空から見る津山

-Web地図サービス航空写真レイヤ-


津山市役所のサイトにはきらきらつやまっぷというのがあって、地図ベースの様々な情報とあわせて航空写真も見られるようになっています。
今日はこれで津山市内の私の好きな場所を覗いてみることにします。

この航空写真は今のところ平成12年の11月撮影のものが用いられています。
影のぐあいから時刻は昼近い午前中、駐車場の車の具合から休日であろうと推定されます。
たぶん11月23日(木)勤労感謝の日ぐらいではないでしょうか?
まずは名所といえば鶴山公園ですか、桜の名所として知られていますが、史跡でもありますから老木となった桜の植え替えはできなくて苦慮しているそうです。
石垣は西と南で4層になっており、北と東は2層です。築城の際、2層を超える石垣を巡らせると過剰な防備とみなされて幕府の認可が出ないところ、東側だけ見せて誤魔化したという話を読んだことがあります。
現在は築城400年記念事業として天守閣南の備中櫓の建物を復元しようと作業が進められています。この写真では北側に本丸まで車で登れる道路が取り付けられているのが見えます。
写真左端の街路が斜め(北東〜南西)になっている2本の道路が見られますがこの2本の道路の間がかつては堀になっていて、そこまでが城内であったようです。
写真左上方の大きな建物は津山文化センターですが、この場所に明治初期には北条県の県庁が置かれていたことがあります。
築城以前からこの場所にはもともと山があり、それに石垣を付け足して城にしたようですが、ずっと以前レポートしたことがあるように、山そのものは中生代の海成層でできています。
鶴山城跡の中に2億年前の示準化石であるエントモノチスが出る場所があるそうですが、それらしき場所があっても掘ってはいけません。たぶん東よりの傾斜が急で石垣が少ない部分だろうと思います。
名所ではありませんが私が津山の航空写真で好きなのは津山駅の車庫です。
転車台と扇形の車庫というのは、他では珍しいのかどうか知りませんが航空写真うつりのよい、かっこいい物件です。
実物はちょっと古びていますが、まだまだ現役で活躍しています。
駅の南は田んぼばかりでしたが数年前に区画整理が完成して住宅地になりつつあります。
駅から西に2組の線路が伸びていますが、これは複線ではなく、北側が姫路と新見を結ぶ姫新線で、南側が岡山に向かう津山線です。
私が学生の頃、朝7時12分発という列車が3本あって、私はよく津山線岡山行き7時12分発に乗ったものです。同時に姫新線上りと姫新線下りが発車するわけですが、正確には45秒ぐらいの時間のずれが決められていて、津山線のほうがやや遅く発車することになっていました。
ところが姫新線下りにかけこみ乗車などがあると、津山線の列車が姫新線に追いついたり、抜き返したりするチャンスが生じます。姫新線の方も偶然なのか意図的なのか大差をつけて逃げ切りというのはあまりありません。
そうして平行する2組の線路で津山線と姫新線が抜きつ抜かれつの競走をすることがしばしばあったのがこの朝の列車のひそかな楽しみでした。

こうして拡大してみると、線路が2本あることがなんとなく見えますから、かなり精度の良い航空写真です。
この車庫には2002年12月15日からDE50 1号機が駐機してあります。

今度は一転して津山市南東部の福井地区近辺です。
山あいを川が大きく蛇行しています。
こういった地形を貫入曲流(嵌入曲流)といって土地が隆起していることを示すものと考えられています。
また、川と山の間の土地は段々になっていて、河岸段丘と呼ばれています。河岸段丘は日上地区の方が大規模ですが、ちょっと航空写真のシステム上、一枚の画像におさまりきれません。
こういう地形は初めまっすぐな川だったのが、山を浸食していく過程で曲がりくねってきたように思われがちですが、実際は石狩平野のようなまっ平らな平野(海抜はあまり高くない)を石狩川のような曲がりくねった川が流れていて、土地の隆起とともに川がその場所に深く刻み込まれていったと考えられています。そのために嵌め込むという字を用いた嵌入曲流という言葉で呼ばれていましたが、あまりに古臭い漢字なので貫入曲流という字があてられることもあります。
中国地方にはこうした地形はあちこちに分布していますが、ここは極端な曲がりくねり方でひと目でそれとわかるのが面白いところです。
隆起が起こったのは時代的には新生代第3紀以降のことですが、それは現在でも続いており、5千万年ほどの間に数百メートルの隆起が起こったようです。
ここは津山市東部の高野地区です。
長方形の田んぼが広がり、その間に住宅地が散在しています。
特に南よりの@と番号を打ったあたりは区画が正しく東西南北を向いており、古い町並みもこれに従って発達しています。ただし形はちょっといびつです。
これに対して線路と川に挟まれたAのあたりは区画がシャープに区切られていて1枚あたりの面積が大きく取られています。宅地はあまりありません。
Bのあたりになると街路がS字状にうねっていて、整然とは見えませんが、宅地化はここが一番進んでいます。
これらの区画整理はいつ頃何の目的で行われたものでしょう。
まずBは、昭和52年頃完成した土地区画整理事業で、宅地化を目的とした都市計画事業です。住宅地にするための区画整理は碁盤目のように正確に直交する街路を嫌い、うねった町並みに作るのが定石のようです。こうすることで街中で車がスピードを出し過ぎるのを防いだり、通過交通をなくし、本当に用のある人だけを受け入れる街にできるようです。
次にAは昭和43年頃にできあがった圃場整備事業で、田んぼをまとめて使いやすくする土地改良事業です。ここから高野駅周辺にかけては区割りの大きな田んぼが広がり、住宅はほとんどありません。
さいごに、一番古そうな@の区画整理はいつ頃何の目的で行われたものでしょう。
実はこれ、平安時代の条里制がそのまま残っているもののようです。
いつかといえば1200年ほど前、何のためといえば口分田といって国民一人ひとりに決まった面積の田んぼを貸与するために、田んぼの区割りを整え、面積をひと目でわかるようにしたのです。
何とも悠久な感じがします。津山にはこうした条里制の区割りが方々に残っており、考えてみれば町全体が史跡みたいなものです。これに比べたら今の国道や線路は方位など関係なしに無造作に条里制を横切っており、現代の土地区画整理はいびつな区画づくりを一つの目的としているわけですから、目的が違うといえばそれまでですが1200年前の国家事業の規模や姿に負けているような気がします。
最後に条里制の名残をもう一つ、ここは津山インターチェンジがある河辺地区です。
上の方の大きなのがジャスコで、左の方は松下電器の工場です。
国道とインターチェンジができたのは昭和48年頃だったと記憶していますが、それまでは平安時代の南北の区割りしかなかった地区です。
こうしてみると松下電器の工場は条里制の区割りそのままに工場が作られていますが、ジャスコは国道と平行な、方位からいえば斜めの区割りに配置されており、南の角だけが条里制の区割りに従っています。1200年前の国家事業に一部だけ敬意を払ったというところでしょうか。
あと、この写真で面白かったのは、遠くからでもよく目立つジャスコの赤い看板ですが、航空写真によると中身は空っぽで、屋根はついていないようです。って、当たり前といえばそうですが、それが上から覗けてしまいました。

こうしてみたら、上から見るだけでいつもの街が歴史の重みを感じさせたり、ふだんぼんやりと理解していたものが直感的にわかったり、なかなか面白いことが見えてきます。
他にも面白いところはたくさんあるのですが、画像が重くなりすぎましたので今日はこの辺で。


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