ひびきのさと便り



No.32 「ステキさ」の追求!?  ('02.11.19.)

 今日、あらためて言うまでもないほど、世界情勢は流動的です。イスラエルとパレスチナの衝突は泥沼化の様相を呈していますし、イラクは大量破壊兵器に関する国連の査察を受け入れましたが、一連の予定がスムーズに実行されるかどうかは、必ずしも確実と言えないようです。また、アフリカ諸国での飢餓および貧困と、その原因であり同時に結果でもある、諸国内や地域間の紛争は、あまりに常態化しているために、もはや人々の関心を引くことすらありません。さらに、いま日本国中が注目しているのは、北朝鮮による日本人拉致の問題です。日朝関係の正常化交渉が最大の焦点になっていますが、北朝鮮は「日本に帰国中の5人を戻さない限り、交渉の再開はない」と言っており、両国間の先行きはまったく楽観できないものになっています。このように、大小さまざまな「火種」が、世界中のいたるところに存在しています。それらがたちまち、地球を焼き尽くす巨大な炎に成長しても、まったく不思議ではありません。
 そうした火種の中でも、特別、国際情勢に大きな影響を与えたのが、昨年9月に起こった、アメリカに対する同時多発テロ事件です。このあいだ、事件から1周年の追悼行事が、アメリカ国内はもとより、世界の各地で催されました。また、9月11日の前後は、「事件はなぜ起こったのか」「不可避なものだったのか」「世界が受けた影響とは何だったのか」「教訓は得られたのか」「今後の世界はどうなっていくのか」「人類は何を目指し、どう行動すべきなのか」等々の問題が、新聞やテレビなどにおいて、さかんに議論されました。
 それらの1つとして、朝日新聞が特集した「9.11 一年後」があります。何人かの有識者が、自分の考えを寄せたものですが、9月10日に掲載されたのは、文芸評論家で明治学院大学教授の、加藤典洋(かとう のりひろ)氏によるものでした。見出しは次のようになっています。

 浪費型「自由」の転換/世界・地球の矛盾、一望に

 加藤氏は、冒頭、次のように述べています。引用させていただきます。

 去年の同時多発テロから1年がたつが、ようやく課題が見えてきたように思う。20世紀型の世界が終わり、21世紀型の考え方が必要とされる時代となったが、そこでのポイントは何か、ということである。
 9・11は何を変えたか、と訊(き)かれれば、世界を1つにしたと答える。インターネット、経済の世界化などでもう世界は1つになっていたのだが、そうなるとどうなるかということを、誰の目にも教えたのである。
(アンダーラインは中塚、以下の引用でも同)

 加藤氏がここで述べようとするのは、「必要とされている21世紀型の考え方において、ポイントは何か」ということで、それは、見出しに掲げられている、「浪費型『自由』の転換」に他ならないわけです。加藤氏はそのことを主張する前に、いま、世界に存在している「自由」というものについての、加藤氏なりの説明を、次のように行っています。

 今後、アメリカはつねにこの種のテロの脅威の中に裸のままでおかれるだろう。いまイスラエルとパレスチナで起こっていることはその予告編である。ブッシュ大統領が対イラク先制攻撃を口にするのも、そう思えばこそなのだが、それではダメで、南北間の格差が少なくなる方向に世界が動かなければ、この問題は解決しない。
 では、そのためのカギは何だろう。これまでは、南を北に近づけることがめざされた。しかし、世界全体がアメリカの高成長、大量消費型の生活を享受するには地球がいくつあっても足りない以上、これは一種のねずみ講的詐欺である。したがって、南の水位をあげることに加え、新たに、北の水位をさげること、とりわけ高成長、大量消費のアメリカ型モデルを別のモデルに切り替えることが、問題になる。ここにきてようやくわたし達は21世紀の課題に出会う。


 さて、この次です。

 20世紀は、人類全体の幸福と平等の実現という高い理想のためなら、一時的に少しだけ、自由と私的な幸福の追求を制限してもよいと考え、失敗した。国民国家と資本主義の廃絶がそこでの目標だった。その失敗が教えるのは、自由への欲求を否定する思想は、結局、その自由への欲求によって打破されないではいないということ、そういう思想は人間否定につながり、それ自体退廃するということである。しかし、前世紀、その自由への欲求に現実の範型を与えていたのが高成長、大量消費型のアメリカ的な生活である。自由への希求は、自由競争の資本主義下では私的、物質的な幸福という形をとる。いま、自由とは、ステキな衣服に身を包んで、ほどほどにおいしいものを食べ、気の合う友と街を歩くことなのである。

 自由競争の資本主義下における自由とは、それを、欧米諸国や日本が先頭となって、世界に広めている自由と言い換えてもいいと思いますが、私的で物質的な幸福を欲し、その欲求を思うままに満たせることである、というわけです。その具体例を、加藤氏は、「ステキな衣服に身を包んで、ほどほどにおいしいものを食べ、気の合う友と街を歩くことなのである」として示すのです。
 さらに、次のように続きます。

 したがって、その代替モデルは自由への希求と私的なステキさ(幸福)の追求とをいずれも否定しないもの、となる。わたし達は今後、高成長、資源浪費型でない経済と産業の構造をめざすが、それは、自由の欲求とステキな生活への憧(あこが)れとをともに否定しないものでなければならない。私的なステキさの追求が少しも否定されないまま、現在のアメリカ的生活に範を取る高成長、資源浪費型のステキな生活の像だけが、わたし達の中で、別の範型に取って代えられる。これが21世紀の課題の「核心」である。
 国民国家と資本主義という世界の仕組みを否定しようとした20世紀の試みの果てに、9・11は起こった。この現行のしくみを前提に、どう「それを使ってそれを変える」かと考えること。権力は悪だと考えるのではなく、どのような権力なら正当化されうるかと考えてみること。一度近代のはじまりに戻る、それが21世紀的な考え方の流儀である。


 加藤氏が記事の中頃で書かれたことに戻ってみます。

 南北間の格差が少なくなる方向に世界が動かなければ、この問題(=アメリカを始めとして、他の先進国にも向けられているテロの脅威)は解決しない。 

 この指摘は、確かに当たっていると言えます。加藤氏以外にも、同様のことを主張している人はおり、たとえばパレスチナ出身で米国籍をもつエドワード・サイード氏(コロンビア大学教授・比較文学)も、9月17日付朝日新聞の特集、「テロは世界を変えたか」で、次のように述べています。

 (インタビュアー)−−−テロの根源を絶つのは難しい作業です。
 (サイード氏)「私は楽観的だ。教育や貧しく絶望している人々の境遇改善などで、テロを根絶やしにできると思う。いま世界が直面する問題はテロだと誰もが思っている。だが、グローバル化や米国の巨大な覇権が、先進国と開発途上国、飢えたる者と満ち足りた者との関係をどれほど変えたか、見落とされがちだ。21世紀の政府は共通の問題に協調して取り組む必要がある。例えば環境、飢餓、エイズ。・・・」

 テロの根絶が楽観できるものかどうかなど、サイード氏の意見に関する議論はおいておきますが、重大な原因として貧困や飢餓があることが強調されています。

 では、いったいどうすれば、テロの危険性を増大させる要因となっている南北間の格差をなくす(もしくは少なくする)ことができるのでしょうか。加藤氏が提案しているのは、「南の水位をあげることに加え、新たに、北の水位をさげること、とりわけ高成長、大量消費のアメリカ型モデルを別のモデルに切り替えること」です。なぜそうしなければならないのかといいますと、「世界全体がアメリカの高成長、大量消費型の生活を享受するには地球がいくつあっても足りない」からです。この主張も、もっともだと思われます。
 繰り返しになりますが、それでは、どうすれば「北の水位」が下がるのでしょうか。
 端的に言えば、「北」の先進国が、いまのようなぜいたく三昧をやめ、「質素倹約」を積極的に取り戻すことです。ことばにすればきわめて当たり前なように見え、すぐにでも実現が可能にすら思えてきますが、これほど、ことばに実行が伴わないこともないのが実態です。
 生活の中で、ぜいたくか、質素かが、顕著に現れることの1つは、食べることです。いま、日本は、世界中から貿易を通じて食料をかき集め、飽食しています。
 私の住んでおります香川県東部の町は、へき地とまではいかないまでも、かなりの田舎に属していると言えます。そんなところでも、家からごく近いスーパーに行くだけで、まるで棚からあふれんばかりに、さまざまな食品が並んでいるのを見ることができます。「こんなものしかないのか」と、不便を感じるようなことは、ほとんどありません。いまは、もっと山奥の地域に住んでいるような人でも、数分から、せいぜい数十分も車を走らせれば、都会と比べても遜色のない店に着くことができるでしょう。定期便が数日に何本かといいますような離島に住んでいられる方は、また事情が異なっているとは思いますが。
 多くの日本人はぜいたくな食生活を享受しているわけですが、その実、日本の食料自給率は、先進国中で最低レベルです。コメを除いて、麦、大豆、トウモロコシ、そばなどの穀類は、輸入の割合が100%近くになっています。それから、残留農薬などの問題があるものの、中国や東南アジア、オーストラリア、南北アメリカなどが産地の安い野菜・果物が、大量に輸入されています。また、日本が世界一の魚介類消費国であることはよく知られたところで、近ごろは近海での漁獲高が落ち込んでいることもあり、ヨーロッパのマグロやサバ、アフリカのタコ、北洋のサーモンやシシャモ、東南アジアで養殖されているエビ等々、世界中の魚介類が日本に集まってきています。牛肉、豚肉、鶏肉の輸入については言うまでもありません。日本人は、世界の人々に食べさせてもらっているわけです。
 こうしたことに加えて、昨今は不景気とデフレが進行しており、その中で、小売業や外食産業は、経営体力がものを言う値下げ競争を繰り広げています。牛丼1杯が200円と少し、ハンバーガーは60円を切ったものが売り出されています。原材料費、加工費、輸送費、保管料、容器代や包装費、宣伝費、店舗の地代、作る人や売る人の人件費など、もろもろのコスト、その上さらに儲けをオンして、その安さなのです。いったいどうしてそんなことが可能なのでしょうか。
 日本人が日本で作ったのでは、コストの切りつめにもすぐ限界が来ますが、途上国に大工場を建て、高度な合理化・機械化や低賃金の人海戦術で製品を大量生産すれば、莫大な差額が生じます。原材料費を安く抑えることも重要で、そのために、仕入れの担当者は世界中に目をこらし、どこを産地にすればもっとも安くできるかを徹底的に調査します。そして、例えば牛肉でしたら南米に牧場を作るのがいちばん効率的だということになり、広大な熱帯雨林や草原を切り拓いて牛を飼います。牧草を食べさせるだけではなかなか大きくなりませんから、トウモロコシや大豆、さらには問題となっている肉骨粉などの高タンパク・高カロリー飼料を大量に与えて、短期間で肥育させます。豚や鶏も同じ状況にあることは、みなさんもよくご存じのことと思います。鶏(ブロイラー)などは、ほぼ完璧にオートメーション化された「工場」の中で、2か月ほどのごく短い寿命の間、日光を浴びることも、土を踏むこともなく、ひたすらにエサを注入されます。
 以上のようなことから言えますのは、結局、日本をはじめとした先進諸国の食生活は、途上国の人々が、きわめて安い賃金で働いてくれている上に成り立っている、ということです。もっと直接的な表現にすれば、途上国の人々を「食いもの」にして、先進国の人々は生きながらえているのです。  

 この関係が続く限り、先進国の「水位」が下がることはあり得ません。水位を下げるには、たとえば先進国の人々が牛肉を食べるのをやめ、そのエサになっているトウモロコシや大豆を主食にすることです。紛争や飢餓が続いている地域に、赤十字などを通じて送られている穀物などには、もしかしたら先進国向けの家畜の飼料なみに粗悪なものが混じっている場合もあるようにすら、思えてきます。難民の人々は、それらをさらに薄いお粥にしてすすり、命をつないでいるのです。世界中の多くの人が、あまり精白しない穀物をもっと多く食用にしたら、いったいどれほどの人数をまかなうことが可能になるでしょうか。
 魚にしましても、高級な養殖ハマチを食べずに、そのエサになっているイワシを食べるようにすることです(もっとも、近年では、日本沿岸からイワシが姿を消しつつあるそうです)。先ほど言いました近所のスーパーに行き、鮮魚売り場を見ますと、さすが瀬戸内海をのぞむ土地だけあって、実にさまざまな小魚が、ぎっしりとパックやトロ箱に入って、たいへん安く売られています。しかしそれらは、下処理や調理がめんどうで、工夫もいりますから、敬遠されることが多いかも知れません。
 自らの生活に質素倹約を課すといいますのは、思いつきや趣味的な軽い気分では、なかなかできることではありません。「伊達や酔狂」ではできないのです。
 不景気が続いていることもあり、節約生活、シンプル・ライフ、スロー・ライフなど、生活を簡素にするのがブームになっています。そうした動きに水を差すのは本意ではありませんが、そのブームは何に支えられているのでしょうか。それはおそらく、大多数の人の、「ちょっとやってみたい」「おもしろそう」、または「浮いたお金で他のぜいたくを楽しみたい」などの、ごく軽い気分なのではないかと思います。ことさら生活をシンプルにしなければならないという必然性はないけれど、たまにはそうしてみるのもいいか、というわけです。自分が質素な生活に耐え、倹約に努めることで、何かしら人さまのお役に立てればありがたい、というような気持ちは、残念ながら「さらさらない」のが、ほとんどの人の、偽らざる本音ではないか、と思われるのです。
 多くの人が、シンプルでスローな生活がすばらしいのだ、と言っているうちはそれがもてはやされますが、少し価値観が変わって、豪華でスピード感がある生活の方が、はるかに充実した人生を楽しめる、と考える人が増えてきますと(わずか20年ほど前は、現実にそうでした)、シンプルやスローを大切にする人は、頑固、偏屈、ケチ、しみったれなどのレッテルを貼られてしまうことになります。流行がふたたびひっくり返って、簡素さがはやるようになれば、豪華さを好む人が、たちまち目立ちたがりとか悪趣味などと言われ、きらわれるようになるのです。相対的な価値観に振り回されている限り、簡素であろうが、豪華であろうが、実はほとんど差がないわけです。

 いつも申し上げていることですが、人間は、決して自分1人で生きているのではありません。他の人間だけではなく、自分以外の、あらゆる地球上の存在と、相互相依の関係の上に、生かされて生きているのです。そして、このことを自覚できるのは、人間だけです。それは、人間だけが、「自己」と「他己」に分化した「精神」を宿したということでもあります。
 この場合の自覚といいますのは、知識があり、覚えたりしゃべったりできることを指すのではありません。「お父さんやお母さんや、大勢の人たちのおかげで、みんなは毎日の生活ができているんだよ」と言えば、幼稚園児でも理解できますし、だからどうしたらいいのかな、と聞かれれば、「わがままを言わない」「勝手なことをしない」「ありがとうを言う」などと答えることができます。しかし、たいていの場合、言うこととすることが違ってしまうのは、子どもだけではなく、むしろ大多数の大人にこそ、当てはまることです。
 自分が、生かされて生きている存在であることが本当にわかり、生きているということのすべてに心から感謝できるといいますのは、成長の過程で分離した自己と他己が、再び統合されるということです。そして、自他の統合が成った人にとりましては、他者の喜びや悲しみは、即、自分自身の喜びや悲しみになっています。他者の痛みは、即、自分の痛みであり、他者の空腹は、即、自分の空腹なのです。これは、論理や理屈を超越した世界でのことです。こうした自覚に至れるからこそ、ヒトは人間なのです。
 ですから、自分の欲望の追求を抑えて、質素倹約に努めるといいますのは、人間が人間らしく生きる上で、とても大切な事柄だと言えます。「そんなふうにしてみるのも、たまにはいいか」などと、気分や流行に応じてやってみるようなものではなく、人間としての、絶対的な条件とすら言えることなのです。
 これは、現代社会で支配的な価値観とは、対極にあるものです。いまは、自分の「可能性」を拡大し、どれほど多くの利益を得られるか、そして、どこまで選好(好き嫌い)にしたがって行動できるか、が、人間の値打ちを決めています。経済的な余裕があり、自分の好みによって生き方を思い通りに選択できる人は「勝ち組」、できない人は「負け組」で、誰もが自由に勝ち組を目指して競争に参加できる社会こそが、平等であると考えられています。「機会の平等」さえ保証しておけば、勝ち残るにしても敗れ去るにしても、すべて「自己責任」だというわけです。
 グローバリズム、市場主義経済・自由競争至上主義が、こうした考え方を強力に支えています。グローバリズムと市場主義経済に反対する人も少なくはありませんが、勢いはまったく衰えていません。グローバリズムの根拠になっているのは、民主主義制度です。いま、世界の中で、民主主義に異を唱える人は、ほぼ皆無です。ですから、こう言っては怒る人があるかも知れませんが、グローバリズム反対を叫ぶ人も、結局は同じ穴のムジナになってしまっているのです。一部の強者や金持ちばかりが得をするのは許せない、もっとこっちにも分け前をよこせ、と言っているのに等しいからです。利益と選好を追求するために、争いや奪い合いも辞さないという点では、残念ながらどちらの立場も同じで、見た目が少々ちがっているだけなのです。
 相対的な存在である人間は、相互に依存しあっていると同時に、相互に限定しあっています。そうした関係の中で、どれほど自分だけの利益を増やし、選好のおもむくままに行動しようとも、そこには必ず限界が伴います。それは、真の自由ではありません。むしろ、おのれにとらわれて、便利で快適な生活でなければならない、あるいは、流行のスロー・ライフでなければならない、などと思えば思うほど、自由からは遠ざかってしまいます。それらの欲求が実際に満たされたとしても、否、満たされれば満たされるほど、もっと新しい暮らし、もっと別の生活、と、欲望は果てしなく広がっていきます。そうしますと、他者は自分の欲望を満たす上での邪魔者に感じられてきます。しかしその一方で、他者に支えてもらわなければ、現実の生活を送っていくことはできません。こうした執着や葛藤にがんじがらめになり、自由を失ってしまうのです。
 人間としての真の自由に近づいていくとは、自己へのとらわれから自由になることです。そして、それができるためには、いつも申し上げていますように、心を磨く修行が不可欠です。人間は難儀なことに、「執着を捨てよう、とらわれから自由になろう」と、いくら頭で一生懸命に考えても、その通りには実行できないのです。それはむしろ、とらわれを新たに1つ増やすことに他なりません。人間のはからいが及ばない世界があることを信じ、おのれを捨てられるよう念じて、修行に励む以外にないのです。

 さて、加藤氏は、高成長、大量消費のアメリカ型モデルは、地球やその資源が有限である以上、とても続かないとし、別のモデルに切り替えることが必要であると述べます。そして、20世紀には、「人類全体の幸福と平等の実現という高い理想のためなら、一時的に少しだけ、自由と私的な幸福の追求を少しだけ制限してもよいと考え、失敗した」と言っています。これは、共産主義が行き詰まり、旧ソ連や東欧の社会主義諸国が次々と崩壊したことを指しているようです。加藤氏はこのことについて、共産主義は自由への欲求を否定する思想であり、そういうものは、自由への欲求によって打破される、また、自由への欲求を否定することは人間否定につながり、それはおのずと退廃する、といった主旨のことを述べているようです。 
 共産主義思想が、自己・他己双対理論および「人間精神学」の観点から見てどのようなものであったのかをくわしく検討するのは、それ自体が大きなテーマですので、別の機会に譲りたいと思います。ただ、中心となる事柄にふれておきますと、私有財産を否定し、物質的・経済的に平等になれば、人間の平等が実現されると考えたのが、この思想の大きな誤りでした。人間にとっての平等の原理は、単なる経済原則を超えたものなのです。
 先述しましたように、加藤氏は、共産主義思想は「自由への欲求を否定する思想」であり、それは「人間否定の思想」につながって、おのずと退廃する、としています。自己・他己双対理論に基づいて考えますと、「自由」は自己に属しています。「自由・平等・友愛」の三位一体は、有名なフランス革命のスローガンですが、ここにあります「友愛」が、他己に属するのです。そして、自由=自己と、友愛=他己とのバランスをはかるのが、「平等」であると言えます。自由への欲求が大きくなり過ぎ、自己が肥大しますと、他己が萎縮し、友愛は失われていきます。自由と友愛、自己と他己のバランスが崩れ、平等が崩壊することになります。
 加藤氏は、自由を否定することは人間を否定することだと述べていますが、自由を追求することにもまた、博愛=他己を失わせ、平等を崩壊させかねないという点で、人間=他者を否定する危険性が存在しているのです。
 共産主義は、結果的に、多数の人々の自由を抑圧しましたが、そのこと自体が目的であったわけではありません。@生産手段を社会的所有とし、A全生産・消費分野を計画経済として運営し、B労働と消費に対する国家統制を行う、という3点が、共産主義の原則的手段ですが、それらを通じて、社会の富と福祉を増大させることをねらったものであり、いわば、資本主義とは異なったかたちで自由を実現しようとした、とも言えるわけです。
 同じことは、ナチス・ドイツの独裁主義にも言えます。ナチの支配体制と、それを多くの大衆が支持した事実を取り上げ、いまも広く読まれている、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という書物があります(原著初版1941年)。第1次世界大戦敗北後の1919年、ドイツでは「最初の20世紀的憲法」とされるワイマール憲法が制定されました。ここでは、それまでにほとんど見られなかった、多くの社会的・経済的規定が設けられ、くわしいことは省きますが、それらは新たな自由や権利を規定するものでした。しかし、ワイマール憲法は、ヒトラーを指導者とするナチス政権によって、わずか14年後の1933年に幕を閉じることになるのです。
 『自由からの逃走』は、ナチスの崩壊までを含む一連の動きを取り上げているわけですが、その骨子は、人間は政治、経済的に危機な状況に置かれたとき、権威に従い、その犠牲となることに喜びを感じるという、経済学や社会心理学等の視点からの考察です。くだいて言いますと、人間は、自由を与えられ、権利が保障されると(加えて、政治の混乱や経済の低迷が続くと)、かえってその自由から「逃走」し、強大な権力に支配されることを望むようになる、ということになります。
 しかし、この場合でも、大衆は決してみずからの自由を放棄したわけではありません。むしろ、強大な権力と自分自身が一体であると考え、その思い込みにしたがって行動することで、より大きな「自由」を獲得しようとしたのです。つまり、個々人の自由の追求が、国家の独裁権力のレベルにまで肥大しているわけです。明治から終戦にいたるまで、日本が世界トップクラスの軍事大国であった時代にも、同様のことが言えます。
 このように見てきますと、加藤氏が言われるような「自由への欲求を否定する思想」が、たとえば近代以降に限ってみたとしても、本当の意味で存在していたのかどうかは、よくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。むしろ、自由と権利の飽くなき追求が、加藤氏のことばにすれば「人間否定につながり」、さまざまな場面で限界が露呈している、と言えると思うのです。人々から他己(=友愛)が失われ、真の平等が実現されないからです。ですから、人間は、自分の自由を拡大しようとすればするほど、かえってそのとらわれのために本当の自由を失っていくという矛盾に苦しまなければならないとも、言えるのです。

 とにかく、加藤氏は、「自由への欲求を否定する思想」が退廃したと言い、前世紀に「自由への欲求に現実の範型を与えていたのが高成長、大量消費型のアメリカ的な生活である」と述べます。そして、従来のアメリカ的な自由の追求には限界があるために、それに代わるモデルが必要となる、とするわけです。そして、次のように書いています。

 自由への希求は、自由競争の資本主義下では私的、物質的な幸福という形をとる。いま、自由とは、ステキな衣服に身を包んで、ほどほどにおいしいものを食べ、気の合う友と街を歩くことなのである。

 なるほど、たしかに現実には、私的で物質的な幸福と、それを享受できることこそが「自由」であると考えられる風潮は色濃く、世界の中でも日本においてそれはいっそう顕著なことです。大多数の日本人は、たとえば「精神の自由」などと言われたとしても、それはいったい何を指すのか、ピンと来ないのではないでしょうか。加藤氏が書いていますように、流行のステキな衣服を着て、おいしいものを食べ、気の合う友だちとつきあうといった、はっきり言えば即物的で刹那的な欲望を満足させられることでしか、具体的に自由を感じることができなくなっています。
 加藤氏の提案は、自由への欲求と私的なステキさ(幸福)の追求を両立させよう、とするものです。何度も繰り返して恐縮なのですが、その部分を再び引用させていただきます。

 わたし達は今後、高成長、資源浪費型でない経済と産業の構造をめざすが、それは、自由の欲求とステキな生活への憧(あこが)れとをともに否定しないものでなければならない。私的なステキさの追求が少しも否定されないまま、現在のアメリカ的生活に範を取る高成長、資源浪費型のステキな生活の像だけが、わたし達の中で、別の範型に取って代えられる。これが21世紀の課題の「核心」である。

 要するに、資源の大量消費は、もはや続けられないが、かといって消費への欲望を抑圧することもできない(してはいけない)、経済成長および資源の消費による物質的な幸福と、人類の生き残りを両立させなければならない、ということのようです。それを実現させるために、「私的なステキさ」をキーワードにしよう、というわけです。
 「私的なステキさ」の具体的な中身は、記事にありますように、たとえば食べ物に関してでしたら、「ほどほどにおいしい」ということが大切なようです。つまり、ものすごくおいしかったり、ぜいたくであったりする必要はなく、100g何千円もする和牛の霜降り肉や、スプーン1すくいで何万円という高級キャビアは別に欲しくない、それより、まあまあの味がするものを、そこそこの値段で、いつでも食べたい時に食べられる方がいいじゃないか、というわけです。着るもので考えるなら、バブル時代のように、何十万もかけて、超一流ブランドの服で身を固める必要は感じないし、そうしたいとも思わない、流行の最先端は行かなくてもいいけれど、それほど遅れたり外れたりするわけでもない、何よりも、自分がそのファッションを気に入るかどうかという「私的なステキさ」を大切にし、その基準によっていいか悪いかを決めよう、ということになるのでしょう。
 同じような発想に基づいたものが、今夏、南アフリカのヨハネスブルグで開かれた「環境・開発サミット」における議論の中心であった、「持続可能な開発」だと言えます。現代の科学文明のおかげで得た快適性、利便性、享楽性をそこなうことなく、地球環境にかける負荷を減らせる開発の方法を見つけよう、というわけです。エネルギーの消費量を抑えた結果、不便さが生じても、それを当然のこととして甘受しよう、という気構えはありません。何とかして我慢せずにすむ方法を見つけようとしているのです。
 しかし、そんな虫のいい話があるはずはありません。少なくとも、いま以上の環境破壊をくい止めようとするならば、これまでのような開発を断念する以外に道はないでしょう。世界中でいっせいにやめることは非現実的だと思いますが、徐々に、段階を追って、その方向に進んでいくしかないと言えます。むろん、先進国であるほど、真っ先に手を引くのが当然です。
 ところが、現実は正反対です。先進国、経済大国ほどが、富と国際的な発言力にものをいわせて、自国の利益を最優先にすることを主張しています。国益の前には、他国がどうなろうと、環境がどうなろうと、そんなことは二の次、三の次なのです。二酸化炭素の削減交渉を見ただけで、その問題はあらわになっています。一方、途上国は、これ以上の開発はするな、古い設備や機械も使うな、しかし先進国には奉仕しろ等々、無理難題を押しつけられて身動きがとれず、怒っています。
 つまり、「持続可能な開発」といえば聞こえはいいのですが、実際は、経済的、技術的に優位にある先進国が、途上国を管理し、利用して、自分のところの水や空気や土は汚さずに利益をあげる方法を編み出そうとしているのです。そして、先進国がもうかれば、途上国にも余った分を回してやれるのだから、喜んで協力しろと言っているわけです。強者が繁栄すれば、弱者もおこぼれにあずかれるという発想は、現在、日本国内においても支持を集めています。しかし、現実は正反対で、一握りの強者や大国が利益の極大化を目指すほど、多数の弱者や小国はますます貧しさに甘んじなければならなくなっており、そのことは、さまざまなデータで明らかになっているのです。

 加藤氏の意見に戻りますと、氏は、多くの人が、自分の個人的な自由と、私的なステキさを追求して、それをこれまでのアメリカ的な生活スタイルと両立させることが、21世紀の課題の「核心」だと述べています。つまり、従来のように急激な経済成長を目指すことや、資源を大量に消費することをやめ、かといって、個人の自由や幸福を追求することはあきらめず、そのために、もっと私的なステキさに、生きることの意味や喜びを見出そう、という提案のようです。加藤氏の言われる私的なステキさとは、日常の、ごく個人的な、小さな幸せ、とでも言い換えられるように思います。生き方が大きく変わるような劇的な経験(あるいは大きな幸せや満足)など、なくてもいいではないか、それよりも、ほどほどにおいしいものを食べたとか、気の合う友人と楽しいおしゃべりができたとか、気に入った洋服が買えたなど、ちょっとしたステキな出来事が、生活の中にちりばめられている方がずっといい、そういうステキさを自由に追求できることを大切にしていこう、ということなのでしょう。かんたんに言えば、多くの人が、自分の小さな幸せだけを守って生きていけば、結果的に地球が長持ちし、人類が生き残れる、ということだと思います。
 また、加藤氏が言われる「私的なステキさ」では、生活のレベルや質が落ちないことがたいへん大きな条件になっています。ものすごい贅沢は望まないまでも、他者や社会のために、私的な幸福を追求することが制限されるのは、我慢ならないのです。
 しかし、こういうことで、「北の水位」が下がったり、「南の水位」が上がったりすることは、まず、期待できません。「自分のやりたいようにするだけで、他人や世の中がどうなろうと知ったことではない」と、直接は言っていませんが、ほとんどそれに等しいのです。
 近ごろ、この「ひびきのさとだより」でもしばしば取り上げていますように、いま、日本人の大多数、とくに若い世代の人に、こういう考えが広まっています。生きる目的は、楽をしてたのしく暮らすことであり、今がよければそれで満足で、先のことはどうなるかわからないし、考えても仕方ない、べつに考えたくもないから、将来の備えてのたくわえや準備などはしない、という人が増えているのです。お金もたいして稼ぎたいと思わないので、いい仕事につきたくもない、当然、いい高校、いい大学に行って学歴をつけてもしょうがないので一生懸命に勉強する気もない、毎日そこそこの生活ができればそれでいい、いっそのことフリーターの方が、会社と心中しなくていい分メリットが大きいではないか、そうやって、自分の好きなように、生き方を自由に選択できることがいちばん大切だ、しょせん人は人、自分は自分だし、というわけです。世の中の現実の方が加藤氏の提案よりも先を行っており、加藤氏はその実態をさらに推奨するというかたちになっているのです。
 いま、多くの日本人が、意識的に、あるいは無意識のうちに、自己に閉じています。そして、あからさまに他者を攻撃したり、他者から奪い取ったりする人はそれほど多いとは言えませんが、積極的な関心を向け、愛情をかける人はほとんど見当たらず、つまり、大多数の人々が他者に対して非常に無関心になっています。他者に関心がないといいますのは、人間の、もっとも人間らしいゆえんを失っているということです。

 日本人は、基本的に自分のことにしか関心がなく、自分だけを守るのに必死で、人のことなんてどうだっていい、と思っており、たとえば同時多発テロで世界貿易センタービルが倒壊した時に、その本性が現れました。「邦人の救出と安否確認を最優先する」と政府が発表し、実際その通りに行動して、マスコミもそれに乗り、安否情報のテロップをテレビで延々と流し続けたなどという国は、世界の中でも日本だけです。現地の消防士が、白人、黒人、黄色人種などと区別して、人種によって救助の優先した、などということが、あったはずがありません。そして、世界の国が、続々とアメリカへの協力を申し出ている間は、オロオロと様子をながめており、おおかたが出そろったところで、ようやく最後に「われわれも断固、アメリカを支援します」と言ったわけです。アメリカの反応は、「とくに頼むことはないが、何かしてくれるのだろう」というものでした。手伝いたければ勝手にどうぞ、ただし足手まといにだけはなってくれるな、という意味です。

 加藤氏の意見は、現在の日本人のあり方を認め、奨励するものですらあるわけです。そうした考え方が、21世紀の生き方のモデルになることはあり得ません。世界同時テロに対する日本の態度は、ほんの一例であり、日本はいま、金だけはもっていますが、おそらく世界で最も活力がなく、頼りがいもない国であり、経済、政治、外交などさまざまな面で、お荷物扱いをされています。そうなってしまった最大の原因は、日本人が自己に閉じ、他者に無関心になっていることにあるのです。
 大げさに聞こえてしまうかも知れませんが、日本は、人類の滅亡を速める「最先端」の精神文化を、世界に向けて発信している、とも言えます。それが、日本の抱える最大の欠点だということを見抜いている海外の識者やメディアもいくつかはあります。しかし、かんじんの日本人自身はそうした批判にもまったく無関心ですし、批判している側も、その先の方向性を、的確に示すことはできていません。
 日本人が一大意識改革をし、いま陥っている自己肥大、他己萎縮の状態から抜け出せるかどうかということは、個々人の問題であると同時に、今後の社会や、世界のあり方を左右する、非常に大きな問題でもあります。そうした意味で、今回取り上げました加藤氏の評論は、氏の願いとは裏腹に、「世界・地球の矛盾」をますます深めてしまうおそれをもつものです。
 いま、多くの人が取り組むべきなのは、「人の心を感じるこころ」を取り戻し、他者に心を開いて、あらゆる人と仲良く、助け合って生きていけるように努力することです。それは、個人の自由をたてにして「私的なステキさ」に固執するのでは、決して実現できないのです。



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