手工科

1.手工科
 初等教育の教科目として手工科が成立したのは、明治19年である。同年に制定された「小学校令」において、高等小学校の教科目中に手工が加設科目として加わり、それと同時に師範学校において手工が必須科目として男子に課せられた。

「小学校令」(明治19年)
 高等小学校の教科として、土地の情況により、農業、手工、商業の一科または二科を加えることができると規定。

「小学校令改正」(明治23年)
 手工は尋常小学校にも加えることができるようになる。

 しかし、実際には設備、指導者の不足から農業を加設することが多かった。また、手工や農業などの作業を教育に取り入れた目的は、当時の絶対主義的教育体制の下で、実用的価値を重視し、勤労愛好の習慣を養うためであった。生産的労働が子供の能力を調和的、全面的に発達させるという、ルソーやペスタロッチらの教育思想とはかけ離れたものである。

2.手工科成立の要因
 国内的な要因としては、国策であった富国強兵、殖産振興による工業技術の奨励などがあげられる。また、国外的な要因としては当時の欧米諸国の手工教育運動の影響が大きいと思われる。その主なものとしては、イギリスの「王立技術教育委員会」の報告、フランスで開かれた「小学教員万国博覧会」、印刷物などでわが国にも伝えられていたスウェーデンのネース師範学校やアメリカの手工師範学校、手島精一(東京工業学校長)の海外視察などがある。

○イギリスの「王立技術教育委員会」
 1881年に設けられ、ヴィクトリア女王より任命された6名の委員より成る。自国およびヨーロッパ諸国の学校を視察し、1884年(明治17年)に報告書を刊行した。この報告書は翻訳されて「技芸教育に係る英国調査委員報告」として明治18年にわが国の文部省から刊行されている。イギリスでは18世紀当時から「作業学校」、「貧民学校」において手工業を課することが広く試みられていた。

○フランスの手工教育
 1873年にパリに創立した「サリシー学校」が手工教育実施の先駆となった。ここでは、小学校の教科のほかに、図画、塑造法、木工、金工、工芸などが課された。パリ万国博覧会(1878年)以後、技術教育が国家の政策に関る問題として関心をもたれるようになる。明治18年にハーブルで開かれた「小学教員万国博覧会」では、手工科と小学校教員の給料等について討議され、日本からも宇川盛三郎が出席している。

○ロシア法
 1868ネ年にモスクワの帝国技術学校長デラ・ボスが考案した技術教育の新方法。従来の徒弟制度における伝統的な模倣による技術の教授方法を捨てて、製作の過程をいくつかの部分に分解し、それぞれの練習を重視した。手島精一はフィラデルフィア(アメリカ)で開かれた万国博覧会でこの「ロシア法」に接している。

○スロイド手工(スウェーデン)
 サロモンがネース師範学校で実施した。伝統的な家内工業であったスロイドをもとに、「ロシア法」と同じく製作過程を分解し、経済的見地を離れた普通教育を目的とした。

3.手工科の衰退と再興
 手工科は一般教育を目標とする教科目ではなく、実業との関連を重視した特異な教科目であった。また、基本的な訓練を無視し、児童にいたずらに高級な物品の製作をさせて世の不評を買った。しかも設備に多額の経費を要すること、適当な指導者の得難いことなどがいっそう手工科の不評に拍車をかけ、開始後数年で次第に廃止される傾向を示していた。
 ところが、日清戦争によって漸く発達の緒についたわが国の近代産業は、日露戦争によってますます促進されることになり、教育の問題としても産業教育、とりわけ工業教育の振興が関心の対象となった。この工業教育振興の風潮は小学校における手工教育の振興にまで及び、明治36、37年ごろから再び手工科加設の小学校が増加することになる。
 36年には小学校令が改正され、修業年限3年以上の高等小学校における男子の手工は必須科目的な扱いを受けるようになった。この結果、年々手工科加設の学校が増化して行くことになり、33年に全国合計33校であったものが11年後の44年には 13007校に上っている。このように、この時代の手工教育の発展は、工業を中心とする生産力拡充という国策がその原動力をなしている。

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