ひびきのさと便り



No.13. 条文金科玉条主義 ('02.1.29.)

 日本中を驚かせ、暗い気持ちにさせた、新潟の女性監禁事件の被告に対して、22日、新潟地裁が懲役14年の実刑判決を言い渡しました。翌23日の各紙はどこも大きく紙面を割いて、くわしく報じています。日本経済新聞には、次のような、被害女性の父親によるコメントが載りました。

 ・・・発見より2年を経過しようとしている今でも、今日の判決の内容より、失われた時間の長さ、重さが家族にのしかかり、その是非について判断することなどとてもできません。・・・一日も早く平穏な日々が私たち家族に訪れることを信じて歩んでいきます。

 ことばでは、とても言いようがないであろう悲しみに、胸がふさがる思いがいたします。
かつてない非人間的な犯罪として、風化させてはならない事件だと言えるでしょう。
 さて、同じく23日の毎日新聞社説も、同じ事件を取り上げて論説を展開していました。しかしその内容が、上で述べたような凶悪犯罪防止への願いにきわめて反しており、むしろ助長しかねないものですらあったので、驚きを通り越してあきれる思いがいたしました。
 その立場をひとことで表現するなら、タイトルに掲げた「条文金科玉条主義」とでも言えようかと思います。まさに、現在の日本(および日本人)が陥っている精神的な危機を象徴しているような内容でした。本文にそって、その根本的な誤りを検討していきたいと思います。
 見出しは、「犯罪に出し抜かれた法整備」となっています。前段では、この犯罪が残虐非道極まるものであり、「人生で最も輝くべき青春の年月を蹂躙した罪は、償って償いきれるものではない」とした上で、次のように述べています。

 しかし、量刑には疑義がある。逮捕監禁致傷罪の法定刑は最高で懲役10年だからだ。上回ったのは窃盗罪との併合罪として処罰されたためだ。「10年では監禁された1日をほぼ1日の懲役で償うにすぎず処罰感情に合わない」との検察側主張に沿った判断でもある。 問題は窃盗罪の内容だ。他に余罪がなかったのだろうか。被害女性に着せる下着類4点(2464円相当)の万引きで、4年の懲役を上乗せすることが妥当だと言えるのか。いくら前代未聞の犯罪で、万人が被告を短期刑では許しがたいと感じるとしても、法を厳正に運用してこそ法治国家だ。

 つまり、逮捕監禁致傷罪における刑の上限は懲役10年であるから、いかに凶悪な犯罪であっても、そういう規定がある以上、それを「厳正に運用」すべきであり、悪質な余罪であればともかく、たった二千円そこそこの万引きで4年もの上乗せをするのは、「法治国家」としてのあり方に反する、という考え方です。懲役10年と決まっているのだから、10年(あるいはそれ以下)にせよ、ということです。引用が少しとびますが、社説の最後は次のような一文で結ばれています。

 今回の量刑については、上級審の判断を仰ぎたい。

 これはつまり、高裁への控訴、場合によっては最高裁への上告によって、減刑が決定されることを望む、ということでしょう。
 いったい、法律とは、何のためにあるのでしょうか。毎日新聞の論説委員の方は、どのように考えておいでなのでしょうか。
 法律は、社会秩序を守るためにあるものです。つまり、社会が崩壊するのを防ぐためにあるのです。社会性(私の用語で言えば「他己」)を有しているのが、人間の人間たるゆえんです。つまり、社会が崩壊していくとは、人間性の本質が失われ、否定されていくことであり、あらゆる人の幸せが奪われることです。そうなるのを防ぎ、人々の幸せを守っていくのが、法律の役目です。
 毎日新聞の社説には、そうした観点が完全に欠落しているとしか読めません。「何のための法か、何のための刑か」など、もはやどこかにすっ飛んでしまって、とにかく条文にあることだけがすべてになっています。「法治国家」とはそういうものだと言うのです。
 いちおうは、この被告の犯した罪に対して「償っても償いきれるものではない」とも述べられていて、そのあたりについては、次のようにあります。

 逮捕監禁罪の法定刑が軽すぎるのである。制定時は今回のような事件の発生を予測できなかったのだろうが、社会情勢や犯罪形態の変化に合わせて改正しておくべきであった。・・・法定刑の引き上げを検討すべきである。

 刑が軽すぎて実態に合わず、問題を含んだ条文であっても、決まっている以上はそれに従うべきだというわけです。ここでもまた、「いったい何のための法律か」と、改めて問い直さなければなりません。秩序を保っていくのが法律の存在意義である以上、それは、社会をしっかりと束ね、リードしていくものでなければならないと思います。
 社会の情勢や形態は、確かに時代によって変わっていきます。その変化に法律が対応することが必要な場合もあります。しかし、たとえ外面的に社会が変わっても、人間の「精神」のあり方は不変である、ということを忘れてはならないと思うのです。私のことばで言えば、精神は自己と他己からなっていて、そのバランスと統合が人間の生きる姿である、という、人間の根本的な存在様式は、変わることがありません。
 重要な精神文化のひとつである法律は、この普遍的な現実に立つべきです。そして、それは、人々の他己が豊かに発揮されて、誰もが幸せに暮らしていける社会を守り、かつ目指していくための役割を担うものでなければなりません。
 それなのに、日本の司法は、いま書かれてある条文にだけ固執して、「とにかく現段階ではこの条文を適用しなければならない。書き換えるのはこの裁判が終わってからだ」となってしまっています。いまを生きている人間より、紙に書かれたことばの方が大切にされているのです。
 いったいどうして、日本における司法の現実は、「条文金科玉条主義」に陥っているのでしょうか。結論を先に申し上げますと、精神の基礎をなしている「こころ」が、まったくかえりみられていないからです。先ほど、社会性が人間性の本質であると書きましたが、別の言い方をしますと、「人の心を感じるこころ」があるからこそ、ヒトは人間なのです。
 毎日新聞の社説も、次のように書いてはいます。

 刑罰の足らざるを補うためにも、不慮の事件、事故に遭った人々の痛み、悲しみを自分のものとし、救済に取り組む社会の輪を一層広げていく必要を痛感する。

 しかし、こうは言うものの、一方で「どれほど極悪非道であっても、逮捕監禁致傷罪に対して10年以上の懲役刑はけしからん」と主張しておいて、「人の痛み、悲しみを自分のものに」ということばに、どれほどの説得力があるのでしょうか。私には、きわめて空しいものに聞こえます。
 人の痛みや悲しみを我がものにできるというのは、まさしく「こころ」の働きです。「あたま」で考える、つまり、理性や理屈、たてまえの世界のことではありません。「相手のことを思ったら、こんなひどいこと、かわいそうなこと、迷惑をかけることはとてもできない」と感じるのが、人間らしい「こころ」です。法律は、こういう、人間としての基礎の上に成り立って、適用、運営されるべきものです。そうでなければ、社会の維持や人々の幸せにとって、何の意味も効力も持ちません。多くの場合、むしろ逆の働きをすることになります。
 私は、「こころのとも」12巻(H13年)8月号に、「刑事責任を問うべし」と題して、次のような詩を載せました。

 アメリカでは
 教師をピストルで
 撃ち殺した
 13歳の少年が
 禁固28年の
 判決を受けている

 なのに
 日本では
 近所の知り合いを
 3人殺し
 3人に重傷を負わせても
 誰も
 刑事責任を問われない

 何という社会か 

 また、かつてイギリスでは、たしか当時8歳だったかと思いますが、そんな子どもが2歳ほどの幼児を殺した際に、その犯人の少年の実名も顔写真もすべて公表し、非常にきびしく罰しました。その後の報道によりますと、その少年は釈放されたそうですが、それにあたっては、戸籍をまったく作り替え、別人として生きていく処遇を与えたそうです。
 果たしてイギリスでは、このような一連の対応が、法律によって規定されていたのでしょうか。想像ですが、おそらくそんなことはないだろうと思います。イギリスでも、8歳の子どもが殺人を犯すなどというのは、おそらく前代未聞に近いことだったでしょう。そしてまた、当然、成人並みの刑罰は原則として少年に適用しないという教育的な配慮が、何らかの条文にあるはずです。しかし、殺人という、きわめて重大な犯罪に対しては、超法規的措置がとられたのです。人を殺せる能力をもった者が殺人を犯したら、そこでは年齢など関係がない、そうでなければ社会秩序など保てない、ということです。欧米では、こうした共通認識が社会に徹底しています。
日本で、少年犯罪にこのような対応がなされたことはかつてありませんし、これから先もおこなわれる可能性は限りなくゼロに近いでしょう。
 しかし、こうした日本社会のあり方が、現に、「今ならやったって刑務所に入らずに済むんだ」とうそぶいて凶悪犯罪をおかす、何人もの少年を生み出しているのです。今回の監禁事件にしても、「あれだけの犯罪で、こんな程度の刑で済むのか」と感じた人が、決して少なくないだろうと思います。
 あまり想像したくないことですが、大阪教育大付属池田小の殺傷事件を起こした宅間守被告が、もし14歳以下の少年であったなら、いったいどのような扱いになっていたのでしょうか。いまの少年法にしがみついている限り、だれに対しても刑事責任を問うことはできませんし、あり得ないことになってしまうのです。
 厳しい処罰は、なければないに越したことはありません。しかし、日本社会の急激な乱れは、そのような「きれいごと」を許さなくなっています。昨年1年間の、刑法犯の検挙率は、戦後初めて2割を下回りました。犯罪者の罪を徹底的に問い、厳罰をもってのぞむのは、いまの日本にとって、避けられない必要悪です。
 現代日本人のほとんどは「人の痛みはわが痛み」という「こころ」を失ってしまった上で、法律の条文を一字一句そのとおりに解釈し、実行することだけにとらわれています。「社会秩序を守る」という、法律本来の役割が忘れられ、「条文を守る」ことだけが目的になるという、転倒した事態が出現しているのです。
 その結果、裁判がおこなわれたり、議論が重ねられたりすればするほど、社会は危機に近づいていきます。まるで、クモの巣に絡めとられ、もがけばもがくほど身動きがとれなくなる、哀れな昆虫のようです。
 ここでさらに、なぜそうなってしまうのかという問題を、別の点から考えてみたいと思います。それは、いまの裁判官に、共通な倫理が欠如しているからです。裁判官だけではありません。検事も弁護士も同じで、あらゆる司法関係者に、共通な倫理、共通な規範がなくなっているのです。
 別のことばにすれば、「法」がなくなってしまったということです。「法律」はあります。しかし、人間性、社会性の根源である「法」は失われてしまっているのです。この「法」とは、天下の道理や人の踏み行うべき道、規範、道徳、倫理、さらには仏教で言う法(ダルマ)をも含むものです。したがって、超越や絶対他者、宇宙根源の原理などまでが含まれた概念です。
 私はそれこそが「他己」の本質であると考えており、つまり人間は本来、自分の中に「法」を宿した存在と言えるのです。
 民主主義制度という、自己肥大の原理で動く社会システムが徹底すると、必然的に他己は失われていきます。日本は、世界でその最先端を行っているのです。すると、社会を運営していく上で頼りになるのは、大多数の人の賛成によって決められた条文しかありません。極端に言えば、正しいか間違っているかはどうでもよく、みんなが「それでよし」と言えば、それがすなわち正しいことになるのです。
 条文や、そこに書かれた刑罰規定などは、あくまでも当面の手だてであり、目安に過ぎません。それでは対応しきれない事態が起こったら、当然、人間性の基礎となる「こころ」に照らして、弾力的に運用すべきです。
 しかし、日本には、その「こころ」を支える社会的な共通規範、つまり絶対的な「法」、他己がありません。頼れるのは、みんなが賛成した上で紙に書かれた、条文しかないのです。それを変える際の基準はただひとつ、「多数派の賛成を得られるかどうか」だけであって、それはつまるところ基準などないのと同じです。
 そうであれば、政治家や司法関係者にとっては恐くてうかつに手出しができません。少数派になってしまったら、再選されなかったり、左遷されたり、リストラされたりする危険性が高まるからです。したがって、金科玉条としてたてまつっておくのが一番の安全策、ということになります。
 欧米社会には、聖書という、改正不可能な規範があります。これは、絶対的な神の掟であり、人間の相対的な価値観のはるか上に位置して、法律を完全に統制しているのです。したがって、神が許した範囲において、いくらでも法律の弾力的な運用が可能です。許し難い凶悪な犯罪は、年齢などがどうあれ、容赦なく、徹底的に裁かれます。それによって、少なくとも日本よりはずっと、人々の規範意識はまともな状態に保たれていると言えます。
 日本人が「こころ」を取り戻すには、宗教、信仰を取り戻すことが必要です。このホームページをご覧の方や、「こころのとも」の読者の方々には、唐突にはひびかないことばだと思いますが、そうでない、大多数の人々にとっては、荒唐無稽な意見に聞こえてしまうのかも知れません。
 宗教は、精神の、無意識の世界を磨くものです。無意識を磨き出さない限り、「こころ」は制御できません。人を思いやろうと意識できたとしても、それに反して自分の欲や気分、都合を優先させてしまうのです。それが人間のやっかいなところです。
 多くの人が信仰を回復し、「こころで法律を運用する」ようにならない限り、いくら条文をいじってみても、今回のような悲劇はあとを絶たないでしょう。実際に、凶悪な犯罪は日常茶飯事になっており、相当な事件でもたいしたニュースヴァリューがなくなっています。
 法曹界やマスメディアは、こうした状態に対して重い責任を負っていることを、改めて考えていただきたいと思います。そしてまた、私たち一人ひとりのこころのあり方が、いまこそ問われているのです。



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