昼下がりの地質調査

-津山の地学・序論-

私は津山市の地質には不思議なところがある。と、以前から思っていました。

津山市の地質は大きく分けて3種類の岩石があります。
最北部の黒沢山近辺には古生代(2億4千万年以前)の土砂が固まって岩石になった古生層が分布しています。
中央部の丘陵地には新生代第三紀(6千4百年前〜170万年前)の砂を多く含む固まり方のゆるい岩石が分布しています。
最南部の神南備山周辺には中生代白亜紀(1億4千万年前〜6千4百万年前)の流紋岩質の火成岩が分布しています。
ずっと北の方、中国山地の高まった奥津町以北は日本列島の土台をなす花崗岩が分布しています。これは地下深い所でマグマが固まり、ゆっくりと冷えて出来た深成岩ですから、一番深いところにあるはずのものです。
神南備山周辺は別として、標高が高くなるにつれて古い岩石が見られ、津山市を出てさらに高いところに行けばさらに深いところにあるはずの花崗岩が見られるということは、津山市近辺の地層は常識に反して上下が逆さまなのではないかという不思議です。

これについては、中国山地と津山盆地が接するあたりに大きな断層(衝上断層)があると考える人もありました。
いやいや、中国山地が盛り上がる過程で地層が大きくめくれあがったのではないかと考える人もいるかもしれません。
今回は、ちょっとしたフィールドワークに出て、その謎を解き明かすことにしてみました。

まず、地学の基本的なところのレクチャーですが、津山市に3種類の岩石があるからといって、津山が2億年前は深い海で、1億年前は火山地帯で、5千万年前は浅い海で、今は陸地だと考えるのは誤りです。(今が陸地なのは間違いありませんが。)

プレート理論によると、地表(海底も含む)の岩体は地球を数枚に分けるプレートと呼ばれるグループに分かれていて、年に数センチというゆっくりした速度で動いています。
日本近辺のプレートはアメリカ西海岸の沖に始まって太平洋の底を日本に向かって動いてくるものと、ユーラシア大陸を載せて大陸とともに動く(大陸を基準にしたら動いていない)ものとがあり、日本列島の南半分で普通に見られる古生層は太平洋のプレートが3億年ほどかけてベルトコンベアー式に海底の堆積物を集めたもので出来ています。
したがって、少なくとも億年の単位の昔の岩石はここで出来たものというのは誤解だといえるでしょう。

逆に、新生代の地層を見ると現在の水平面に平行に近く、地層がほとんど曲がっていないことから、出来た後でそれほど大きな変動を受けていないことがわかります。

地層の境目には、自然に積み重なって出来た境目(整合)と、堆積の間に途切れがあって、違う年代や由来のものが重なっている境目(不整合)があります。
その不整合を見つければ、そのとき何が起こったか推定できるのではないでしょうか。

写真(左)は東小学校にほど近い宮川の川底に見られる第三紀層です。クジラやパレオパラドキシアが見つかったのはこの地層です。このすぐ東にある切通しにもこの岩石が出ています。岩石といっても砂が固まってできたてのほやほやといった感じで、引っ掻けば爪に砂が残るような脆い岩です。また、川原でこの岩石が石ころになっているのもあまり見かけません。川に流れたらすぐにこわれて砂になってしまうからです。

一方、鶴山城跡をなす「お城山」は古生層で出来ています。お城山では化石が出るという噂を聞いたことがありますが(史跡ですから見つけても掘らないように)こちらはエントモノチスという二枚貝で、中生代三畳紀(2億年前)の示準化石です。お?それではこれは古生層ではないのかな。
ちょっと私の知識がほころびてきました。が、いずれにしても古い海成層です。
お城山の化石は見つけられませんでしたが、そのすぐ下を流れる宮川に行ってみると(写真右)果たして古い岩石が出ています。黒っぽくて硬い岩石で、白い脈が走っていたりします。

両方の写真を撮った場所の距離は1kmそこそこでしょうか。その間に失われた歴史、津山盆地の秘密がある。と考えた私は、お昼休み、カメラを片手に地質調査の旅に出ました。
二つの全く違った地層の境目は意外と簡単に見つかりました。

写真の奥の島が第三紀層、手前の島は中生層(か、古生層)です。
あいにく二つの島の間は水面下にあるため境目は確認できませんでした。
この場所の、この岩が5千万年前ごろに海岸であったということは言えそうです。

それからもうひとつ言えることは、この場所が海になるときに、大変動はなかった、ということです。

川から運ばれる土砂が海に積もるとき、一番陸近くには小石や砂利が、ちょっと遠くには砂が、そして泥は沖のほうまで流れて積もります。
コップに砂と泥と水を入れてかき混ぜると最初に沈むのは砂で、それから泥が積もるでしょう。
堆積が始まる最初には大粒の小石が積もることが多いとされているのですが、この場所にはそれらしい砂利の層がありません。
どうやら新生代第三紀の海(古津山海)はそろりと忍び寄ってしだいに深くなっていったもののようです。

今回は本当の境目を見ることが出来ませんでしたから、そこが断層で、地層がずれて接していたのではないかという疑いをぬぐい去ることが出来ませんでしたが、実はその境目が展示されている場所があります。
場所は津山市二宮の国道179号線沿いです。
切通しのコンクリートに窓が切ってあるのを不審に思われた方はいませんか。
これが津山の歴史を物語る大事な窓だということを知っている人はそう多くありませんが、この窓の中に古生層と第三紀層の境目がのぞいています。見る限り地層が壊れてずれている様子はなく、平穏無事に接しています。

私が境目にこだわるのは、そこが一時的にでも海岸や海底だったのなら、現在海岸で見られるようなもの、海藻や植物や貝や漂流物や、そういったものの痕跡が見つからないかなあと、思うからです。それから、5千万年前の海岸に立ってみて、人類のいない時代の古津山海の景色を思い浮かべるのです。
第三紀層が大きな変動を受けていないことと、それ以外の地質がはるかに古いことを考え合わせると、その時代も津山盆地は案外今と大差ない地形のままで瀬戸内海のようなおだやかな暖かい海だったような気がするのです。

これはあくまでも私の感想であり、急激に隆起する中国山地とゆるやかに隆起する吉備高原の境目が陥没して津山盆地になったという説を否定する根拠は持ちません。

今回は片手間の調査のため決定的な証拠はつかめずじまいでしたが、この片手間地質調査は続けてていきたいと思います。
地学を志す人は得てして化石をほじくってコレクションすることばかりに目が行ってしまいますが、せっかく複雑な地質の上に生まれたのですから何の変哲もない大地のひとかけらでも友にできる喜びがあることを知って欲しいと思います。


この記事に関してはその後の調査の結果、自説を修正することとなりました。 続編と併せてお読みください。
調査からずいぶん経ちましたが、その後この場所で護岸の改修がありました。このため、謎だった境界面が掘り返されてずいぶん見やすくなりました。 実は工事の最中も掘り返された現場を見に行っていたのですが、肝心の境界面のぎりぎりのところは破壊されて泥まみれで、これと見極めることはできませんでした。 結局ホントウのところはどうかというと
謎だった2つの地層はずいぶん近いところで並んだ島になっていました。
ところが、護岸工事で掘り下げられた部分が深い流れになっていて、容易に近付けません。というか、飛び降りるのは簡単そうですが、帰ってくることができなくなりそうな予感です。
結局、意を決して飛び降りちゃいました。
ぎりぎりの境界面はここです。左下が中生層、右上が第3紀層で、断層を介さず、水平に近い接し方をしています。
ただ、この水平に近いというのがクセモノで、すぐ南にそびえるお城山(鶴山城跡)のてっぺんが中生層ですから、水平な中生層に水平な第3紀層が覆いかぶさったものではないようです。
ここが断層でないという決定的証拠です。
新しい堆積の始まりには通常基底れき層といってれき(石ころ)の層が堆積しますが、この場所でも幅にして十数メートルのれき層が見られました。
面白いのはれきの中に大沢池でも見られた真っ白な石英の石ころを含んでいることです。
究極のところ、この調査地点で大変動があった(断層)のか、なかったのか(不整合)というと、どうやらなかったようです。
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