ひびきのさと便り



No.31 「自己」の病、うつ病 ('02.10.29.)

 最近、精神疾患に関する関心が、非常に高まっています。今回中心的にとり上げるうつ病につきましては、とくに中高年の罹患をめぐって、職場での問題、家族との関係、そしてもっとも重大な自殺との関連などが、きわめて深刻になっています。
 また、うつ病と並んで、以前から「二大内因性精神病」とされてきた精神分裂病は、このたび、日本精神神経学会によって、「統合失調症」という新しい名称に変更されました。これは、精神分裂病という古くからの呼び名が、「差別と偏見を招きやすい」と言われ、患者本人や家族からの強い要望にも応えるため、というのが、大きな理由になっているようです。くわしい考察は、また別の機会に譲りたいと思いますが、この新しい名称を採用することによって、精神病についての研究や治療が進展したり、社会的な意識が変わったりすることが、果たしてどれくらい期待できるのか、その効果や意義には、まだまだ検討の余地が大きく残っていると言えます。
 この問題につきまして、ここで少しだけふれておきますと、「精神分裂病」という呼び方は、スイスの精神科医であるオイゲン・ブロイラー(1857-1937)が命名した、「schizophrenie」という病名の日本語訳です。「Schizo」といいますのは、ギリシャ語で「分裂」の意味をもつ「schizein」から、「Phrenia」は「心・精神」の意味の「phren」からそれぞれ由来した言葉です。ブロイラーがなぜこのような病名を用いたかといいますと、彼は、患者が、秩序正しく論理的な筋道を通って考えることができない「思考の連合の障害」がこの病気の原発的な精神症状であるとし、この病気の特徴は、心の働きがばらばらに「分裂」してしまうことであると捉えたためです(飯田真・風祭元編 分裂病 引き裂かれた自己の克服,有斐閣選書,1979)。
 近年になって、この「分裂」という呼び方や考え方が、患者の人格や人間性そのものを否定するようなニュアンスや、あたかも不治の病であるかのような誤った認識を与えるおそれがある、などの意見が高まり、それが今回の名称変更につながったとされるようです。 ただ、ここで問題になりますのは、精神の「統合」が「失調」を来すという状態が、必ずしも精神分裂病=統合失調症に特有の症状ではない、ということです。うつ病にも同じことは言えますし、さらには人格障害(現在、「妄想性」「反社会性」「境界性」等、おもに10タイプの分類が診断に用いられます)や神経症(ノイローゼ)でも、精神の統合が失調していると言うことができます。つまり、精神分裂病=統合失調症という呼び方は、この病気(や他の病気)の本態を、かえってわかりにくくするおそれを内包している、ということを、銘記しておく必要があると考えられるのです。
 さて、また、ここのところ、従来は考えられなかったような、凶悪で残忍な犯罪が起き、その容疑者たちが精神疾患をわずらっていたり、かつて通院歴があったり、あるいは「自分は病気だ」と偽ったりすることがしばしばありました。よく知られていますように、精神病などによって責任能力がなかったとされますと、たとえば殺人を犯しても無罪になります。犯行の重大性、加害者の人権問題、社会に与える影響等々に関して、いまもさかんな論議が続いています。このことも、精神病が急激にクローズアップされる大きな要因になっています。

 精神疾患をめぐっては、以上の他にも、まだまだ問題が山積していますが、ここからは話をうつ病にしぼっていき対と思います。
 9月19日付の読売新聞に、次のような見出しの、きわめて興味深い記事が載りました。

身体の病気とうつ病/多い併発、高い自殺リスク/医師に精神科教育必要

 やや長くなりますが、重要と思われるところを引用させていただきます。

 身体に病気を持つ患者の多くにうつ病が併発していることが明らかになってきた。・・・
 ・・・世界精神医学会(WPA)が先月横浜で開催され、・・・最終日に開かれたシンポジウム「一般医師への精神科教育」で米テキサス大学のペドロ・ルイス教授は、全科の医師への精神科教育の重要性と緊急性を訴えた。
 同教授は、一般人口でのうつ病発症率5.8%に比べ、がんで33%、心筋こうそくで47%、狭心症で45%、慢性疲労症候群で75%など、身体疾患が高率にうつ病を合併すると報告。特に高齢者では、それによる自殺のリスクが高くなると指摘し・・・た。
 実は国内でも同様の指摘は見られる。東海大学医学部の保坂隆・助教授が去る8月に監修した『在院日数短縮化をめざして』(星和書店刊)によると、身体疾患に精神疾患が合併するという報告は内外に多数あり、身体疾患を持つ外来患者の21〜26%、入院患者の30〜60%が精神疾患を有し、最多はうつ病だという。更年期障害の女性の56%に何らかの精神疾患がある、との報告もある。・・・
 中根允文・長崎大学教授が1991年、世界保健機関(WHO)の共同研究に参画して実施した調査は興味深い。長崎市内の国公立総合病院の内科外来を受診した患者に面接調査した結果、14.8%に精神疾患が見られ、その半分弱にあたる6.4%はうつ病だった。だが内科医のうつ病発見率はわずか19%で、欧米諸国の約60%に遠く及ばなかった。「70年代に同じ調査を実施した時は、16%だった。これほど『心の時代』と叫ばれながらわずかの改善しかない・・・」と中根教授。
 日本総合病院精神医学会(理事長・黒澤尚日本医科大学名誉教授)はこうした観点から、総合病院に精神医療が必要であると主張している。・・・
 長年自殺の問題に取り組んできた黒澤理事長は、「4年連続3万人を超えた日本の自殺者の背景として、不況、中高年のリストラが強調されているが、実は約半数が健康問題での自殺。一般診療科の医師に、精神科的素養がいかに必要かを物語っている」と説く。・・・
 世界的にも精神病院の削減と総合病院の精神科強化は時代のすう勢だが、日本では精神病床を持つ総合病院の割合は全総合病院の22.3%に過ぎない。・・・
 そんな中、平成16年度に義務化する研修医制度で、精神科が1か月の必修プログラムとなったことは評価できる。研修内容を充実させて「心の時代」にふさわしい精神医療を確立してほしい。


 ここでは、医学的な専門領域に深入りすることは避けたいと思いますが、うつ病の症状につきまして、ごく簡単な部分にのみ触れておきたいと思います。
 うつ病など、精神疾患の診断に、現在、広く世界的に用いられているものの1つとして、アメリカ精神医学会発行の、「DSM-W」があります(高橋三郎ほか訳 DSM-W 精神疾患の分類と診断の手引,医学書院,1995)。DSM-Wで、うつ病は、「気分障害(Mood Disorders)」という、大きなカテゴリーの中に、「うつ病性障害(Depressive Disorders)」として含まれています。うつ病性障害の、主要な診断基準は、「大うつ病エピソード(Major Depressive Episode)」という、9項目にわたって示された症状のうち、5つ(またはそれ以上)が、同じ2週間の間に存在することである、と書かれています。大うつ病エピソードを簡単に抜き出しますと、次のようになっています。

 @抑うつ気分、A興味または喜びの喪失、B体重や食欲の著しい減少あるいは増加、C不眠もしくは睡眠過多、D精神運動性の焦燥または制止、E易疲労性、気力の減退、F無価値観、罪責感、G思考力や集中力の減退、決断困難、H死についての反復思考、自殺念慮、自殺企図

 さて、どうしてこのような症状が現れるのか、平たく言えば、どうして人間はうつ病になるのか、ということが、大きな問題です。
 現在、「最先端」とされる精神病の研究は、発病のメカニズムを分子生物学的、あるいは神経生物学的な手法によって解明しようとしています。こうしたアプローチでは、セロトニン、ノルエピネフリン、ドーパミンなどの神経伝達物質が注目されており、これら神経伝達物質の働きを調べることで、種々の抗うつ剤が開発されています。最近は「SSRI」など、新世代の抗うつ剤が使われるようになり、その効果が確かめられています。また、薬物療法と並行して、さまざまな精神療法もさかんに行われています。ただ、精神療法は、薬物療法以上に、効果があったのかなかったのかが分かりにくく、効果があった、と判断された場合でも、ではその精神療法がなぜ効いたのか、どこにどのように効いたのかが、はっきりしない場合も少なくありません。ちなみに、薬物を用いた場合にも、「偽薬(プラシーボ)効果」というものがあり、単なるビタミン剤や栄養剤であっても、「これは新しく開発された、この病気の特効薬です」と説明されて服用し続けると、本当にその病気が治ってしまうというのがめずらしいことではないのです。つまり、厳しい見方ですが、現在の精神科医療は、どうして治るのか、どうして治らないのか、実際のところよくわからない、という状況下で行われている、とすら言えます。もちろん、こうは申しましても、研究や治療現場で続けられている努力が無意味だということにはなりません。
 精神病の発病メカニズムを説明する有力な説に、「ストレス脆弱(ぜいじゃく)性仮説」というものがあります。これもごく簡単に説明しますと、精神病にかかる人は、もともとなにがしかの生物学的な発病脆弱性があり(より正確に言えば、脆弱性は程度の差こそあれ、誰もがもっていると考えられています)、それに、その人が受ける精神的ストレスが重なって、両者の相互作用により、病気が引き起こされる、というものです。
 生きていく上で降りかかってくる精神的ストレスには、進学、就職、転職、昇進、左遷、結婚、出産などなど、さまざまな生活環境の変化や、対人関係におけるあつれき、家庭内の不和や悩み、身近な人との別れ等、多くのものが考えられます。そして、たとえば進学なら進学がストレスになったとしまして、同じその状況に直面した場合でも、統合失調症(精神分裂病)になる人もいれば、うつ病になる人もいます。その違いは何によって、あるいはどこから生じてくるのか、ストレス脆弱性仮説は説明することができていません。そのことは、多くの研究者も認めています。つまり、精神的ストレスや生物学的な脆弱性によって、人間は精神病になることがある、とは言われていても、では、そうした要因によって、「なぜ」人間は精神病になるのか、という説明には及ぶことができていないのです。
 この他、精神病患者の脳を調べますと、形態や、神経伝達物質の働きに、異常が見出されることがあります。しかし、その場合でも、それらの異常が、果たして精神病の原因なのか、それとも結果なのかは、まったく明らかではありません。
 先述したことに戻りますと、人間は、どうしてうつ病になるのかという問題に対して、研究や治療の現場では、明確な答えが見つかっていないのです。

 なぜ発病の原因がわからないままなのか、ということですが、精神病は、読んで字のごとく「精神」の病気です。ですから、「精神とは何か」がわからなければ、精神病とは何か、についてもわからないのが当たり前、ということになります。
 「精神とは何か」という問いについて、たとえば有名な哲学者であるキエルケゴールは、その著『死に至る病』を、次のように書き出しています。

 人間は精神である。しかし、精神とは何か? 精神とは自己である。それならば、自己とは何か? 自己とは、関係がそれ自らへと関係する一つの関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自らへと関係すること、そのことである。・・・・・

 何も、『死に至る病』の難解さを面白がるために引用したわけではありません。人間の精神を明確に理解し、表現することの難しさを示すひとつの例として、お読みいただければと思うのです。キエルケゴール自身にしても、おそらくは直観的にひらめいたことを言葉にする上で、果たしてどのように表したものか、かなり悩み、苦しんだのではないでしょうか。キエルケゴール本人にすら、はっきりとはわかっていなかったかも知れないことを、後世の哲学者が、さらにああでもない、こうでもないと考え、自分なりの解釈をひねり出して世に問うのですから、謎はますます深まるばかりとすら思えます。
 「精神」が何であるのか不明なままなため、精神病を研究する際に、それを、脳という「情報処理装置」の故障、不具合であると捉えようとする傾向が、主流の1つになっていると言えます。「精神」病といえども、脳内機構に原因があることはまちがいなく、つまるところ、あくまで「物質の異常」に過ぎない、と考えるわけです。薬物療法は、まさに物質によって物質に働きかける治療法であり、多くの精神療法も、脳という情報処理装置が、誤った、あるいはゆがんだ「認知」を行っているのを、いろいろな技術によって「修復」しようとするのが、基本的な立場であると言えます。
 しかし、精神は、物質レベルの原理を超えています。単純な例で考えれば、「お前アホやなあ」と言われて、「はい、すんません」とニコニコしていられる人と、「何やと、この野郎」とすぐにいきり立つ人との違いは、ドーパミンの流れ具合をいくら比較しても、決してわかりません。神経伝達「物質」で、人間の精神を説明することはできないのです。

 精神病を理解するためには、人間の精神を的確にとらえることが必要です。これが第一歩であり、同時にほとんどすべてであるといっても過言でないかも知れません。精神の何たるかがつかめれば、後はその基礎に立って、応用し発展させていけばよいのです。もっとも、その道筋をつけていくことが簡単であるとは申しませんが。
 その「精神とは何か」という、大きな基礎を提示するのが、自己・他己双対理論にほかなりません。この理論の応用範囲がきわめて広いことは、たとえばこの「ひびきのさとだより」にも、如実に現れていると言ってよいと思います。
 ご記憶の方もおいでかも知れませんが、この欄で、うつ病のことを取り上げますのは、これで2回目です。前回は、2月20日付の「No.16 不安の正体」で、「擬態うつ病」という新しい症状(もしくは現象)について検討しました。ご参照いただければ幸いです。こうしたことからも、現代の社会で、うつ病がいかに深刻な問題で、話題にのぼることが多いかがわかるように思います。
 前回すでに、自己・他己双対理論に基づいたうつ病の解釈について説明をいたしました。同じものの繰り返しになるのですが、ご理解を深めていただくために、今回また、以下に述べさせていただきます。

 自己・他己双対理論によりますと、精神は、「自己」と「他己」という、ふたつの「モーメント」がバランスをとり合い、統合されて成り立っています。そして、このバランスが崩れることで、さまざまな精神疾患が生じてくると考えられます。自己・他己双対理論の精神病解釈では、うつ病は、他己に比べて、自己が弱体化することによって発症するものであると言えます。
 自己モーメントの基礎には「情動機能」があります。これは、欲求(食欲・性欲・優越欲など)や情緒(快苦喜怒哀楽など)、気分(明るい、暗いなど、持続するこころの働き)のような、「自分の心の動き」にあたります。そして、同じく自己モーメントのいちばん上には「自我機能」があります。これは、「情動」、「感覚」、「認知」の、自己に属する各精神機能を統合して、「より善い自分を実現していこうとする意志」の働きです。人生における価値観や目的意識を直接的に担うのは、情動+自我機能です。
 うつ病にかかってしまう人は、もともとこの情動+自我機能が弱い上に、さらにその働きが悪くなっていくと考えられます。すると、欲求が起こらず、何をしても面白くなくて、喜べず、気分がふさぎます。そして、何か重苦しい、何もする気が起こらない、生きている意味や価値がわからない等の、自我機能の弱体化へと進んでいってしまうのです。
 うつ病患者の気質として、クレッチマーというドイツの精神医学者は、@社交的・善良・親切・温厚、そして、A明朗・ユーモアがある・活発・激しやすい、さらには、B寡黙・平静・陰うつ・気が弱い、といった、3群の特徴をあげました。これらを、自己・他己双対理論と、「人間精神の心理学モデル」に当てはめますと、@とAの大多数は「感情機能」の強さを示すものであり、逆にBは「情動機能」の弱さを示すものと言えます。これは、先ほど述べましたように、うつ病の人は、自己に比べて、他己が相対的に働きがよいという私の仮定と、とてもよく一致する記述です。
 ここで述べてきたことは、うつ病の症状や、うつ病患者の気質が、人間(精神)にとってどのような意味をもつのか、という問いに対する、きわめて有効な答えになっていると思います。
 そして、うつ病の治療法についての基本的方針も、「自己と他己のバランスの崩れを回復させる」というかたちで、明快に導くことができます。具体的には、趣味や遊びなどを通じて、「人生は楽しい」ものであることを実感させたり、ものごとを成し遂げる喜びを体験させたり、将来に対する希望がもてるような働きかけをしたりします。そのことで、自己に属する「情動+自我機能」を育てるのです。また、社会からの要請や期待(こうあるべきだ、こうしてほしいなどの、本人に対する周囲の思い)を減らすことによって、他己に属する「感情+人格機能」の相対的な弱体化をはかることも大切です。

さて、今回新しく、大きな問題となっていますのは、がん、心臓疾患、慢性疲労などの身体の病気に、うつ病が高率で合併するのは、いったいなぜなのか、ということです。もちろん、と言っては失礼かも知れませんが、読売新聞の記事に、その説明はありません。そもそも、世界精神医学会の講演でこのことを取り上げたペドロ・ルイス教授も、この現象の原因や理由については言及しなかった可能性もあります。
 もっとも、そのようなことはどちらでもいいことで、以下、この問題に関する、自己・他己双対理論に基づいた仮説を提示したいと思います。

 これまで、さまざまな現象の考察を通じて申し上げてきましたように、現代人は全体的に見て、自己を肥大させ、他己を萎縮させる傾向にあります。これは世界的に見られることですが、日本においては、ひときわ顕著な現象です。他己の根源は、「人間精神の心理学モデル」で言いますと、無意識の他己に潜んでいる「集合的無意識(如来蔵識)」です。少々むずかしい言い方かも知れませんが、これは、相対的な人間をこの世に贈った、絶対他者です。人間は誰しも、その「如来様」を宿しているのですが、それは無意識の世界でのことですので、通常、わかることではありません。そして人間は、とくに現代人は、自分で意識できること、考えられること、あるいは物理的に証明され得ることしか信じませんし、考えてみようともしませんので(それこそがすなわち、自己肥大、他己萎縮が進行している証拠です)、他己はますます枯れてしまっています。
 他己の萎縮は、信仰の喪失によって加速しています。歴史的に見ますと、日本では、およそ千年前の平安時代後期、武士が勢力を持ち始めた頃から、徐々に社会の自己化が進み始め、謙虚な信仰心はだんだん薄れてきていました。現世利益、たとえば家内安全ですとか、商売繁盛など、あるいは極楽浄土へ往生できることだけを願う、自己本位の信仰が広まったということです。江戸時代の檀家制度や、明治時代になっての復古神道、廃仏毀釈などによってその傾向はいよいよ高まり、太平洋戦争の敗戦によって、日本人の宗教喪失は決定的になりました。日本よりずいぶん遅れてはいますが、欧米のキリスト教社会でも、人々から信仰心が失われつつあると言えます。儒教社会であるお隣の韓国や、いまや世界的に勢力を広めているイスラム社会ですら、これまでのように信仰に生きるあり方を否定しようとする人が少なくないようです。これらの現象と同時進行しているのが、現代民主主義の隆盛です。
 
 さて、相対的な存在である人間は、何ものかに定位、つまり心理的に依存していなければ、精神の安定を得ることができず、生きていくことすらが危うくなります。ふだんの生活では、何かに頼っているということを意識する場合もありますが、無意識のうちに依存していることも多いので、外界に定位できているからこそ、自分が安定的に存在していられるということは、なかなか実感できません。「自分は、自分1人で生きている。何にも、誰にも頼っちゃいない」と、かたくなに思い込んでいる人は、けっこう多いだろうと思います。
 かつて、カナダのマッギル大学で行われた、「感覚遮断実験」という、たいへん有名な心理学の実験があります。これはしばらく以前に、評論家の立花隆氏が、『臨死体験(上・下)』(文藝春秋社刊)という本の中で、ご自身が体験したものとして書いておられた(もちろん立花氏が参加したのは日本で行われ、最新の機器が用いられた実験でしたが)ので、お読みになってご存じの方もいらっしゃるかと思います。
 マッギル大学での実験は、通常より倍も高いアルバイト料をもらえた上、日がな1日、ベッドに横たわっていればいいという、一見しますと実に楽なものでした。ただ、24時間照明がつけられた部屋で、目には光の明暗がわかるものの、形は見えないように不透明なゴーグルをかけ、耳には意味のある音が聞こえないようにイヤホーンからうなり音を聞かせ、手にはものに触れられないように円筒をはめて、ベッドでじっとしていなければなりません。食事とトイレだけは、決められた場所で自由にすることが許されました。
 さて、のんびり寝転がっているだけでお金までもらえる、いかにも気楽そうに思われたアルバイトでしたが、たいていの人は2日か3日で、ねをあげて逃げ出してしまいました。その原因は、退屈に耐えられなくなるからです。実験が進みますと、ゴーグルのため何も見えないはずなのに、いろいろな形のものが見えてきます。意に反して見えてしまう、いわゆる幻視です。また、イヤホーンにさえぎられて、意味のある音は聞こえないはずなのに、いろいろな幻聴が聞こえてきてしまいます。さらに、ベッドの上で横になっているのに、自分の身体が2つになるという感じや、首が身体から離れてしまったという感じに襲われた人もいました。このように、被験者は、自己についての意識の統一性を失うようになっていってしまったのです。
 こうなりますと、ほとんどの人は恐怖を感じて、アルバイトを中止してしまいました。いちばん長かった人でも、6日で終わっています。
 この実験は、多少は人間的、社会的な刺激の制限も含んでいますが(隣の部屋にはいつも実験者が待機していて、呼べばすぐに来てもらえるという条件にありました)、直接的には、物理的な環境の感覚刺激と運動に制約を加えたものです。ですから、こうした感覚−運動を制限するだけで、私たち人間の精神は、たちまち不安定になり、混乱に陥ってしまうことが明らかになった、と言えます。相対的存在である人間は、物理環境の中の、感覚・運動的に「あい対するもの」を失うだけで、精神の正常な働きが不可能になり、自分を外界に定位することができなくなって、情動−感情(こころ)も、感覚−運動(からだ)も、認知−言語(あたま)も、自我−人格(たましい)も、勝手に動き回ってしまう、ということなのです。

 感覚遮断実験は、人間にとって、精神的に外界定位、社会定位をすることがどれほど不可欠であるかを、強く示唆しています。進化の過程で、人間だけが、自己と他己に分化した「精神」を有するようになりました。人間と、人間に最も近い動物とされるチンパンジーとを、遺伝子レベルで比較すると、両者の違いは「わずか」1.23%に過ぎないことが明らかになっています。反対に言えば、人間とチンパンジーとは、約99%が共通であるということです。しかしこれは、あくまでも、遺伝子、およびその設計にしたがって出来上がった身体という「物質」のレベルで比較した際の話であり、他己が有るか無いかということになりますと、両者の違いはまさに1と0、100%と0%の、完全な断絶になります。 人間の人間たるゆえんは、他己を宿していることにあり、したがって、他己によって他者と心を通わせ合う(コミュニケーションする)ことこそが、人間のもついちばんの人間らしさ、ということになります。ですから、他己が縮退して、他者と心の通じ合いが困難、あるいは不可能になってしまった場合、その人は、人間の人間たるゆえんを失う危機に直面している、と言えるのです。これは、感覚遮断実験のような、感覚−運動の制限以上に、人間としての存在そのものに関わる、重大で根源的な危機的状況なのです。
 他己が枯れてしまって社会に定位ができなくなり、存在が危うくなりますと、そのままでは生きていけませんので、何か代わりに定位できるものを求めます。むろん、その不安の根本的な解決は、他己を回復して社会定位ができるようになることですが、それができるのでしたら、最初から不安に襲われることもない(少ない)、と言えます。
 他者や社会に定位ができなければ、求める先は自己しかありません。もっとも手っ取り早いのは、しばしば申し上げていますように、食欲、性欲、優越欲といった、自己の情動の中の、欲求を充足させることです。
 欲求を満たすには、満たせるだけのエネルギーが必要です。食欲を満足させることでストレスを解消しようとするならば、まずは食欲そのものが湧いてこなければなりませんし、味覚や嗅覚が正常であったり、胃腸その他の消化器官も、活発に働いていなければなりません。胃腸薬の広告には、「食べたい、っていう気持ちはあるんだけど、体がついてこない。つらいんだよね、そういうの」と、登場した人が悩みを訴え、そんなときはぜひ、○○製薬の△△△を!、などというものがあります。多くの人は、食べられないなら2食でも3食でも抜いて、安静にしていればいい、とは、なかなか思えません。空腹それ自体も苦痛ですが、食べようとしても食べられない、思うぞんぶん食欲を満たしたいのに、身体がそれに応えてくれない、という心理的ストレスも耐えがたいのです。性欲についても、満たしたいのに身体が言うことを聞いてくれない、という問題については、食欲と同等か、多くの場合それ以上に深刻なものがあると言えます。食欲の問題でしたら、いざとなればとりあえず栄養剤や点滴などで急場をしのぐことも可能ですが、性欲の場合は、そのような代替手段に、それほどの意味や効果は期待できません。とにかく、身体が健康であることがたいへん大きな条件になるわけです。
 同じことは、当然、優越欲にも当てはまります。この、他者に優越したい、という欲求は、他の動物にはない、人間に特有な部分を多く含んでいます。
 サルの群れにも、ボスの統率のもと、No.2、No.3・・・の若いサルがいて、メスザルがいて、そのメスザルの中にもNo.1、No.2・・・があり、そして子ザルと、厳しい序列が存在します。そして、テレビの動物番組などでもしばしば紹介されますように、その身分は固定的ではなく、熾烈な権力争い、下剋上、権謀術数など、見る人によっては「人間社会を地でいく」ように映る場面が少なくありません。
 しかし、それらはどれも、つまるところは「種の保存」という本能に基づいた行動です。たくましく生き延びることのできる子孫を、効率よく残すこと以外に、目的はありません。 人間の優越欲が、動物の本能とまったく違っていることは、少し想像をめぐらしていただければ、すぐにご理解いただけると思います(もっとも、科学者の中には、この点においても、人間と動物は何ら異なるところがないと述べている人もいます)。
 あらゆる存在の中で唯一、自分が生きていることを自覚できる人間は、他者に優越することで、自分が生きているという実感を、より確かなものにしようとします。その優越の仕方にはいろいろなものがあり、力比べやけんかで相手を打ち負かすという、もっともストレートなものや、勉強、仕事、出世、金もうけなどの競争に勝つもの、または、自分の親や子ども、家柄の優秀さを誇ったり、好きなスポーツ選手が勝つところを見て喜んだりするという、代理満足的なものなど、さまざまです。最後に挙げました代理満足は、自分にやる気や実力がない場合の間接的な手段であり、自分自身が直接、優越欲を満たそうとすれば、それ相応に、身体の健康さや、体力、技能、知能などが必要になります。
 つまり、他己が縮退してしまった人間が、自己に定位して、何とか精神の安定を保とうとするためには、健康が保たれていて、自分の思い通りに身体を動かせたり、多少の無理がきいたりすることが、かなり重要な条件になる、と言えるわけなのです。

 がんや心臓疾患などの重大な病気にかかりますと、安静、服薬、食事制限、通院、入院等々が必要になり、当然、活動が非常に大きく制限されます。そして、生命が脅かされるという、もっとも直接的で、終局的な危機に直面させられることになるわけです。
 これは、定位する対象としての自己が、危うくなることを意味します。先述しましたように、自己肥大、他己萎縮が進んだ人間は、社会定位ができない代わりとして、自己に定位することで、精神の安定を得ようとします。ところが、病気によって健康が損なわれ、さらには命すら危ない、となりますと、もはや定位できるものがなくなる、いわば最後の砦であった自己が、失われてしまう、ということになるわけです。
 自己・他己双対理論に基づいてうつ病を解釈しますと、他己モーメントに比べて、自己モーメントが相対的に弱体化することで起こる病気である、と考えられます。現代は、多くの人々が自己を肥大させ、他己を萎縮させているという傾向にありますが、深刻な身体の病気にかかることで、萎縮してしまった他己以上に、自己が決定的に失われてしまう危機に直面するわけです。自分しか頼れるものがなかったのに、その自分までもが失われてしまう、というところに、うつ病を発症する危険性が高まる、と考えられるのです。 

 また、新聞の記事によりますと、がん(33%)、狭心症(45%)、心筋こうそく(47%)、慢性疲労症候群(75%)の順に、身体疾患とうつ病との合併率は上昇しています。これは、必ずしも死亡率の高さと一致するものではありません。
 がんは、死亡する危険性も高いのですが、その一方で、完治したり、仮に治らなくても、進行を抑えてがんと「共存」できたりするように医学が進歩してきています。患者は、病名を教えられずに励まされれば、1日も早く病気を治して、また職場や家庭などに復帰しようと努力するでしょうし、告知された場合でも、主治医から治療方針や今後の見通しなどをくわしく伝えられ、その計画に沿って闘病生活への決意を固めることが多いだろうと思います。つまり、がんになってしまったことで、自己が大きく脅かされてしまう人はもちろんかなり多いものの、一方で、そうならない人も、比較的大勢いることが推測されるのです。とくに、青年〜壮年期にがんになった場合は、病気の克服について、希望を捨てない人が多いだろうと考えられます。
 一方、心臓疾患や慢性疲労などの場合は、「治る」あるいは「治す」ということを具体的にイメージすることが、かなりむずかしいだろうと思われます。慢性の病気では、がんなどの急性で重篤な病気と比べて、「死」に直結することは少ないにしても、その反面、いつ治るのか、どうすれば治るのか、そもそも治る可能性があるのか、という点において重大な問題や困難が存在しています
 さらに、慢性疲労症候群では、程度にもよると思いますが、的確な診断を下されないまま、職場や家庭で放置されたり、怠けや仮病だと誤解されたり、医者を転々としなければならなくなったりすることは少なくないと予想されます。生きがいや人生の喜び、努力目標などをもてないまま、自己のエネルギーを食いつぶし、命をけずって働き続けることを余儀なくされる人は、おそらく多いと思うのです。そうしますと、ある意味、難病と闘う人よりも、自己の弱体化が進む危険性が高まることがあり得ます。がんよりも心臓病の方がうつ病を併発しやすかったり、慢性疲労症候群のうつ病合併率が、群を抜いて高かったりするのは、以上のように説明が可能だと思います。
 身体の病気にうつ病を併発した高齢者において、自殺のリスクが高くなるということも、自己・他己双対理論によるうつ病の解釈で、説明が可能です。自分の可能性に期待や希望をもち、それを信じることができれば、自己の弱体化は(それほど)起きません。したがって、他己とのバランスが崩れる危険性も少ないと言えます。しかし、年をとって、死が身近なものとして迫ってきますと、それだけ、残された可能性はどんどん小さくなっていきます。多かれ少なかれ、自己の弱体化が生じやすくなるわけです。それに加えて、重い病気にかかってしまいますと、それでなくとも弱っている自己に、決定的とも言えるダメージを受けてしまうのです。自分が生きている意味や、喜びが感じられなくなって、生きようとするエネルギーが失われ、そのような状態の中で生き続けていることが耐え難い苦痛となって、ついには自殺してしまう、と考えられます。

 うつ病を防ぐには、自己の相対的な弱体化を止め、その回復をはかることが基本になります。ただし、現代では、人々の自己肥大と他己萎縮が、日本を先頭として、世界的な傾向となっていることも事実です。こうした実態の中で、さらなる自己の拡張を進めるようなことは、根本的な解決になり得ません。
 大切なのは、自己が弱まったり、失われたりする危険に直面しても、精神、つまり自己と他己のバランスが崩れないことです。そのためには、自己を強く、大きくすることよりも、逆説的なようですが、他己を豊かにすることが大切になると考えられるのです。自己を肥大させ、自己に執着するのではなく、むしろ他己を豊かに発揮することが、自他のバランスを維持し、結局は自己を健全に保つことになるわけです。
 「頼れるのは自分だけだ」と、自己に執着し、自己定位を強めることは、病気などによって自己の危機に直面した時、自他のバランスが崩壊する危険性を増大させます。仏教で「生老病死」の四苦を説きますように、病に冒されるのは、誰にとっても、自分の意志や力を超えたことです。いつ何時、その危機に直面するかわかりません。そうした時でも、自分を失わないためには、自己に定位するのではなく、他者や社会に心を開いて、他者定位ができることがとても大切なのです。
 つねづね申し上げていますように、根本的に他己を回復するためには、信仰を取り戻さなければなりません。重い病気にかかったりしますと、そういう「人の弱みにつけ込んで」、自分たちの団体に引き込もうと、しつこく勧誘するという例は多くあります。病気が治るかどうかというのは、本人や家族にとってたいへん重大な問題ですが、信仰や宗教は、そのような「現世利益」のためだけにあるのではありません。真の宗教は、自己の肥大や、自己への執着を教えたり、強めたりするようなものではなく、むしろ、自己(への執着)を捨てることを教えるものです。その結果として、他己とのバランスが保たれ、自己の安定がもたらされるのです。
 今回、身体の病気とうつ病との強い関連が、データ的に示されたことは、自己・他己双対理論に基づいて、私が独自に構築してきた精神病の仮説を、きわめて強く支持するものであると言えます。この仮説が研究や臨床の場に取り入れられ、患者さんの福祉と安寧に貢献できますことを期待したいと思います。



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