ひびきのさと便り



No.10 未来に対する希望と不安 ('02.1.10.)

 年が改まると同時に、購読紙を読売から日本経済新聞に変えました。景気の低迷、デフレの進行、経済財政構造改革をめぐる諸問題など、日本の経済は八方ふさがりと言ってもさして過言ではない状態が続いています。そうした中で、日経には元日からこれまでのところ、全体的に見ますと、読者に希望を与え、悲観より楽観を勧めて、経済人やサラリーマンの志気を鼓舞するような論調が目立つように思われます。
 さて、その日経に、「経済教室」という欄があり、内外の著名な経済学者などが交代で、その時々の問題を解説したり、解決への処方箋を示したりしています。この「経済教室」に、新年の3日から「ニッポン 再生の針路」と題した5回シリーズが掲載されました。その緒言には、次のようにあります。

世界経済は同時不況の様相を色濃くしてきたが、2002年には米国を軸に回復に向かう見通しが強まっている。ただ日本はデフレに悩み、構造改革に呻吟(しんぎん)している。経済再生への針路をどう定めるか、シリーズで考える。

 このシリーズ3回目(1月7日付)に、米エール大学教授の浜田宏一氏が登場しました。添えられたプロフィールによりますと、浜田氏は2001年1月から内閣府経済社会総合研究所長も務めており、専門は金融論、国際経済学とのことです。先ほど、日経全体に、いわば希望的観測が多いと書きましたが、その中でもこの浜田氏の主張は、群を抜いて楽観的なもののように読みとれました。見出しは次のようになっています。

まず不安感を一掃/デフレの制御急げ/明るい将来示し消費刺激/生活水準は高く老人にも温かい/政府部門改革し「平等主義」修正/期待が強まれば日本経済は回復

また、冒頭には、全体の要旨が2点に整理されており、それらは以下の通りです。

@低成長化のいま、日本経済の暗い側面を注目したくなるが、実は日本経済にも明るい面がたくさんある。国民がそれらの明るい面を直視し、将来に対する不安を捨て、強気になって消費を始めれば現在のほとんどの経済問題は解決する。
Aデフレ制御はそうした目的のために不可欠である。政府の役割は、構造改革の痛みを強調するだけでなく、構造改革が成就した後の明るいビジョンを国民に示すことにある。 


 浜田氏は、日本経済に残っている長所として5つの点を挙げています。第一は、所得や消費が高い水準にあること、第二は国富と対外純資産も同様に高水準にあること、第三は社会資本や福祉が整備されていること、第四は日本とつながりの深いアメリカ経済の回復が期待できること、第五は政府がムダの排除に本気になっていること、です。
 そして、
「国民がこれら明るい面をよく認識して、未来に自信を持ち、それにしたがって消費と投資を活発にすれば、日本経済の問題点はほとんど解決してしまう・・・。今、日本国民に必要なのは経済の問題点だけでなく、強いところ、明るいところを見つめることである」
と述べています。
 浜田氏が挙げた、5つの「明るい面」を批判的に捉えることにも、意味があると考えられますが、ここで詳細にそれを行うことは控えておきます。ただ、かなり大まかながらひとつだけ述べておきますと、本当に浜田氏の考えどおりのことが可能であるならば、それはとうの昔に実現されているはずであると言えます。たとえば、所得や消費が高い水準にあるのだから、自信を持って消費を活発にしようとかけ声をかけたところで、それができないために、現在のような状況に陥っているわけです。できていない現状を前にして、いくら「できないはずはないだろう」と言ってみても、一向に解決には結びつかないのです。なぜできないのか、その根本に考察を進めなければなりません。

 たくさんのことは述べられないので、論点を絞ります。浜田氏は見出しにおいて、現在、日本人の多くが抱いている「不安感」をもっとも強調していますが、これが、なぜ、そして、どこから生じてくるのか、が問題です。不安感の原因や実態がわからないままでは、それを「一掃」したくても、具体的に何をすればいいのかわかりません。カラ元気を出してみたり、実現不可能なことを夢想したりしても、すぐに限界が来てしまいます。
 私の「自己・他己双対理論」によりますと、人間の精神は、自分に閉じ、自分をどこまでも主張し、自分が生き延びていけることを目指す「自己」と、他方、他者に開き、他者を求め、他者と仲良く、心を通わせることを目指す「他己」という、ふたつの働きから成り立っています。
 人間は、成長の過程で、自己が充実する時期と他己が充実する時期を交互に通りながら大きくなっていきますが、親や大人がよほど配慮してしつけや教育を行わなければ、どうしても、他己に比べて自己が勝っていく傾向があります。かんたんに言えば、わがままで自己主張が強く、他者に配慮できない人間になりがち、ということです。
 最近は、自己ばかりが肥大した人間が良しとされる風潮があります。他人などにかまっていては、この厳しい自由競争社会を生き抜いていけないと、皆が考えているからです。この風潮を経済面で実現しているのが「市場主義原理」であり、社会制度として保障しているのが「民主主義」です。公教育も、家庭での子育ても、この枠組みにおいて考えられ、実践されています。
 人間が他己を働かせるためには、究極的には宗教・信仰がなければできません。たとえば、「ウソをついてはいけません」というのは、必ず他者との間において意味を持つ、すなわち他己に関わるいましめです。このいましめを守ることが善いか悪いか、幼稚園児程度の子どもならば、ほとんど間違いなく答えることができます。しかし、正答を言えることとその通りに行動できることとの間にはギャップがあり、それは長ずるにしたがってますます大きくなっていきます。すなわち、自己が肥大し、他己が枯れていくのです。知識が増えたり、行動が巧みになったりしても、他己は養えないということが、はっきりわかります。
 話を戻しますと、宗教心を回復しない限り他己を取り戻すこともできないわけですが、民主主義はこのことにまったく反したシステムであり、しかも現代の世界で、日本ほど徹底して宗教を喪失した国家・社会はありません。したがって、日本においては、人々の自己肥大と他己萎縮に、歯止めのかけようがないのです。
 人間は、他己を失い、自己だけになると、精神のバランスを欠いていきます。他己の働きによって、他者や社会に定位できている時だけ、人間は精神的に安定していられるのであり、それが人間の人間たるゆえんであるわけです(もう少し言いますと、その他者定位をも超越するのが、真の宗教が目指すところなのですが)。
 他者や社会に定位できなくなりますと、周囲のすべてが、自分を脅かし、陥れようとしているように思えてきます。被害妄想的になるのです。これが病的なレベルにまで高じると、精神分裂病を発病してしまいます。周りがみな敵に見え、頼れるもの、信じられるものは自分だけになります。しかも、具体的な何かにしがみつかないと不安でたまらず、それは、自己の欲望への執着として現れます。それは多くの場合、「金」や「色」、権力や、他者に優越することなどへの執着です。
 また、時間で言いますと、他己を失うことは「過去」を喪失することです。長い時間をかけて形成されてきた、しきたりや慣習、規範、社会常識などが意味を持たなくなってしまうのです。生きていく上でのよりどころを持てないので、大きな不安に襲われることになり、その解消を「未だ来ていない」、未来に求めることになります。未来に安定を求めるとは、あらゆることが、今すぐに実現しないと我慢できない、ということです。精神的な安定を得るために未来に固執するのですから、待つことはできないのです。すると、欲求の実現ひとつひとつを食いつぶしていくような、まさしく刹那的な生き方にならざるを得ません。ひとつの欲求を満たしたとたん、もう次への渇きが生じているのです。不安から逃れるために、未来(言い換えれば、刹那的な自己の欲望の満足)に固執し、その結果、ますます不安にさいなまれるという、果てしない悪循環に陥ってしまうのです。
 実際、いま、多くの日本人は、あらゆることがただちに実現されなければ耐えられなくなっています。20年、30年先を見据えた長期的なビジョンなど、どこからも出て来ず、第一そんなことを選挙の公約に掲げるような候補者はまず当選しません。では、半年、1年といった短期的なプランがきちんと実行されているかというと、それすらも怪しいのが実状です。日本中が浮き足立って、刹那に生きていますから、たった1週間、いや、1日ですべてがひっくり返ることも、決してないとは言えません。これは世界的な傾向でもあります。
 
 現代に生きる人々が抱えている不安というのは、このようにきわめて奥深く、人間存在そのものに根ざしています。「日本人はいまでも、世界で1,2を争う金持ちなのだから、もっと自信を持って、不安なんてぶっ飛ばそう」というような声がいくらあがっても、決して消えることはありません。それどころか、ますます問題の真相を見えにくくし、かえって不安を深めるもとにすら、なりかねないと思います。



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