ひびきのさと便り



No.11  未来に対する希望と不安・2 ('02.1.17.)

 前回、同名のタイトルで経済に関する意見を申し上げましたが、今回もまた、同じ論点から考えてみたい新聞記事に出会いましたので、題名を上記のようにいたしました。
 1月11日付の日本経済新聞によりますと、筑波大学留学生センターの遠藤誉教授らが、昨年9〜11月に、日中韓3カ国の、中学3年生の意識調査をおこなったそうです。その結果が、次のような見出しで掲載されていました。

日本の中学生 冷めた未来/筑波大が中韓と比較/「将来に希望」 最低の29%に/中国91%

 そして、データは、次のようになっています。

質問:「あなたは自分の将来に希望を持っていますか」
「大きな希望を持っている」    日29%  中91%   韓46%
「何とかなるだろうと思っている」 日35%  中 7%   韓35%
「どうなるかわからない」     日29%  中 2%   韓18%
「全く持っていない」       日 5%  中 0%   韓 1%
無回答 日 2% 中 0% 韓 0%


 みなさんは、これをご覧になって、どのような感想をお持ちでしょうか。私には、ほとんど絶望的としか言いようのない結果に思えます。もっとも、日本の青少年の精神状態がこのような傾向を示していること自体は、いまに始まったことではありません。似たようなものでは、日本青少年研究所が昨年の7月に公表した、中高生の意識調査結果があり、これについては今回以上に各マスコミが大きく取り上げましたので、ご記憶の方も多いのではないかと思います。
 そのときには、「生きる目的は何か」という質問に対して、日本の中高生の6割が「人生を楽しむこと」と答えていました。十代の若者が、ラクをして楽しむことこそ、生きる目的だと言うのです。この調査も国際比較がなされており、アメリカでは、同じ質問に対して「高い社会的地位や名誉を得ること」と答えた若者が、4割に達していました。日本で、同じように答えた者は、何と1.8%に過ぎません。50人中1人といないわけです。日本では、大多数の若者が、地位も名誉も、おそらくはお金もいらないと言い、そんなもののために一生懸命になるのはまっぴらゴメン、そして、毎日を楽しく暮らしていければそれが一番と考えているのです。ですから、今回の筑波大による調査結果も、当然と言えば当然であるわけです。
 こうした姿を見て、「日本の若者はおのれをよくわきまえている、質素で謙虚で欲はなく、けっこうなことだ」とは、普通の感覚の持ち主であれば、まず思えないでしょう。彼らの示すやる気のなさ、覇気のなさ、志の低さ、ぐうたらさに愕然となって、危機感を強めるはずです。おそらくここから、数年前より文部科学省が主張し続けている、「生きる力」の必要性が叫ばれるようになるのだと思います。
 「日本的な豊かさと平等志向などによって、子どもや若者から『生きる力』が失われてしまった。個性や自主性、自立心を養い、国際競争に勝てるようにするために、好きなことを好きなだけやらせ、かつ競い合いを取り入れ、一方でセーフティネットや再挑戦のシステムを整備して、『生きる力』を育てよう」。
 これまで言われてきたことをごく大まかにまとめれば、このようになるのではないでしょうか。しかし、こうした提言に基づくさまざまな取り組みが、すでに数多く実践されているにもかかわらず、成果が上がっていないばかりか、ここに紹介しましたデータに現れていますように、青少年の意識は悪化し続けているのです。これは一体なぜなのでしょうか。取り組みが不徹底だからでしょうか。
 私には、そうは思えません。そうではなく、根本的な方針がまったく間違っているために、対策をとればとるほど、悪い方向に行かざるを得ないのが本当のところだと思うのです。
 いわゆる「生きる力」と言いますのは、自己・他己双対理論では「自己」に属するものです。もっとはっきりした言い方をしますと、エゴの追求なのです。「日本の子どもたちは、エゴの追求ができなくなっている。こんなことではアメリカや中国に食われてしまう。もっとエゴイズムを育てなければ」、いまの方針を言い換えますと、こういうことになるでしょう。
 どうして、若い世代の日本人において、自己の働きが弱体化してきたのでしょうか。自己だけを取り上げて、いくらああでもない、こうでもないと考えてみても、決して答えは見つかりません。なぜなら、人間は自己だけで生きているのではないからです。その一方に、人間だけの特性として、他己の働きを持っているからです。自己と他己のバランスと統合という、人間固有の原理に立って考えなければなりません。
 人間は、他己の働きによって、他者と心を通わせ、他者や社会に心理的定位をすることができます。それができている時、人間は生きている意味や喜びを実感できるのです。しかし、その他己が弱まったり、失われたりしますと、外界に対して、自己がむき出しになります。すると、他人の何げない言動にも非常に敏感になり、傷つきやすくなります。  他己が弱体化して自己が優勢になると、他人が何を考えているのか、何を喜び、何を悲しむのかがわからなくなってきます。すると、他人もまた自分のことなどわかってくれないと思えてしまいます。被害妄想的になるのです。周囲が、自分を脅かし、あざ笑い、軽蔑し、攻撃してくる「敵」としか思えなくなります。この状態が病的なレベルに至りますと、精神分裂病を発病してしまいます。
このような心理的ストレスに襲われた人は、多くの場合、それをはね返すため、あるいは忘れるために、ヤケ食いしたり、浪費したり、異性と遊びまくったり、体力や知力で他人に勝つことにこだわったり、出世や金もうけに必死になったりします。もちろん、こうしたことにしがみついてみても、まったく本質的な解決にはなりません。むしろ、満たした分だけさらなる渇きに見舞われるという、悪循環に陥ります。
 上記のような欲求を満たすためには、ある程度、他者と関わることは避けられません。ヤケ食いするにも、食べ物を買いに出かけなければならないのですから。自己肥大と他己萎縮が極限近くまで進むと、そのような他者との接触のいっさいが、耐えられなくなると予測されます。あとはもう、自分のカラの中に閉じこもるより他は、行き場がなくなってしまうのです。いま大問題になっている「ひきこもり」の多くは、このような心理的メカニズムによって生じていると考えられます。
 また、前号でも述べたことですが、他己を失うとは、意味ある時間としての「過去」を失うことでもあります。人間にとっての過去とは、社会全体や、自分の身近な人々、そして自分自身がこれまでに為して来たことの集積です。そこから、習慣や風習、規範、ルール、倫理、道徳などが形成されます。それらに定位することによって、人は精神的に安定して生きていけるのです。
 そうした規範などが失われますと、人は、いったい何に自分を定位していいのかわからなくなります。そこで、仕方なく「未だ来ていない」時間である「未来」に安定を求めざるを得なくなるのです。未来は、常に流動的で、不安に満ちた世界です。そこに安心を求めるとは、期待や願望が、いますぐ、ただちに実現しなければ耐えられないということです。そうでなければ、自分の存在を支えてくれるものが何もないように思われて、いてもたってもいられないのです。
 ですから、他己=過去を喪失した若者(と、多くの現代日本人)にとっては、目の前の「たったいま」が楽しくなければならないのです。しかもそれは、自己の欲望をただちに満たしてくれる、具体的で、即効性があって、享楽的な楽しみでなければなりません。何年も先の自分自身の姿など、思い描くことはできませんし、そんな気も起こりませんし、当然、希望を持つことなど不可能、ということになってしまうのです。
 いま、子どもや青少年に対してなされているしつけや教育は、規則や強制をできるだけ排除して自由を与え、不安や悩みはカウンセリングで聞いてあげて、勉強や仕事は「せよ」とも「するな」とも言わずに本人の自主性にまかせる(つまり放任する)等々の方針が貫かれています。どれもみな、いま以上に自己肥大を加速させるものばかりです。こんなことをいつまでも続けて、事態がよくなるようなことは、万に一つもありません。そのはっきりとした結果が、いろいろな意識調査に現れているのです。
 中国と比べると、韓国の方が、より日本に近い結果になっていることが注目されます。これはおそらく、日本の「悪影響」がダイレクトに及んでいるためではないでしょうか。たとえば、別の話ですが、これまでは日本の特異現象であった、少女による「援助交際」が、あろうことか厳格な儒教の国である韓国で、近年はやり始めていると言います。
 やはり日本は、社会の崩壊、人心の荒廃、精神文化の喪失などにおいて、「世界のトップランナー」になっているのです。ここから方向転換するのは、容易なことではなく、きわめて不可能に近いのかも知れません。しかし、いま、それがなされなければ、まさしく中学生たちが考えるように、将来への希望はまったくないと言わなければならないのです。
 いま、多くの日本人に急務なのは、「生きる力」に代表されるような「自己」の拡張ではなく、人間の人間たるゆえんである「他己」の働きを、豊かに回復することです。「生きる力」に対応させるなら、他者を「生かす力」こそが必要なのです。



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