ひびきのさと便り



No.33 「良識」の限界(1) (2002.12.12.)

 「諸子百家」という言葉を耳にされたことのある方は多いと思います。『広辞苑』を引きますと、次のように出ています。

しょし‐ひゃっか【諸子百家】
 春秋戦国時代に現れた多くの思想家の総称。また、その学派・学説。


 春秋戦国時代(春秋時代と戦国時代の2期に分かれます)といいますのは、これもよく知られていますように中国の時代区分で、西暦では、紀元前770年から同221年に相当します。春秋時代の初期には、中国全土で200以上の諸侯が相争っていましたが、紀元前400年頃に至りますと、燕(えん)、斉(せい)、韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、楚(そ)、秦(しん)の7大国を中心とする十数カ国にしぼられていました。当時の、これら大国間のやりとりや駆け引きから「合従連衡」という言葉が生まれています。戦国時代を勝ち抜いて、中国の統一に成功したのが、有名な秦の始皇帝です。
 550年あまりに及ぶ動乱の時代に、次から次へと現れた思想家たちを総称して、諸子百家と呼ぶわけです。よく知られている名前として、荘子、孟子、荀子、韓非子などが挙げられます。そして、私がしばしば「四聖」の1人として紹介し、論文*にもしております老子もまた、このころの人なのです。
 老子が説きました「無為自然(為すこと無くして自ずから然る)」などの思想は、相対的な世の中を超越した、絶対的な境地のあり方を教えるものですが、そのことは、まったくと言っていいほど、正しく伝えられてきていません。むしろ反対に、日々の生活をいかに安楽に、快適に、しかも怠惰に送れるかという、低俗な処世訓として広められていることが少なくないのです。ご関心のある方は、私の論文を参照していただければ幸いです。
 なお、「四聖」は老子の他に、釈尊、キリスト、ソクラテスですが、この3人が教えを説いた当時のインド、イスラエル周辺、ギリシャも、それぞれに、春秋戦国時代の中国と同じような様相を呈していました。世界史上のほぼ同時期に、地域は異なるものの、社会がきわめて不安定になるという共通した情勢が生まれ、その地その地で、「聖人」としての条件である、「解脱の境地」を説く人が現れたわけです。
 ただ、それらの教えは、当時の人々に受け入れられたわけではありませんでした。釈尊は例外で、80歳で亡くなるまで45年間の長きにわたる布教にたずさわり、優秀な弟子も多く育ったのですが、キリストとソクラテスはよく知られていますとおり、十字架にかけられ、あるいは毒杯を仰ぐよう命じられて、処刑されています。また、老子は、「多くの人々に笑い飛ばされないようでは、真理を説いているとは言えない」と述べています。老子が当時、必ずしも厚遇されていたのではないであろうことが推測されます。老子のこの言葉を反対から解釈しますと、大勢の人に喜んで支持されるような意見は、真実から遠く隔たっている、ということになるわけです。

 さて、四聖の時代から二千余年がたったいま、世界は緊迫の度合いを深めています。前回も同じような書き出しだったのですが、この3週間ほどの間にも、新たなテロが発生したり、国際交渉が暗礁に乗り上げたり、経済的な制裁が発動されたりして、いささか手垢の付いた表現ながら、国際情勢はまったく予断を許しません。核兵器や生物化学兵器を装着したミサイルが、いつ、どこから発射されてもおかしくない状況です。それに、紛争を回避するより、むしろ相手を挑発して先に手を出させ、それを口実にして一気に全滅に追い込む戦略を練っているようにすら、見受けられる国もあります。かつての春秋戦国時代とはケタ違いの、世界的な危機が迫っています。
 当然、と言うべきでしょうか、このように不安定な情勢を前にして、まさに現代の諸子百家が「大活躍」しています。いまは印刷物だけでなく、テレビ、ラジオ、インターネットなどがありますから、「百家争鳴」のレベルも、古代中国とは比較の対象になりません。
 日本国内にも、社会に大きな影響力をもち、活発な言論活動を行っている方が多数いらっしゃるわけですが、その1人として、秀明大学教授で評論家の、西部邁(にしべ・すすむ)氏があげられます。
 西部氏が先日、さほど間をおかずに、2つの新聞に評論を寄せていらっしゃったので、今回と次回は、それらに加え、氏が書かれた本も参考にさせていただいて、その考え方を検討したいと思います。
 新聞記事の1つは、毎日新聞のシリーズ、「グローバリゼーションの光と影」の第4部である「アメリカという存在」の第2回として掲載されたものです(11月19日付)。もう1つは、産経新聞の「正論」欄に載ったものです(11月13日付)。
 西部氏のプロフィールですが、毎日新聞には次のように書かれています。

 評論家。秀明大学教授(社会経済学)。1939年生まれ。東大教授辞任後、現職。著書に『経済倫理学序説』『生まじめな戯れ』など。

 西部氏はかなり多作な方で、あとで参照します著書、『歴史感覚 何が保守政治の神髄か』(PHP研究所,1994年)の「著者略歴」を見ますと、そこだけでも30冊の著書が挙げられています。また、『発言者』という雑誌の主幹もなさっておられます。
 さて、記事の方に移りますが、見出しは次のようになっています。

無思想をさらす親米保守/世界平定に乗り出す左翼国家/刹那の武断を重んじる戦略論

 そして、西部氏は次のように評論を始められています。

 保守思想家たらんとしてきた私のようなものにとって、「親米保守」という立場くらい奇妙なものも又(また)とない。なぜなら、社会思想における保守とは、その国の歴史に根差す「伝統の英知」のことだからだ。歴史感覚の乏しいアメリカという国には親しみを覚えないのが保守思想のはずなのである。それなのに我が国の保守派は、パクス・アメリカーナつまり「アメリカによる世界平定」のただなかで、親米に馳(は)せ参じて恥じるところがない。(下線は中塚、以下も同)

 西部氏の考え方には、いくつかの、キーワードと言ってよいと思われる言葉がありますが、ここに出てきました「伝統」や「伝統の英知」はそれにあたります。それから、西部氏は、アメリカを指して「歴史感覚の乏しい国」と断定していますが、なぜそう言い得るのかという根拠はここで示されていません。この点には、これから西部氏の考え方を見ていく中で、間接的になるかも知れませんが、再び触れることになると思います。
 さらに引用を続けさせていただきます。

 その平定作業において掲げられている価値の代表格は相も変わらずアメリカン・デモクラシーである。その価値は、半世紀前にも、日本の風土においてみごとに普及した。それは、「戦後」日本の憲法と教育基本法がアメリカ仕込みであることからも明白であろう。・・・我が国の保守派は、「戦後」を批判してやまなかったにもかかわらず、「戦後」がアメリカ的価値によって統御されてきたことに目をつむっている。・・・思想上の大いなるスキャンダルだとしかいいようがない。

 このあと、記事は徐々に核心へと触れていきます。

 伝統の英知に助けられて、流行としての世論(せろん)が良識としての輿論(よろん)に向かっていくのでなければ、民主主義は「多数派の専制」に落ちていく。民主に限らず、自由も合理も、人権も平等も、そのほかどんな近代的な価値も、良識の支えを失ったなら、欲望を暴走させたり、欲望実現のための技術や制度を独り歩きさせたりするという破目になる。
 そうした惨状を呈した点で、旧ソ連と現アメリカは似通っている。両国とも(良識に欠けるという意味での)近代「主義」に立って、壮大な人工国家の建設にとりかかった。ソ連とアメリカとの違いは、前者がそれを集団主義的に行ったのにたいし、後者のそれが個人主義的であるということにすぎない。


 「世論」と「輿論」について、西部氏は先ほども紹介しました著書、『歴史感覚 何が保守政治の神髄か』の中で、次のように説明しています。

 ここで小生の持論である「輿論(よろん)と世論(せろん)」の違いを再確認しておきたい。「輿論」の「輿」とは、車の「底部」のことであり、そこから社会の底辺にいる「庶民」という意味が派生してくる。庶民は新奇なる言説から遠いところで暮らしているおかげで、歴史の知恵としての「伝統」を日常生活の中でさりげなく体得し体現している。そういう人々のなかから湧き上がってくる意見が輿論である。他方、世論とは世間で「流通」している意見であり、そして今の世間で流通しているのはマスコミの新奇さを売り物にする意見である。小生の思うに、デモクラシーが最善の政治形態であるのは、それが輿論にもとづくかぎりのことであって、世論が社会を席捲するようになれば、デモクラシー(民主制)はオクロクラシー(衆愚制)に墜ちていく。(p16)

 いろいろな概念が次から次へと出てきますので、お読みいただくのもたいへんかと思います。伝統の英知=歴史の知恵=輿論=庶民=良識、こういった言葉で表されるものに、西部氏が非常に強く信頼を寄せていることがわかります。それらが生きていれば、デモクラシーはオクロクラシー、あるいは多数派の専制に陥ることなく、「最善の政治形態」であり得る、とするわけです。そして、現代日本の実際が、西部氏の期待とは正反対の様相を呈しているというところに、氏の問題意識があることも推測されます。
 また、話が少々とんでしまうのですが、次のことを指摘しておきたいと思います。西部氏は、旧ソ連も、アメリカも、「良識」を欠いた近代「主義」に立って、「壮大な人工国家の建設にとりかかった」点で共通しており、両者は集団主義的なのか、個人主義的なのかという違いがあるに「すぎない」と述べていることについてです。
 西部氏は、たいへん重要な事柄に触れていません。意図的に言及しなかっただけなのか、本当に気づいておられないのかは定かでありませんが、旧ソ連とアメリカとは、集団主義と個人主義という、いわば社会制度的な面だけで異なっているのではないのです。
 両者の決定的な違いは、信仰の有無です。マルクスが、「宗教はアヘンだ」と言ったのは有名であり、共産主義国家はそのことを金科玉条にして、宗教を徹底的に弾圧しました。一方、アメリカは、建国の経緯そのものが、人々の強固な信仰心の上に成り立っています。独立の150年ほど前、最初に本国イギリスからアメリカのプリマスに入植した人々は、「ピルグリム(分離派教徒)・ファーザーズ」と呼ばれます。彼らはイギリス国教会からの分離と、信仰の自由を求めて新大陸へ渡ったのでした。
 このような、強い信仰心の「伝統」は、現代のアメリカにも脈々と受け継がれています。たとえば、大統領は就任式で、初代ワシントン以来の聖書の上に手を置き、神の名のもとに職務の遂行を宣誓します。また、数年前の米マスコミの調査によりますと、アメリカのティーンエイジャーは、その約94%が、神の存在を信じています。西部氏は、アメリカを歴史感覚の乏しい国であると述べ、のちにまた触れますが、反対に歴史感覚の豊かな国としてイギリスを挙げています。しかしながら、多くのアメリカ国民がいまでも抱いている強い信仰心を見ますと、ごくあっさりと「アメリカには歴史感覚が乏しい」と断言してしまうことには問題があると思いますし、旧ソ連との対比の仕方も粗雑に過ぎるのではないかと言わざるを得ません。

 さて、ふたたび毎日新聞の記事に戻ります。

 ソ連崩壊のあとに覇を唱えつつあるグローバリズムの正体は、アメリカ流の近代「主義」が、各国の歴史・慣習・伝統を破壊しながら、地球(グローブ)を覆っていくこと以外の何ものでもない。その流れに沿おうとするのが「構造改革」なのであるから、その過程で、日本の動揺と日本人の不安が強まらない方が不思議だ。親米保守派はこの構造改革にも拍手を送った。だから、近代「主義」を信奉するのを左翼と呼ぶ以上は、反左翼を自称する親米保守派も実は左翼の変種にすぎないといってよい。

 ここまでの部分の小見出しが、先に挙げましたように「世界平定に乗り出す左翼国家」となっています。つまり、西部氏によりますと、グローバリズムすなわちアメリカ流の近代「主義」も、それに賛同する日本の親米保守派も、表向きは「保守」や「反共」を旗印にしながら、その内実は「左翼の変種にすぎない」というわけです。
 そして、グローバリズムは次のような問題を引き起こすと、西部氏は指摘します。

 グローバリズムがいくら自由・平等・博愛の理想を叫ぼうとも、それを規制・格差・競合の現実によって制限するという良識がなければ、放縦・画一・偽善にはまるのを避けられない。その挙げ句に、グローバリズムは、自己の矛盾を外部に転化しようとして、規制・格差・競合を過剰に発動する。つまり、抑圧・差別・酷薄にみちた他者攻撃に頼ろうとする。そしてそんな扱いを長きにわたって受けたものたちのあいだに、テロルへの衝動がわいてくる。それに報復せんとするアメリカ流の国家テロルがさらなる報復をよぶ、それもグローバリズムの必然である。

 下線を施しましたように、ここまですでに何度か登場してきている「良識」という言葉も、西部氏の重要なキーワードになっています。日本語としての「良識」の意味を、『広辞苑』で確認しておきます。

りょう‐しき【良識】
(bon sens フランスの訳語) 社会人としての健全な判断力。「〜に俟(ま)つ」「〜ある言動」


 さて、グローバリズムが本当に「自由・平等・博愛の理想を叫」んでいるかどうかは疑問です。そこには、自己・他己双対理論でいう、「自己」、すなわち自由の無制限な拡大が露骨に目指されているだけなのです。たしかに、グローバリズムの基礎にあるのは近代以来の民主主義制度で、そのスローガンは「自由・平等・博愛」であったわけですが、自由=「自己」と対(つい)を成す博愛=「他己」が枯れてしまったために、その両者を「等しく平(は)かる」ものである平等も、まったく実現されていません。そして、博愛=「他己」といいますのは、相対な存在である人間を超越した、絶対的存在を信じて従おうとする、信仰心に根ざす以外には、あり得ないのです。現実の社会では、道徳などに基づいて「他者に博愛をかけなければならない」と言われることがあるのですが、知識や、それこそ「良識」で、そういうことをわかってはいても、その通りに実践できないことの方がはるかに多いわけです。
 記事の、これよりあとの部分を読みますと、西部氏がそういう現実にまったく気づいていなかったり、無視してかかったりしているわけではないことが、少しは分かるのですが、では西部氏がその限界を克服できる道を示しているのかと言いますと、残念ながらそうではないのです。
 グローバリズムの勢いはとどまるところを知りませんが、反グローバリズムの動きも、それに劣ってはいません。たとえば、WTO(世界貿易機関)をめぐって、死者が出るほどの過激な反対デモが繰り広げられたり、国同士の対立によって交渉が決裂したりしたのは、記憶に新しいところです。あるいは、関税をかけることなどによって、グローバリズムの拡がりに「規制」をかけようとする働きかけも、いくつかの国が熱心に行っています。そうした動向が、西部氏の期待するような「良識」的なものになっているかと言いますと、事実が正反対であるのは明らかです。グローバリズムが暴力的に攻めてくるのなら、当然こっちも力で対抗する、目には目を、歯には歯を、という対立が、いっこうに止む気配がありません。
 ただ、こうした対立は、テロに訴えるのでない限り、いちおう合法的になされています。その意味においては、程度の問題はあるにせよ、多くのことが「良識」に基づいている、と言うことも可能なわけです。しかし、世界情勢の大きな流れが、傾向としては悪化の一途をたどっているのは、なぜなのでしょうか。

さらに引用を続けさせていただきます。

 (アメリカ流の)国家テロルがネオリアリズムと総称される戦略論にもとづいているのを世人はあまり知らない。その理論は良識から遠く離れていると私は思わずにはおれない。

 「ネオリアリズム」というのは確かに耳慣れない言葉で、西部氏はこれを、次のように説明します。

 ・・・それは、1つに、世界を「無政府状態」と見立てた上での戦略的決断を論じている。2つに、戦略遂行にかかわる「国家」が(国際社会との交流の中で)どう変容するかを問おうとしていない。そして3つに、国家はゲーム論的状況に直面しているとされるのだが、その状況がうまく定式化されるのは「短期の武力的問題」におおよそかぎられるのであるから、それは狭い理論にとどまる。
 一言でいえば、かつてホッブスがいったような弱肉強食の「自然状態」の世界のなかで、
「決断主義」、「国家主義」そして「武断主義」という蛮行の3点セットを示したもの、それが新現実主義の戦略なのだ。さらにいえば、各国がこのように「自己保存」を唯一の動機として世界にかかわれば、「絶対者に全権を委譲する」という形でのホッブス的な社会契約が世界規模で成立すると見通されてもいる。
 たしかにアメリカは途方もない質量の武器を開発し蓄積した。そこでパクス・アメリカーナとはアメリカを絶対者とする社会契約を世界に普及させることなり、と考えたに違いない。


 ちなみに、ゲーム論(ゲームの理論)とは、簡単にいいますと、競争する者同士が、互いに相手の出方を考慮に入れながら、自分の利益がもっとも効率よく上がるための手段を合理的に選択するという行動を、数学的に分析するという理論です(小学館『スーパーニッポニカ』より)。
 先ほども触れましたように、グローバリズムと、それを支える民主主義制度が、西部氏の表現を借りるならば、「抑圧・差別・酷薄にみちた他者攻撃」という、きわめて深刻な
事態を招いているのは、それが、人間精神の自己のみを追求し、他己をないがしろにするものだからです。とくに、豊かな富を持ち、高い教育水準と強大な軍事力を誇る先進国ほどが、国益の確保を叫んで、「自己保存」に執着しているのです。この状況が根本的に変わらない限り、決して世界に平和はやって来ません。
 世界情勢を概観した上で、西部氏はどのように述べるのでしょうか。評論は次のように締めくくられています。

 ・・・国家が自己保存すべき最大の要素は、自国に多少とも特有の国民性のはずではないか。それを破壊するようなアメリカ主義の社会契約には参加しない、そうするのが良識ある国民というものだ。ましてや保守思想にあっては、社会契約論そのものが否定されてきたのであるから、アメリカの世界平定は承認さるべくもないのである。

 いちいちお読みいただくのは煩雑かも知れませんが、いちおう「社会契約論(〜説)」の説明も、『広辞苑』から引いておきます。

しゃかい‐けいやくせつ【社会契約説】
(contrat socialフランス) 17〜18世紀に西欧で有力であった国家の起源に関する理論。すなわち、「人類は最初自然状態の中で法律も政府もなしに生活していたが、自己の生命・自由・財産の安全のため協同する利益を認めるに及んで、個人の自然権を抑制し、社会全体の利益を守るため主権者を立てることに自発的に合意するに至る。ここに国家成立の起原がある」とするホッブズ・ロック・ルソーらの説。民約論。契約説。


 この説明から、社会契約論を違った面から見ますと、主権者が、個人の生命・自由・財産の安全を脅かし、利益を損なうような法律を作った場合、それは無効であり、社会契約の関係は破棄される、ということになります。この考え方が、今日の国民主権の原型になっている、とされています。
 こうした社会契約論が、「保守思想にあっては否定されてきた」とはどういうことなのか、記事には説明がありませんので、西部氏の『歴史感覚』を参照しながら、氏の考えに付け足しを行っておこうと思います。
 社会契約論によりますと、人間は長い間、秩序や法律のない「自然状態」のままで生活してきて、それは言い方を換えますと「万人の万人に対する闘争状態」でした。その中で「人は人に対してオオカミ」になっていたと考えられるわけです。弱肉強食の奪い合いや傷つけ合いを放置していたのでは、結局、人々の生命や自由や財産は脅かされる一方ですから、新しく「社会契約」を結んで、その危機を回避しよう、ということになります。
 端的に言えば、それまでの社会状況は悪いものであったと見なされ、それを乗り越えるために「社会的正義(ソーシャル・ジャスティス)」が謳われ、新しい秩序の構築が目指されるようになるのです。
 西部氏の言葉をそのまま借りますと、「社会正義をその国の歴史とは無縁のところに構想し、その超歴史的正義の実現のために、様々な種類のテクノクラート社会計画を推進していくような政治体制」が作り出されます。そして、その体制を支える考え方が「社会民主主義(ソーシャル・デモクラシー)」と呼ばれる、と西部氏は説明しています。社会契約論に基づいて建築される国家は、当然、制度としては社会民主主義を採用することになる、と考えられるわけです。そして、西部氏は、社会民主主義を次のように批判します。

 一体、誰がどのようにして伝統離反的さらには伝統破壊的なものとしての社会的正義を発見するのか。近代知識人が近代的理性つまり合理主義をふりかざしてそうするのである。・・・彼らは、豊饒な歴史の前で自分らがいかに小さな存在であるかを知るという謙虚さを持ち合わせず、そのため、自分らの実は貧相なものにすぎない頭脳のなかに社会的正義が宿るという幻覚にとらわれた。・・・健全な合理は歴史によって運ばれてきた伝統という名の非合理にもとづくしかないのだということが彼ら知識人=大衆人にはわからないのである。その結果、彼らは大小様々な合理的計画によって歴史を破壊することに過度に楽観的になる。ソーシャル・デモクラシーが、福祉国家の建設という大衆受けのする方針の下に、公共政策に精出すのはそのためである。・・・
 社会民主主義は、その極端型であるロシアの社会主義、その標準型である北欧の福祉主義、その微温型である欧米の混合資本主義などが次々と暗礁に乗り上げていることからも察しられるように、全世界的に制度疲労を見せつけている。それにつれ社会民主主義の現実も理想も混沌のなかに投げ込まれている。日本の政界の大混乱もまたその種の混迷の一種なのである。
(『歴史感覚』 pp41〜42およびp124)

 この社会民主主義と拮抗するのが「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」であるとされます。リベラル・デモクラシーについて、西部氏は次のように述べています。

 リベラル・デモクラシーはまず社会規範の根底をその国の歴史(伝統)に求め、そしてその伝統が何であるかを探るためにこそ「自由討論」を輿論および議会の両次元で旺盛に展開しようと構え、次にその社会規範の下で、できるだけ社会計画(統制、規制)を排して、自由討論および自由取引をはじめとする自由な活動の余地を広めようとするような体制である。
 自由主義に「保守的」の形容が必要なのは、それによって歴史的なるものとしての社会秩序の重要性を確認するためである。・・・
 自由民主主義とは、正義の観念を含めた意味での社会秩序の基底が歴史のなかに埋め込まれていることを洞察し、そうした秩序を保守するという姿勢に立って、人びとが「公と私」の平衡状態としての「個人の確立」をめざしつつ、自由を最大限に享受するような政治体制をさす。
(同 p29およびpp123〜124)

 その国の歴史や伝統のなかに「埋め込まれ」た、既存(発見されている場合も、されていない場合もあり得ると思いますが)の「社会秩序の基底」を、洞察し、保守するのが自由民主主義であり、この考え方が、新たに「契約」を結んだ上で、社会正義を発見したり創造したりしていくという社会民主主義とは相容れない、ということは、以上のように西部氏によって説明されています。

 毎日新聞の記事における、西部氏の主張は、結論部分にあります次の文に集約されていると言えます。

 国家が自己保存すべき最大の要素は、自国に多少とも特有の国民性のはずではないか。

いったいなぜ、「特有の国民性」なるものを「自己保存すべき最大の要素」とまで力説しなければならないのでしょうか。「大和民族の優秀性を世界に広めなければならない」と、多くの人々が信じ込んでいた戦時中の日本でしたら、「なぜ国民性を保たなければならないのか」などと、そんな疑問を口にしただけで非国民のレッテルを貼られたことは間違いありません。しかし、西部氏は少なくとも、自由討論を旺盛に展開すべしと述べていますから、問答無用で敵対視するようなことはないと思います。
 議論の展開を先取りするようでもありますが、なぜそのようなことを問わなければならないのかと言いますと、そういう、「特有の国民性」をこそ「自己保存」しなければならない、という、いわば自国への執着、自己への執着こそが、西部氏が言うところの「抑圧・差別・酷薄にみちた他者攻撃」を生んでいるのではないか、ということが、問題にされなければならないと思うからです。
 ここでは、西部氏が、著書『歴史感覚』において述べていることの中から、なぜ国民の特有性を保存しなければならないか、という問いに対する、西部氏の考えもしくは解答を探してみたいと思います。
 いくつかの文章を引用させていただきます。

 日常生活の中で拠るべき規範を失うということは、生の展望が暗くなり生の方向が見失われるということにほかならない。(p36)

 地球上のあらゆる存在の中では、人間だけが、生きる意味を自覚でき、生きる目的や理想を念じながら生きています。きわめて低次元の、場当たり的な目的しかもたない人もいれば、崇高な理想を念じている人もいて、それは人によって千差万別なわけですが、一切の目的も理想も意識しない、ということは、精神を病んでいる人は別としまして、まず、ありません。ですから、西部氏の言葉にあります「生の展望」や「生の方向」は、人間の本質的なあり方に関わることであり、そういったものが「暗く」なったり、「見失われ」たりすることは、人間の存在そのものを左右する問題であるわけです。
 ただ、多くの現代人にとりまして、規範を失うことは、人間の存在そのものを危うくすることなのだ、という意見が、果たしてどれほどの説得力をもち得るものなのか、大いに疑問でもあります。規範を捨て去り、その束縛から逃れれば逃れるほど、人間は「自由」になり、生の展望や生の方向は、より明るく開けてくるではないか、というのが、現代を生きている、おおかたの人々の本音だと思うのです。
 ですから、西部氏がここで言っていることは、間違いではありませんが、単なる「お題目」としてしか受け取られない危険性は高いように思います。
 しかし、いずれにせよ、西部氏は、生きる上での展望や方向を見失わないために、「規範を失ってはならない」と主張するわけです。そして、次に問題になりますのは、西部氏が、どこにその規範を求めるべきであると言っているのか、ということです。
 『歴史感覚』の他のところで、西部氏が「規範」について述べているところはあまり見当たらず、以下に引用させていただく箇所では、「基準」という言葉が出てきます。また、すでに引用させていただいた中にありました「世論」「輿論」に加えて、「大衆」「公衆」等の用語が、独特の意味をもつものとして(社会学の専門用語として)使われているのですが、これまでの議論を踏まえて読んでいただければ、氏の考え方について、かなりご理解が得られるのではないかと思います。

 世論が自己を信じることができないのは、みずから大衆となって吐き散らかす意見が確かに基準にもとづいたものでないことを公衆自身がひそかにせよ自覚しているからなのだが、さてその基準をどこに探るかとなると、まずもって歴史を通じて持続するものとしての輿論−−それは公衆の持つひそかな庶民的性質のうちに蓄えられている−−のなかにである。幾つもの旧世代が延々と運び来たった輿論のなかに物事の真善美にかんする基準が秘められている。少なくともそれが示唆されている、と考えるとき、公衆は過去へ遡及せずにはおれない。しかしその肝心の過去を包蔵するものとしての慣習体系が「合理的計画と社会的正義」によって破砕され、公衆は頼るべき過去が底抜けになっているのではないかという不安に苛まれている。それが世論の自己不信の根因である。それゆえ指導者は過去に進んで踏み込んで、自分の提案が輿論の指し示す良識(ボンサンス)と符合していることを公衆に向かって説得しなければならないのである。
 過去へ遡及することをもって反動とみなすのは、進歩主義の数ある錯誤のうちでも最大のものだといってよい。過去を参照するのは未来への変化を拒絶するからではないのだ。未来へ向っていかなる変化をどの程度に選択するのが妥当であるかを見定めるに当たって、その選択の基準を少しでも明確なものにすべく、歴史をつらぬいて持続した良識に尋ねてみるだけのことである。
(p52)

 まとめますと、「幾つもの旧世代が延々と運び来たった輿論」や、「歴史をつらぬいて持続した良識」などと言われるものが「物事の真善美にかんする基準」であり、それは「公衆の持つひそかな庶民的性質のうちに蓄えられてい」て、それこそが「拠るべき規範」である、ということになります。
 人間は、生の展望や生の方向を見失わないために、「拠るべき規範」を失ってはならず、それはすなわちそれぞれの国民が有するところの歴史や、輿論や、伝統や、良識である、ゆえに、「国家が自己保存すべき最大の要素は、自国に多少とも特有の国民性」なのである、といいますのが、西部氏の主張するところ、となるようです。
 歴史、伝統、良識、等々に対する、西部氏のきわめて強い信頼は、いったい何に基づいているのでしょうか。ここまで引用させていただいたものをはじめ、西部氏が書いたものをいくつか読んでみましても、この疑問に対する論理的な答えは見当たりません。端的に言ってしまえば、「古いだけで価値がある」「いいものはいいんだ」などという意見と、ほとんど変わりがないように思われるのです。
 西部氏の立場からしますと、アメリカという国は、たかだか200年あまりの短い歴史しかもたず、種々の移民によって作り上げられた「壮大な人工国家」ですので、「アメリカ的価値」には、ほとんど見るべきものなどない、否、むしろそれは、積極的に異を唱えるべき価値観とされているのです。
 他方、西部氏が強く支持するのは、イギリスという国家であり、その歴史や価値観です。『歴史感覚』には、次のように述べられた箇所があります。

 西欧とくにイギリスは、保守党という名の政党が今も健在であることからもわかるように、世界に先駆けて産業革命や民主革命といったような急進主義的な大実験をやったあと、漸進主義に方向を転じた。それは、畢竟するに、リベラル・デモクラシーを守るためであり、歴史的秩序に支えられないようなリベラリズムとリベラリズムに先導されないようなデモクラシーとの愚を悟ったからであろう。西欧においてその方向転換が成功したとはかならずしもいえないものの、その必要を察知しただけでも西欧は文明の立派な先輩なのである。・・・
 来るべき社会システム、それに人の眼を引くような新奇さを期待してはならない。むしろ、戦後日本人が無視しつづけてきた漸進社会あるいは安定社会の有難味を再発見するという平凡な作業がこれからはじめられなければならないのだ。日本人は今心の底では「成熟」することを求めている。そして成熟とは、人間の生活も社会の関係も様々な二面性に囲まれていると察し、そこで何とか平衡をとるべく努力することにほかならない。歴史の知恵が必要になるのは、その平衡感覚が長い歴史のなかでかろうじて培われるような種類のものだからである。
あえてわかりやすくいえば、革命や革新を警戒するイギリス流儀を日本もまた、もちろん日本に特有のやり方で、想起し習得すべき時期にさしかかっているのだと思われる。(pp53〜54およびp137)

 しかし、いわゆる「イギリス流儀」が、本当に見習うに足るものなのでしょうか。西部氏自身、上に引用しましたように、「西欧においてその方向転換が成功したとはかならずしもいえない」と、イギリス流儀も、常に過ちを犯す危険性をもっていることを認めています。かつての大英帝国の歴史は、植民地支配の歴史とほぼ等しいもので、アヘン戦争や、マハトマ・ガンディーが指導した「非暴力・不服従」のインド独立運動などは、中学校の社会科でも取り上げられています。
 イギリス流儀は、このような帝国主義の歴史および伝統に上に立つものでもあるわけです。また、昨年、アメリカがタリバン政権打倒のために軍事行動に踏み切った際、アフガニスタン周辺地域との関係が深く、情報に通じているイギリスは、先進国の中でもっとも強力にアメリカを援護しました。

 たとえば何千年という、長い歴史と、それなりの伝統をもってはいても、その国の流儀は、あくまでも相対的なものに過ぎません。つまり、その国にとってはよいことであっても、別の国にとっては悪いことである、という事態がいくらでもあり得る、といいますか、ほとんどすべてのことはそうであるわけです。
 大英帝国時代には、多くのイギリス国民が、イギリスが世界を支配することが善であると信じていた、と思われます。第二次世界大戦までのドイツ国民は、ヒトラーとナチスに正義があると思い込んでいましたし、アメリカ軍が日本に原爆を投下したのは正しい行為だったと考えるアメリカ人は、いまでも少なくありません。日本でも、太平洋戦争は大東亜戦争と呼ぶべきだとして、その侵略性より、正当性こそが認識されなければならない、という声が、近年むしろ高まる傾向にあります。
 長い歴史を有する国であれば、こうした相対性をまぬがれられると考えるとしましたら、それはまったくの幻想であり、自国やその国民性に対する執着に他なりません。これは本来、あらためて言うまでもないことで、上に挙げたようなほんの数例の歴史的事実からも明らかなのです。
 また、西部氏は、歴史や伝統の「必要性を察知しただけ」でも立派だ、と述べていますが、その程度のことならば、日本人にだって、必ずしもできないことではありません。現に、いま、教育基本法の改正が中央教育審議会での議論を中心にして進められており、そこでは、「国を愛する心(=愛国心)」を基本法に盛り込むことが、もっとも重要な話題になっています。必要性を察知しただけで立派なら、日本も誉められてしかるべきです。
 相対的な状況の中で、各人が好きなことをいいたい放題に言うのであれば、それが過去の慣習に沿ったものであれ、まったく新しい決まりを作り出そうとするものであれ、どちらも大差はない、ということになります。大多数の利益と選好に合致するところで、妥協のラインが引かれるのであり、それが過去に寄るのか、新奇さに寄るのかは、その時々の情勢や雰囲気に左右されるのです。これはまさに、衆愚政治(オクロクラシー)の姿です。 西部氏は『歴史感覚』やその他の著書で、さかんに衆愚政治を批判しますが、「特有の国民性」や「伝統の英知」なるものはしょせん相対性の限界を克服し得るものではなく、それらに頼れば頼るほど、自らが批判する衆愚政治に陥っていく、という悲喜劇を演じることになってしまいます。

 長年の慣習が「良識」であるという保証はどこにありませんし、それが仮に「良識」であったとしましても、先ほど良識の意味を「社会人としての健全な判断力」と、辞書で確認しましたように、それは現実の社会生活を円滑に送る上での適応能力なのであり、社会の情勢によっていかようにも変わっていく余地を含んでいます。原爆の投下も、日本本土への上陸作戦によって生じたかも知れない、莫大な人的かつ物的な損害を未然に防いだという面において、アメリカ人にとっては「良識」になり得ます。「良識ある国民はアメリカに荷担しない」と言ってみても、アメリカ人の側から聞けば、それは良識に欠ける発言なのです。むろん、アメリカをイギリスと言い換えても、何ら変わりはありません。
相対なものをいくら寄せ集めても、決して絶対で不動なものには至らないのです。私はこのことをしばしば数字にたとえますが、0はどれだけ足しても0のままで、決して1にはなりません。すなわち、あくまでも相対なものに過ぎない、伝統、良識、慣習などを、どれほど積み重ねても、そして、どれだけ長い間、つつき回したり練り直したりしてみても、それらが絶対的な規範や基準になることはあり得ない、ということなのです。
 西部氏にこの認識がまったく欠如しているのか、と言いますと、いちおう書かれたものの上からは、「そうではないらしい」と見えるところもあります。しかし、結論から言えば、認識があるにせよ、きわめて不十分です。片方で人間の不十分さや限界を言いながら、もう片方ではそれらを否定したがっており、少なくとも自分(西部氏)自身はその不十分さを逃れているという自負のようなものが見え隠れしていますので、論の展開に矛盾が露呈していたり、説得力を欠いたりしている、とも言えるのです。

 「矛盾」ということについて確認しますと、それが端的に現れていますのは、先述しましたように、西部氏が強く批判する「衆愚政治」の中に、実は西部氏の論理自体が落ちこんでしまっている点です。
 世界中どの国の歴史でも、侵略や、殺戮や、差別や、搾取などが繰り返されています。「伝統」や「良識」や「慣習」や「特有の国民性」などは、その過程で形づくられてきたものです。したがって、それらに価値を見いだすとしましても、あくまでもそれは、その国にとっての「善」でしかなく、他国にとっては許し難い「悪」である場合がほとんどです。そうした相対性を免れているところは、1つとしてありません。
 自国の伝統や慣習を世界に広めようとする企(くわだ)ても、そうした勢力に抗して特有の国民性を守り抜こうとする試みも、そこにあるのは規模の違いだけであって、両者は結局、「自国(=自己)への執着」という同じ土俵の上で争っているに過ぎないのです。情勢の動きによっては、たちまち力関係がひっくり返って、それまでやられっぱなしだった弱者が、強者の立場にとって代わることがあります。争いを有利に展開するには、どれほど自分の側に多くの味方をつけるかが、決定的に重要です。そうしましたら、大声を上げて自分の強さや正当性を主張したり、人々の利益や選好への欲望を刺激したりすることがきわめて有効になります。これこそまさに、オクロクラシー以外の何ものでもありません。

 また、「説得力」ということにつきましても、これまで触れてきましたように、なぜ自国の伝統や特有の国民性を大事にし、主張しなければならないのか、と問えば、「いいものはいいんだ」という以上にはないのです。そこはもはや論理の世界ではなく、好き嫌いの次元です。「いいものはいいんだ」と言われて情動が刺激され、「その通り!」と共感できる人にとっては説得力がありますが、「何だ、そんなもの」としか思えない人にとっては、まったく意味をもち得ません。
 引用させていただいた文章にも現れていますように、西部氏はたいへん博覧強記な方であり、知識や言葉を駆使して、「これでもか」と言わんばかりに読む側へと迫ってきます。それらは、左翼思想や、社会民主主義に対抗する論理として組み立てられています。西部氏によりますと、世界的に広まっている社会民主主義は、もはや制度疲労を起こしており、情勢は混沌の中に投げ込まれている、とされています。そして、この事態を打開するためには、社会規範の根底をその国の歴史や伝統に求め、その上で人々が自由を最大限に享受できるような、自由民主主義を確立しなければならない、と力説するわけです。
 しかしながら、社会民主主義と自由民主主義の、どちらを支持し、信奉するにせよ、何度も申しますように、それらは結局、相対なもの同士の、同次元の争いや選択に過ぎないのであり、紙の裏と表、「どっちもどっち」と言えるものなのです。
 もう少し言いますと、西部氏は「自由の享受」を主張しています。社会民主主義より、自由民主主義の方が、より大きな「自由」を「享受」できるのだ、というわけです。
 自己が肥大し、自由の飽くなき追及こそ、個人がもっている当然の権利である、と思っている現代人にとっては、確かにこれは耳ざわりのいい言葉です。しかし、その結果として、必然的に人々からは他己が失われていきます。誰もが自分の自由を貪欲に追及すれば、それは自由や権利の奪い合いにならざるを得ません。そうしますと、自分の自由が侵されていないか、権利が侵害されていないかと、そんなことばかりが気になってピリピリし、かえって精神の不自由に落ちこんでしまいます。相対な存在である人間が、自己に執着し、おのれの自由や権利の拡大ばかりを欲したら、必ずそうなってしまうのです。
 人間が生きていく上で、真に規範として従うべきなのは、そのような相対の世界を超えた、絶対の世界からの教えです。しかし、西部氏が信じていますのは、絶対な境地ではなく、あくまでも相対な者の営みです。絶対な教えを欠いた行動は、残念ながら、「無明の闇」における、人々の「執着」であり、「煩悩」であり、「あがき」でしかありません。それらを理屈で固めても、その理屈が「好き」で、それを利用すれば「利益」になると計算している人にとっては、説得力をもつでしょうが、それはこの世をますます混乱へと導くという、悪を為すものであるわけです。
 次回も、こうした点を、別の角度から、あるいはさらに掘り下げて、考えていきたいと思います。


* 中塚善次郎(2001) 老子の神髄・精髄(T),鳴門教育大学研究紀要,16,7-21.
中塚善次郎(2002) 老子の神髄・精髄(U),鳴門教育大学研究紀要,17,9-23.
中塚善次郎(2003) 老子の神髄・精髄(V),鳴門教育大学研究紀要,18(印刷中).

**世界史上の事柄につきましては、『クロニック 世界全史』(講談社,1994)から引用しました。



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