天狗寺陶白人の我以外皆吾師

 

GongoToudan                              Touhakuzin TENGUUJI

天狗寺陶白人の 言語

我以外皆吾師

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


篠原有司男作 タイトルなし

 

二十年前に三十八年前の夢を現実のものとし、

1989年1月1日私はニューヨークの篠原有司男のスタジオを訪ねた。

 

そのときに戴いたギュウチャン作のめん玉、

私はギュウチャンのめん玉だと思っている。

裏面にはマジックで日付とサインがある。

勿論MR TENGUUJIへと書いてくれている。

 

このめん玉が有るから

焼物で人を感動させることの出来る作品を作るべく

焼物の道を歩み三十有余年・・・・・

目玉を眺めてはマダマダト思いガンバロウと思う。

 

篠原有司男公式ブログ http://gyuchang.jugem.jp/

 

 

 

 

平成19年12月

 

 


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水月窯五客組中皿19cm×4cm高さ

 

もう随分と前になる・・・

中国が今の状態でない時の昔、上海へ行った事があります。

船に乗って帰りの切符を持たずに行きました。中国に憧れて、・・・

憧れていたのは昔の中国文化のことですが・・・

 

帰る予定も無かったのかな?半年ぐらいの予定だったのかな?

とても自由な上海での中国の人たちに会いました。

その前に行ったニーヨークの人たちよりなぜか中国人の方がより自由な考えを持っていると感じました。

 

でも1週間で日本に帰ってきました。

 

1日も早く日本へ帰りたかったので帰りは飛行機でと思い、

随分と高いビルの中に切符を買いに行きました。

歩いている中国の人に飛行機会社への道を聞くとトウ,トウと、教えてくれたのが「塔」・・・

ビルのことでした。

なぜ帰ろうと思ったかはまた別の機会にお話します・・・いわゆるホームシックでは有りません。

日本へ帰っても奈良へ京都へと寄り道しています。

 

奈良には中国がありました。奈良の墨屋さんで中国産の端渓硯を買い

この日本を奈良の骨董屋さんで買いました。

当時の私には随分高い買い物でした。

半年分の中国滞在費が残っていましたから買えたのだと思います。

 

五枚それぞれが異なった自由で伸びの有る筆使いの鉄絵、

釉がけの作業が美しさとして表われたそれぞれのうわぐすり、

土見せや、土の美しさは言うまでも無く・・・

中国から帰った私はこれらの日本を抱えて京都へ向かいました。

 

私が感じた日本は、

この皿たちが十分に表してくれているのかもしれません。

 

 

平成19年05月

 

 


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葵窯加藤春二作瀬戸黒茶盌10,0×10,0cm高さ

 

師の師の瀬戸黒茶盌

 

師・長倉三朗の師・加藤春二さんの茶盌ですが、出会いというものは有るもので、

個展会場を探していて偶然に見つけた茶盌で出会いだと思い購入しました。

加藤春二さんの作品を見たことが無かった不勉強な私ですが、

豊田市のDPで美術画廊にありました。

その美術画廊では我個展を開催することなく終わりましたが、

新しくなったDPで、個展をさせていただいています。

 

加藤春二‥尾張瀬戸の陶工で、十一世加藤元十の次男で、
1890(明治23)年に分家して陶業に従事し、古法に従い、
風流を製陶のテ−マにした人で、竹里庵と号しました。

葵窯・・尾張徳川家康御用達窯である。

黄瀬戸等を得意とする他、代々轆轤の上手さでは定評がある。

 

桐箱底裏に葵窯の朱印瀬戸黒茶盌春二作春二の朱印

写真のように口部が茶色に明るくなり

見込みが外から見るより深く感じる茶盌

 

 

平成18年08月

 

 


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 Ann Cutcher作 備前徳利(金重陶陽窯) 10,0×15,0p高さ

 

石はぜが見所の思いでも深き備前徳利

 

Dr.Annが日本にいた頃の最後の作、日本を離れるとき頂いた徳利

Dr.Annは日本を離れてから、アメリカで医者になる勉強をして医者になった。

現在の仕事場はhttp://www.ensohouse.org/overview.htm

 

備前では金重道明さんの助手などして過ごした。

日本研究の成果の徳利で、日本人より日本らしい徳利は

手取り、大きさ、焼き味、特に高台の糸きりは抜群の作品で、

外人さんにこんな事やられたら、立つ瀬が無い。

これも、道明さんの指導の賜物なのか・・・、

イサム野口にあこがれていた彼女。

 

もう三十年も前になるのかなぁ・・・・・?

 

冷酒を徳利に入れ、そのまま徳利ごと冷蔵庫で冷やす。

いつまでも冷たく美味しいお酒がいただける徳利。

 

 

 

 

 

 

 

平成18年06月

 

 


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 知花南蛮窯 中川伊作作亀香合 8,5cm×6,5cm×4,0p高さ

 

10年ぶりに沖縄に上陸した。沖縄はどんどん変化していたし、

知花南蛮窯の周辺も様変わりしていた。

混沌とした雑多の中の明るいエネルギーが沖縄の魅力であるはずだ。

洗練され便利な沖縄は他の都市と変わらなくなり薄れていく沖縄の魅力。

内地(京都)から沖縄に来た伊作先生は、

薄れていく沖縄の魅力を少しでも焼物の中にとどめようとしていたのかもしれない。

中にいると解からないことも外から見ると解かる事もある。けれど、

なかなか伝わりにくい沖縄のよいところだとも思える。

 

交趾の亀香合を手本のこの香合は、青黒く土が良く焼けている。

黄色を出すのに苦心されていた伊作先生のことが思い出される。

高台もしっかり作られ、黄色が塗られている。

上部の亀甲紋も黒絵の具が塗られている。内部に中川の角印があり土見せとなっている。

 

久し振りの沖縄は30歳の我が身を思い出させてくれた。

ウコンや芭蕉布や染め物にある黄色は沖縄のエネルギーの色だ、中国皇帝の色でもある。

 

 

 

 

平成18年05月

 


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飛騨小糸窯 長倉三朗作 ブリブリ香合 8cm×3、6cm×3,6cm高さ

 

お正月にふさわしい焼物をと考えた挙句、

言語陶談・序にかえて・に登場の長倉三朗先生のブリブリ香合です。

重ねておめでたい結婚のお祝いに頂戴した、いきさつ等はそちらを見ていただくとして・・・・。

 

織部に上絵で色を付けている、30年前の作品とは思えない斬新さが目に付く。

白化粧の上に鉄で吉祥紋を描き、上薬をかけ、織部釉をかけて焼成後の色絵、

上絵の窯に入ったにもかかわらず織部釉が綺麗で土の色も美しい。

手捻りの端正な仕事は小糸泰山鉢にも通じる、鉢でも上絵の作を拝見したことがある。

 

小糸の「糸」のサインは文字が透明釉で光り輝く、

私も修業時代に「糸」のサインを入れさせて頂いたが、

陶工それぞれに「糸」の文字を工夫したサインを入れていた。

「糸」の文字は「小」の字を含むので「糸」の文字一字で「小糸」と読める。

 

この斬新で風雅また伝統的である焼物を吾師としてこの一年作陶に励みたい。

 

平成18年01月

 


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永楽作金襴手酒盃 径6.6×3.cm高さ

 

結婚後すぐの生活苦でアルバイトをしたとび職、

京、山科で民家解体現場でのごみだめに鶴を発見!拾得物の永楽さんの酒盃。

興味の無い人には、名作の焼物もゴミらしい。代々続く名家の作で何代目の作かは不明。

棄てられていた器で棄てられない器。

口に紅が引いてある、ホツレも有る。

 

金襴手の赤がオレンジ色に近くとても上品な感じでお酒を入れるととても綺麗。雅な京都産の器。

同じ赤と金の作品でもそれぞれの産地で全然違う。

今更ながらに焼物の持つ地域性を強く感じます。高台内に金で丸に永楽の書き印

 

 

平成17年12月

 


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九谷庄三 秋草紋小鉢 12×3cm高さ

 

「 独座観心 」で一人静かに座ると、内側が外側になるときがある。

絵画は表面的産物であるが、内面を表しているように、

焼物の世界では、表面的な内部空間で外側を受け止める(包み込む)とゆうようなことが頻繁に起こる。

 

話のうまい店主に伊万里の向付五客のオマケに付けるといってこの作品をもらい、

成り行きで高い向付を購入した思い出があるが、

オマケだから偽物かもしれないなと思いつつもこの緻密な筆運びや配色など学ぶべき所が多い。

色絵の勉強には重宝しました。・・・・・・岡山に行く国道沿いの骨董屋さんに立ち寄った時の思い出の品。

 

久谷の赤い色は渋くくすんだ感じがあるが、赤い色の上の金を寄り一層引き立てる。

赤い色は食欲増進。

 

九谷庄三 SYOZA文化13年〜明治16年(1816〜1883)

庄三は能美郡寺井の農家に生まれ、九谷各地の窯で修業し、

天保3年17才のとき、陶匠として小野窯に招かれ、赤絵細描や粟生屋風色絵の優れた作品を作りました。

天保6年よりのとの梨谷小山焼や越中の丸山焼より 陶技の指導にまねかれ、

天保12年に26歳で寺井に帰り、陶画工として独立、庄三と改名しました。

天保6年には、上絵顔料を求めて山野を探索しているうちに、

火打谷に岩土を発見しています。

世にいう 「能登呉須」で、後世の九谷焼絵付の顔料として貴重な発見ですまた、

 

幕末から明治初期にかけて輸入された洋絵の具をいちはやく取り入れ、中間色の絵付を行っています。

 慶応元年(1865年)独特の色調のある赤・えん脂・白盛・黒・茶色と、

彩色色といわれる緑・黄・紺・青・紫・ 淡緑と更にこれらの色をそれぞれ交ぜることによって、

その中間色を出すことに成功し、この多彩な色を駆使して 彩色金欄手という絵付を確立しています。

KUTANI NAGOMI GALLERYより抜粋)

 

 

平成17年11月

 


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北山満智子書『独座観心』表装も

 

20年ぐらい前からお客さんだった彼女が、何時の頃からか作家として活動し始めた。

最初の個展の作品だと思う時の作品、案内状をいただいて見に行きたいのだけれども、

時間、東京までの交通費、宿泊などを考えると出足が鈍る。

それで、電話で作品の購入を決めた、「 独座観心 」の言葉で決まり。

榊獏山さんの孫弟子になるらしい北山満智子さんのこの作品はそのような感じがするが、

今頃の作品からはそれは感じない。

 

今は、ミュージシャンや、パーホーマーとのコラボレーションで活躍されている。

私の焼き物作品に付随している絵を表装されて、

京都での表装コンテストで受賞された事もある、勉強家。

 

 

 

平成17年10月

 


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宇野三吾作 焼〆茶盌 14、3×7、4cm高さ

 

南蛮資料として欲しくなった作品で、小石混じりの荒い土を分厚く轆轤引きして,

外側を削り碗形に整えてある。内側のロクロ目と外側のカンナ目が好対照。

畳みつき部に窯だし後のほつれがあり断面は黒くきめ細かく良く焼き締まっている。

きめ細かい土に小石など混入して土を作ってあるようだ。

箱表書きに 茶盌 焼〆 三吾造 三吾の角朱印。

 

資料として、思文閣美術人名辞典より

    ・・宇野仁松の四男、兄は宗甕。軟陶風・三彩風の独自の作風を見せる。

    茶器・花器・食器を作る。京都に住した。昭和63年(1988)歿、85才。・・・

     

外側を削る時に、器体を直接轆轤に伏せておき粘土片で固定して削り、

口部に痕があるがかまわずそのまま焼いている。

外側口部に削り残しもあり、高台内に三吾の押し印がある。

内側のロクロ目が強烈で印象的小石と言うより大粒の石が見えるが,

使用に差し支えない程度、渦巻きのせいか良く泡立つ茶碗。

みやびな京都産では珍しく素朴な感じだが、

 

16世紀の茶会記にはかなりの数で焼〆の茶碗が登場するらしいので、

焼〆茶碗ならでわの精神的魅力は昔も今も変わらぬようだ。

 

平成17年9月

 


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大智禅尼作 茶碗 15,2×7,5cm高さ

 

数少ない我が兄弟弟子(姉弟子)が、お茶の時間にTVをつけると出演していた。

地元RSK山陽放送・それ行けどんどん・という番組で何気なく見ていると、

正装した大智禅尼であった。「自分を見つめなおす」をテーマに、

曹源寺で毎日曜日に行われる座禅會の普及活動に出演らしい内容で、話は進んでいた。

 

大智禅尼とは、三十余年前の飛騨高山での修業時代以来の付き合いで、

大智禅尼は、陶芸を、高山の長倉三朗氏,長倉靖邦氏、宇治炭山の森里陶楽氏、

備前の人間国宝、伊勢崎淳氏に師事、禅を妙心寺の山田無文老師、曹源寺の原田正道老師に師事している。

 

茶碗の土は雲林院製の清製された抜群の土で、友達ならでは手に入らぬ特別な土。

窯変による紅白の変化は、鹿の子紋が綺麗な感じに上がり、

畳み付きには、蜆の目跡も綺麗に出ている。曹源寺、一滴窯の作品。

呂山人の言う「書家の書が面白くない」ように「陶家の陶も面白くない、、、」が、

禅家の陶である茶碗。見込みの美しさや曲線は豊かな空間を作りだしている。

 

大智禅尼は、禅を中心に進み25年、私は焼き物を中心に歩み、

別々の道を歩んで来たが、求める所は同じではないのかと思える今日です。

 

 

平成17年8月

 

 

 

 


亀井清市作 穴窯 『歌』(呉須絵茶碗) 15、2×6、2cm高さ

 

瀬戸の作家は全然知らないが。加藤春二さん・加藤瞬陶さんの孫弟子になるらしい私。

それが縁とも思えないのだけれど、3、4年前名古屋の百貨店で手に入れた作品。

箱書きに、穴窯 歌 清市作 洞山の角朱印。

 

資料として、大正3年(1914)瀬戸で最初の創作者集団 瀬戸図案研究会設立 

日野厚、植野儀三郎、加藤土師萌、加藤鏡一、亀井清市ら(瀬戸焼き歴史年表)とある。

何時の時代の作か判らないけれど、穴窯で斬新な仕事をされていたと想うと、頭が下がります。

 

私がコノ作品に惹かれたのは見込みの呉須で書いてある字(書)ですが、

『 あるときは 十方空と おもへども さとりかねたる われのあわれさ 』

の読み下しが医薬品の名前入りメモ紙に、書かれて箱底に入っているが、

私は、『 あるときは 十万窯と おもへども さとりかねたる われのあわれさ 』と読みたい。

 

高台は、土見せで唐津風だが、製陶地にはこのような良い土がいくらでも有るのだろう。

脇に『 せ 』の書き文字がある。畳みつきの幅がもう少しほしいと思いつつ、

穴窯でありながらこの、やさしさ、繊細さ、やわらかさ、そしてこの楽しさ、

 

お茶をいただきながら深く反省させられる作品である。

 

平成17年7月

 


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国吉清尚作 灰釉酒呑 8、5×3、5cm高さ

 

言語陶談・咲キテ燃ュ・に書いています沖縄、

南蛮焼助手時代に島武巳さん、大嶺実清さん、国吉清尚さん達沖縄の陶芸家に会った。

 

国吉清尚さんには、泡盛の味もわからない沖縄の初めの頃、国吉さんのお宅でご馳走になり、

勧められるままに泡盛をいただきついに気を失なった様で、解からぬまま、

気が付けば、知花ジャングル中の我が小屋に私がにいた。

 

国吉清尚さんが亡くなる一年位前、また仕事場を訪ねて手に入れた作品で思い出深い。

窯場の隅に、縞々模様の純粋な沖縄犬を大切に飼っていて、

子犬を1匹あげるから連れて帰れと言われたのだけれど、飛行機に犬が乗れるか知らなかった無知な私は、

お断りしてしまって、後で悔やまれた。

国吉さんの仕事場の上にあった登り窯を壊していた途中で、

窯の耐火煉瓦の凸凹が妙に痛々しく、印象に残っている。

 

写真の灰釉酒呑は見込みに緑色のガラス質の溜りがあり、お酒を入れるときれい。

国吉さんは石垣島の土だといっていたと思うが記憶が定かでない。

白い石が粒粒とあり、焼き締めても水が漏るのだろう高台まで全体に薬を掛けてある。

高台はベタ底で珊瑚の目跡、「ク」の字が大きく彫ってある。

 

五十歳を過ぎ、同じような年頃の陶芸家の人たちが結構亡くなっている。

「まだまだこれから、長生きだけが取り柄じゃないか。」と、自分に言い聞かせながら

日本酒を冷酒で楽しむ国吉清尚さんの作品、長生きに・・・。

 

 

       

乾杯そして合掌

 

 

平成17年6月

 

 

 

 


本郷葉子作ガラス文鎮

 

ズウッと前から我が仕事場雪上一會楼にある、

書・水墨画を製作する時に文鎮として使用、

金属と違ってそのまま気がねなく水洗いでき重宝している作品。

 

底部のあかるい緑色に深美があるのは製造方法にあるらしい、

富山在住の本郷葉子さんが若い頃、笠間の友人工房で製作した作品。

 

形から宗教的な感じを受けるが、本人は宗教には一切関係ないという、

五輪やモスク、至っては女性の母性本能をも感じさせる作品である。

 

平成17年5月

 


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