ひびきのさと便り



No.12 「希望」とは何なのか ('02.1.24.)

 ここしばらく、似たような表題でお読みいただいています。おもに題材を新聞から取っておりまして、やはり年の変わり目には「希望」や「期待」を誰しもが抱く、あるいは抱きたがることが記事になり、それがこの欄にも反映される結果のようです。
 しばらく以前のことですが、1月7日付毎日新聞の「新・教育の森」欄に、作家・村上龍氏と、音楽家・坂本龍一氏による対談、「『希望』を語る」が掲載されました。お二人とも、知らぬ人はまあほとんど無いだろうという超有名人です。紹介によりますと、お互い20年来の友人同士だそうで、年齢も同じの49歳(1952・昭和27年生まれ)となっています。団塊の世代よりやや後ということになるようです。
 対談の見出しは次のようになっています。

格差を伴う多様化が進む 「普通の子供」は、もういない/「殺さない」「生き延びる」 自分で考え学んでほしい/経済優先の競争から、降りるのも一手段/生徒を管理するのをやめちゃえばいい/学校に期待し過ぎなんじゃないかな/親はまず、自分の子供のことを考えよう

 まず、全体的な感想を申し上げますと、これは、ものすごい対談です。残念ながら、悪い意味においてです。長年の友人同士らしく、まことにくだけた調子で語られていて、対談と言うより、失礼ながら「雑談」とした方が、名実ともに、よりピッタリとするのではないでしょうか。
 「希望を語る」というタイトルでありながら、日本の将来から希望を失わせる内容になっているとしか、思えません。このお二人の言うようにしたら、日本はいま以上に悪くなるのが必然と考えられます。または、すでにかなりの程度、ここで語られているとおりの社会になっているために、日本はいまのような危機的状況に陥っているのだとも言えます。 対談を読みます限り、お二人はそうしたことにまったくお気づきでないようです。この方々の年代が、今後十年間くらいは、実質的に日本を背負い続けていくわけであり、良くも悪くも、この国の行く末を託さなければなりません。そう考えますと、どうしてもひとこと申し上げておかなければならないように思われた次第です。
 ここに全編を再録したいくらいですが、関心の強い方には直接紙面をご覧いただくことにして、いくつか重要と思われる部分を引用させていただきます。次のようなやりとりから、話が始まっています。

村上  ・・・「人を殺していい」のなら、自分がまず殺される。そういうことに思い至らないんだから、結局、日本は他者をイメージしない社会だということだよね。・・・
坂本  人を傷つけたくないのは、自分が人に傷つけられたくないからでしょ。だからそういうルールがある。・・・


 特別に目新しい考え方とは言えないものの、どちらも強烈にエゴイスティックな発言です。視点が自分にしか向いていません。これだけでは、自分が強大な力を持って、相手から傷つけられる危険性が少なくなれば、平気で暴力や攻撃をおこなえる、ということになってしまいます。
 他者へのやさしさや、思いやり、愛情があれば、とてもではないけれど人を傷つけることなどできないという、本来だれもが宿している人間性を、私は他己と名付けていますが、その「人間の人間たるゆえん」が、まったくかえりみられていません。いま、国内を見ても、世界を見ても、ごく一部の「強者」がおごり高ぶって支配力を強め、多くの「弱者」は虐げられて辛酸をなめています。対談における両氏の発言は、この風潮をますます加速させてしまうものだと思います。

坂本  日本の場合、普通は大学を出て初めてグローバルな競争に巻き込まれる・・・。 ・・・僕はそういう競争から降りちゃえと思うわけ。
村上  競争にも常にコストとリスクがあるから、降りるのは一つ有効な手段だよね。・ ・・
坂本  競争の舞台が国際資本に作られた経済優先のゲームなんだから、そこから降りちゃえということ。金銭的な価値を稼げる人間になるのが目的ではないし。
村上  確かに、金銭以外の価値は大きな潮流になっていくと思うな。・・・マイクロソフトのビル・ゲイツより、(無料基本ソフトの)リナックスを作った人の方がカッコいいもんね。・・・


 ある種、国を代表すると目されるような文化人がこのようなことを言い合い、それを有力紙が堂々と掲載するというような国は、世界でも日本だけではないでしょうか。欧米だったら、いや、欧米だけでなくどこの国でも、高校生、おそらくは、中学生ですらこんな議論はしないだろうと思います。
 両氏が「降りちゃえ」と勧めるまでもなく、日本の青少年は実際に、「人生の意味」とか「生きる目的」などの大切な事柄からどんどんと「降りて」います。これは、前号で、若い人たちの意識調査の結果をご紹介したとおりです。社会的な地位やお金などに、まったく意味を見出していません。村上氏は「金銭以外の価値は大きな潮流になっていく」と言っていますが、それは、「楽をしてたのしく生きること」という価値観として現れています。「潮流」と言いますと、どこかしら積極的で力強いニュアンスがありますが、そういうものではありません。かなり自堕落な、退廃した雰囲気です。
 村上氏自身も「カッコいい」という、きわめて情緒的、情動的な判断基準でしか、ものを言っていません。そこには、自分の好み、好き嫌いしかないのです。小泉首相が今にいたるまで8割近い支持率を得ているのも、同じ原理だと思われます。日本では、すべてがムードで動いているのです。これはきわめて危うい状態だと、私は考えます。
 競争や弱肉強食を至上とする現代世界が変わらなければ、危機がますます深まるのは必然的だと思います。かと言って、両氏が言うごとく、単にそこから降りればいいというものでもありません。それではますます個々人がバラバラになり、いっそう社会が崩壊に近づいていくだけです。
 易きに流れるのをいましめ、ひたすら努力を重ねるところにこそ、人間として生きている意味があるのではないでしょうか。「努力なんてダサイことはやめて、もっと楽をしようぜ」と言わんばかりの発言は、いま現にそうなっているだけに、たいへん危険だと思います。

坂本  10年くらい前、ニューヨークにスーツケース20個持って引っ越したんだよね。  ・・・それで翌日、地図を見て、小学校3年の娘を学校に入れるために、近くの小学校に行ったんだよ。・・・感動したよね。開放的でものにこだわらない雰囲気がうらやましかったな。こんな自由な学校に入ったらどんな子になるんだろうって、夢がふくらんだ。
村上  教育の改革が始まってるでしょ。・・・やらないよりはマシだとは思うけど、それより学校が子供を管理するのをやめちゃえばいいと思う。たとえば朝会とかね。・・ ・目的は軍隊と同じ。自立性とか国際性とかいうのなら、朝会をやめるべきだね。・・ ・


 アメリカと日本の学校が違うのは確かだろうと思います。では、本当に違うのは一体どういう点なのでしょうか。村上氏は「管理をやめちゃえ」と言いますが、いまは実際、日本のどこの学校でも、管理など無いに等しい状態になっている(というのが言い過ぎなら、なりつつある)と思います。
 反対にアメリカでは、服装や化粧、アクセサリーや持ち物に関する校則などはないかも知れませんが、もっと根本的なところで、学校や教師が子どもたちをしっかり管理しています。別のことばにすれば、学校や教師が子どもたちにとって、権威ある存在なのです。
 その証拠に、1998年に文部省が公表したデータ(「日・米・中の高校生の規範意識」)によりますと、「先生に反抗すること」は「本人の自由だ」と答えた日本の高校生は、実に79%にのぼっていましたが、アメリカではわずか15.8%に過ぎませんでした。
 先生に逆らったり、先生と同等対等につきあったりできるのが学校の自由度を示すとするなら、そんなものはアメリカに存在していません。あるのは日本だけです。また、村上氏は「朝会など軍隊的だからやめよ」と言いますが、坂本氏が絶賛する「自由の国アメリカ」は、一方で、世界一強力な軍隊を持っているのです。
 さらに、私の知る限りでも、アメリカ、ドイツでは、毎日必ず、学校で、一斉にお祈りをする時間を設けています。これは、極端な言い方をすれば、信仰を持つことの強要です。つまり、精神を管理することの極致なのです。日本国憲法で言われるような、「信教・良心の自由」というものは、アメリカやドイツにおいて、実質的に存在していない、ということです。
 人間精神の根幹をなす「他己」を養うことは、究極的には宗教によってしか可能でなく、それは「自由」ではなくて、人間に課された「義務」なのです。
 日本は世界でいちばん「自由」の概念が混乱している国だとも言わなければならないようです。こういう事実を、両氏はどのように考えるのでしょうか。

坂本  学校って最低限の読み書きを習えれば十分だと思う。・・・それと、友人とコミュニケートする場ということかな。・・・これまでの教育システムは本質的に、大量生産に向いてるよね。僕は個人教授が理想だと思う。
村上  友達は必要だけどね。・・・日本の教育をどうするのかじゃなくて、自分の子供のことを考えた方が早いと思う。・・・文部科学省の政策には期待しちゃダメ。一般的なことを個別に適合させるのはもう無理だから。大人は自分の人生を充実させるべきです。子供は好奇心のかたまりだから、放っておけば必ず何か見つけるよ。
坂本  人間にとって何が大切かと言うと、生き延びるってことだよね。・・・僕の子供も、生き延びる術(すべ)を身に着けるのに、自然環境やきびしい人間関係の中でトレーニングさせたい。・・・
村上  確かに、必要なのはサバイバルの技術ということに尽きる。・・・もう互助的なシステムはないからね。・・・どうやって生きていくんだ、とその切迫感だけちゃんと伝えれば、子供は自分で考えるよ。

 「生き延びること」や「サバイバルの技術」を強調するのは、結局、人生は競争だ、ゲームだと主張することです。前段においては「競争から降りること」を勧めていたのですが、自分の子どもへの期待に話が及ぶと、自分の子どもだけは、競争に勝ち残って生き残り、サバイバルに成功してもらいたいと願う。よその子が落ちこぼれようと知ったことではないけれど、自分の子だけは勝ち残って欲しい。これはかなり身勝手な考え方です。「しょせん親なんてそんなもの」と思う人もいるかも知れません。しかし、新聞というメディアを通じて、広く社会に意見を表明するのですから、そこでエゴが主張されるだけならば、それはもはや情報公害と非難されても仕方がないでしょう。
 驚くのは、こういうエゴイスティックな矛盾に、発言している両氏はもちろんのこと、毎日新聞の担当者すらも気づいていないらしい、ということです。
 発言の矛盾は他の部分でも露呈しています。両氏とも、自分だけが「生き延びる」ために「サバイバルの技術」を身に着けることを主張するのですが、その一方で、友達を持つこと、コミュニケートすることが大切だと述べる点でも一致しています。
 お二人の言う「友達」とは、いったい何なのでしょうか。これは突き詰めれば、自分に都合良く、利益になるように、うまく利用できる相手、ということになると思うのです。「互助的なシステムなんてない。個人のサバイバル技術によってのみ、生き延びることができる。ただし、友達は必要だ」というのは、そういうことに他なりません。今月号の「こころのとも」に、「交遊の相手」という随筆を載せましたが、まさに同じ発想です。ご参照いただければ幸いです。
 「ひとりで生きていくしかない」というようなことを言いながら、「友達も欲しい」と言う。自己に閉じている限り、そこに矛盾があることがわかりません。「それのどこが悪いんだ。当たり前じゃないか」と開き直るようにすらなるのです。
 ドイツの哲学者カントは、「他者の人格を自己の手段にしてはならない(目的として扱わねばならない)」と述べましたが、それと正反対の意見や行動が、現代社会では、特にこの日本では、堂々とまかり通っているということです。
 以上考えてきたことは、すべて「自己・他己双対理論」から、「自己肥大、他己喪失」の顕著な現れとして、統一的に理解することができます。ここから脱却できない限り、日本、そして世界に、決して「希望」はないだろうと思います。しかし、その道のりはあまりにも険しく、はるかに遠いようです。



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