津山盆地と中国山地の境界

-一宮に見られる大変動の証拠-

前回、30分ばかりの片手間地質調査の結果、大変動の証拠は見つからなかったという見解を出してレポートを締めくくったのですが、次の調査地点では逆に大変動の証拠を見つけてしまったので、自説を訂正して、ここにレポートします。

今回の調査地点は一宮地区の大規模農道が西の方でトンネルに入る手前のあたりです。
写真の奥の方、大きな矢印看板があるあたりは以前から典型的な古生層だと思っていた場所です。
一方、写真の手前右側の山は第三紀の砂泥互層(砂と泥が交互に積もった層)がみごとに積み重なったのが見られた場所でしたが、現在は急速に開発されて宅地となっています。
この両方の山の間に古生層と第三紀層の接する場所があるはずです。今回の片手間地質調査はそれが見つからないかということで行ってみました。

まず、住宅団地となりつつある手前の山に登ってみましたが、宅地造成の真っ最中で、かつて見られたみごとな地層はあらかた壊されてしまっていました。
辛うじて埋め立て直前の宅地の根元で第三紀層を確認しましたが、比較的新しい岩石のためか、風化のためなのか、外気にさらされたとたんひび割れて土に戻ってしまうような状態でした。

第三紀層地帯の特徴は、岩石が風化してできた土の中にほとんど石ころと呼べるようなものが含まれていないというところです。もし石ころが見られても踏みつけたらポロリと崩れてしまうような岩です。
化石が含まれていることはむしろ少ないのですが、化石がある場合、化石からしみ出したカルシウムが周囲の泥を固めてノジュールと呼ばれる丸っこい固まりを作ることもあります。
どんな岩石も風化してしまうと似たような土になってしまうのでこの辺は見慣れることが必要です。
(土を見て岩石を論ずるのは本来は邪道ですが。)

さて、今回の目的地のがけにたどりついて、古生層の典型的なもの(広域変成作用を受けて黒色片岩になっています)を写真に収めようとしたら、岩の中に丸い石ころが混ざっています。これは妙です。

私の理解によれば、2億年ばかり前の堆積岩は太平洋の底に堆積したものがプレート運動によって日本列島に押しつけられて岩になったと考えられます。太平洋の真ん中に石ころが沈んでいるわけはありません。このがけは額面通りの古生層ではないようです。
よく見ると岩石は確かに古生代の黒色片岩ですが、それぞれが自動車ぐらいの大きさの岩に割れていて、間に石ころが詰まっています。
がけを右の方に回り込むとすべてが砂利の層になっていて、これは古生代の石を礫として含む第三紀層であることがわかります。しかも、陸地か、陸地にきわめて近いところで堆積した、基底層であることがうかがえます。
さらにこのがけのすぐ東側では道路の下に同じようなれき層がずっと下まで続いているのが観察できます。南側が高くなるような傾斜になっています。
どうやらここは何十メートルもの崖を砂礫が埋め尽くした大変動の現場であったようです。
大変動の内容には二通りあって、一つは、ここが玉野市の渋川海水浴場や高知の桂浜のような砂利の浜で、しだいに海面が上昇(あるいは陸地が沈降)していったために砂の層が深く堆積していったという状況です。これは今でも見られることで、その時々では一大事が起こっているようには見えません。ちょうど現代の地球温暖化で海面が毎年数ミリずつ上昇するのと状況は似ています。(現代は地球の歴史にかつてなかったほどの大変動の時代です。)
もう一つは、この場所が破壊され、食い違ってしまった断層の面だったという考え方です。これはがけの左側の方で見られる状態にあたります。地質が食い違っている境目は砕かれた岩石が詰まった断層破砕帯になります。

この二つの大変動が同時期に起こったのか、別々の時期だったのかははっきりしませんが、断層の根元が長期にわたってちょうど海岸線だったというのは偶然が過ぎますから、堆積の方が断層より先と考えた方が適当でしょう。これが逆だと断層破砕帯に丸い礫が混入したことが説明できません。

今度はこの場所からわずかに西の谷底に行って岩石を見てみました。
谷底は古生層で、層理がそろっていることから、断層によって破壊された形跡は見られません。また、これより西のトンネルが貫いている山はずっと上の方まで古生層です。先に登った住宅団地がてっぺんまで第三紀層だったのと対照的です。
このがけが、断層破砕帯であり、ここを境に南西が古生層、北東が第三紀層となっており、両者がはげしく食い違っているということは間違いないようです。
この場所だけ、がけにコンクリートをかぶせずに地層を露出させているのは手抜き工事だったからではないようです。津山の歴史を物語るためにあえて残したものに違いありません。

断層は間に砕かれた岩石が生じるため、水が集まって谷になることが一般的ですが、ここはなぜか丘のてっぺん近くで地質が食い違っています。


この場所の地図を等高線だけ抜き出したらこうなります。地図の中央部を境として南西と北東では等高線の密度が違っていることがわかるでしょうか。古くて堅い古生層はけわしい地形を作り、新しくてもろい第三紀層はなだらかな丘陵を作っています。宅地や、山林や田畑の下にあってもなお、大地はその歴史を物語っているのです。

(しかしながら、地形だけを見て地質を論ずるのはもちろん邪道です。)

この調査地点では西が古生層、東が第三紀層になっていて、例外的な場所なのかもしれませんが、こうした断層がいくつかあって津山盆地と中国山地を地形的に分けているのだろうと思われます。

さて、今回の場所で見たものがあまりに意外だったので、改めて前回紹介した二宮の不整合が見える窓に行ってみて、不整合面がどうなっているのか詳しく観察してみました。(それを最初にすべきでした。)
案の定、今回一宮で観察したのと同じような砂礫の層が第三紀層の一番底にありました。
前回見つけた宮川の川底に見られる食い違い部分では、こうした砂礫の層は見られませんでした。また、第三紀層は水平に近く乱れなく堆積していたこと、境界部が水底で確認できなかったことを考えあわせれば、その場所もまた断層によって南が高く、北が低くなるように食い違っていた可能性が出てきました。いや、鶴山城跡のてっぺんまで古い地層(中生層)であることを考えあわせればむしろそう考えた方が自然です。

片手間といいながら、津山じゅうを見て回らなければならなくなった片手間地質調査でした。


補遺・はみだし写真集
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