」「叱ってはいけない」という考え方が普通になってしまっているのです。こうした中では、子どもは精神のバランスを保って成長することができません。

 広い視野や価値観、他者に対する豊かな共感などは、「これもいい」「あれもいい」「どっちもいい」「どうでもいい」という意見の不統一、もっと言えばミソクソ一緒くたの混乱の中からは、決して生まれません。そうではなく、それらは、他己が発揮され、自己とのバランスがとれた上での心の働きです。それは、自分のはからいや欲望を捨てて、絶対な真実を信じ、それにしたがっていこうとする信仰心と、さらには、その信仰心に支えられた精神的修行によってのみ、可能になることです。逆に言いますと、信仰と宗教を失った日本人は、その多くが自己に閉じ、狭い視野や価値観しかもち得ず、他者への共感をなくしているのです。


*亀井陽一(1999) 自閉症児・者の母のストレスとその父母の価値志向性 −中塚のストレス尺度と自己・他己双対理論による検討−, 平成10年度鳴門教育大学大学院修士論文.



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