技術の定義について
「技術とは何か」を規定する技術論には、「労働手段体系説」と「意識的適用説」という二つの説があって論争が続けられてきたが、現在の技術論の主流は「労働手段体系説」であると言える。
岡邦雄らは、「技術とはもろもろの労働手段の体系である。」と規定した。生産技術の主体をなすものは、道具、機械、装置といった労働手段である。しかし、これらの労働手段がはらばらに存在する状態では技術とは呼べない。これらが人間の知識や技能によって結合され、それらに適応した取り扱い、操作上の規則にしたがって働かされてはじめて技術と呼べるのである。つまり、個々の労働手段ではなく、労働手段の体系こそが技術であると言うのである。
しかし、三枝博音は『技術の哲学』の中で、次のように述べている。
「技術とは労働のもろもろの手段の体系であるという技術規定がしばしばいわれているが、この規定は多分にブハーリンが『史的唯物論』において試みた彼のいわゆる『社会的技術』の解釈にもとづいているもののように考えられる。・・・(中略)・・・技術を定義してみることはかなり困難なことであって、その割合に利益がすくないように思われる。マックス・ヴェーバーがいったように『マルクスは技術という概念を定義したことはなかった』が、プハーリンもまた『技術』を定義したことはなかったのではあるまいか。彼にとって問題となるのはむしろ『技術』を語ることではなくて、『社会的技術』を語ることであった。ところが、日本では『社会的技術』というべきところを、『技術』とのみいってしまうことがあまりに多い。」
つまり、「労働手段体系説」における「技術」は「社会的技術」(生産技術)であることを確認しておく必要がある。
「労働手段体系説」を批判するものとして「意識的適用説」がある。武谷三男は「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。」とした。この説によれば、技術は客観的法則性(科学的法則)の応用であり、科学的知識に規定されるものとなる。確かに、現在の技術は科学と大きく関っている。しかし、科学によって規定されるものではけしてない。カルノー・サイクルの熱理論はワットの蒸気機関の発明よりはるかに遅れているし、発火法を生み出した古代人の摩擦に対する知識は無に等しかっただろう。技術は必ずしも科学を前提とはしないのであって、「意識的適用説」の規定は不適当と言わざるをえない。
ところで、「意識的適用説」において最も重視されたものは、人間による生産的実践であった。つまり、技術における人間主体が問題とされたことについて注目すべきである。今もなお「意識的適用説」を説く人々も少なくないのも、この点を問題としているためではないだろうか。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で次のように述べている。
「すべての技術はものを生じせしめることにかかわつているのであって、技術をはたらかせるというのは、やはり、『あるとあらぬとの可能な、そしてその端初が制作者に存していて作られるものには存しないような事物』である何ものかが、いかにすれば生じうるかについて考究するということにほかならない。」
アリストテレスは技術の端初(根拠)が制作者自信にあるとし、技術を「その真を失わないことわりを具えた制作可能な状態」とした。そして、技術を知慮(フロネシス)や(ソフィア)と同じく、人間の知的能力のひとつとしたのである。
教育の立場から、「技術」を見る場合、それを人間の能力のひとつとしてとらえるべきではないだろうか。カントは『判断力批判』において、技術を快・不快の感情による認識能力(判断力)の中に見出した。つまり、技術は実践的規則に従い、知識や経験に基づいた知的な能力であると考えたのである。(ここでいう実践的規則とは法則と称せられるようなものではなく、せいぜい指定と呼ばれるにすぎない。)
技術科で教えるべき「技術」は、広義の技術一般であり、「実践的判断力」とでもいうべきものであろう。
前のページへもどる