ひびきのさと便り



No.14 エゴイズムの光と闇(1) ('02.2.6.)

 毎日新聞に「文化 批評と表現」という面があり、そこで先ごろから「グローバリゼーションの光と影」と題するシリーズが続いています。
 経済や文化のグローバル化は、現代世界が直面する問題の中でも、その重要性や影響力の大きさにおいて最上位に位置づけられるものでしょう。つい先日、ニューヨークで開かれた世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)でも、討議の焦点のひとつになっていました。
 さて、そのグローバリゼーションに光(プラス面)と影(マイナス面)があることは、従来からさまざまな人によって語られてきています。私も、グローバリゼーションの動向については強い関心を寄せており、「こころのとも」でもこれまでに数回とり上げて考察を加えています(最近では、昨年の第12巻10月号・『タリバンは悪で米は善か』)。毎日新聞でこのシリーズが始まり、興味をもって読んできました。

 1月29日、そこに登場したのは、東大教授で政治思想が専攻の、姜尚中(カン・サンジュン)氏でした。この方は、金曜深夜(土曜未明)にテレビ朝日系で放送される「朝まで生テレビ」に出演し、私も何度か見たことがあります。
 この番組で、姜氏は、激昂する周囲をよそに、いつでも静かに意見を述べていました。今回の毎日新聞紙上でも、いまを代表する論客らしい、冷静でスキのない議論が展開されています。ひとことで言えば「キレる」文章です。
 しかし、私の目からは、そこに限界が見えます。そして、その限界こそ、現代人と社会が陥っている根本的な危機に他ならないと思えるのです。
 姜氏の考えを十分に読み解き、批評するためには、この欄1回分では不十分です。何よりも、いつものように部分的な引用をしたのでは、初めて読む人にはほとんど意味がわからないと思われます。
 そこで今回は、長くなりますが、重要なところを紹介させていただき、批判的な考察は次回にまわしたいと思います。とくに気をつけてお読みいただきたいと私が感じた部分に、アンダーラインがほどこしてあります。
 なお、全文をお読みになりたい場合は、直接、毎日新聞を見ていただければと思います。

見失われる福祉主義的な正統性

 いま国家について私たちは奇妙な光景を目の当たりにしている。国家の非効率を槍玉(やりだま)にあげ、その機能や役割の収縮を主張する圧力がある一方、他方では国家こそが・・・国民が何であるかを象徴する集合的なアイデンティティの担い手でなければならないとする圧力が高まっているのである。どうしてこうしたアクセルとブレーキを同時に踏むような分裂した機能が国家に求められているのだろうか。
 そこには20世紀の国家の主権的な正統性の凋落(ちょうらく)が読み取れる。つまり、国民の福祉という国家の存在理由が見失われようとしているのである。
 国民皆兵にもとづいて対外的な戦争を総力戦としてたたかう国家は、国民を動員するために福祉国家でなければならなかった。そして戦争が終わり、平時になっても国家の福祉主義的な原則はその正統性の拠り所として残ったのである。しかし、慢性的な財政赤字と官僚機構の非効率が明らかになってくると、国家への失望は市場への期待に取って代わられ、社会の「管制高地」としての国家の「退場」が叫ばれるようになった。

淘汰される膨大な「敗者」

 しかしその結果どうなったか。市場経済の冷ややかな淘汰(とうた)によって「敗者」を宣告され、しかも復活戦の機会を与えられない階層が増大するにつれて、膨大な数の「余計者」がアンダークラスを形成するようになった。このような市場経済の「不適格者」は、同時に国家によって生かされるべき対象として包摂、統合されるのではなく、生きるがままに放置されていくのである。露骨に言えば、生きようが死のうが御勝手に、ただし社会の迷惑にならないように、というわけである。このような「自己責任」の原則のもとに「不適格」を宣告された人々が、キャッチ・アップできる可能性を断たれたとき、これらの人々が潜在的な犯罪者やその予備軍になるのではないか、そのような不安と恐怖が社会につきまとうことになる。まさしくここに国家の「定義する権力」という高度に戦略的な権力が作動するのである。
 誰が社会にとってリスキーな存在なのか、誰を監視し収容すべきなのか、だれに対して抑圧や処罰を加えるべきなのか。さらには誰が生きるに値し、そうではないのか、こういったいわば「否定の政治」という点で国家権力の強化が図られていくのである。
 そして対外的にこうしたリスク集団に対応するものは、難民であり、国際犯罪シンジケートであり、テロリストであり、「ならず者国家」などである。
 昨年の同時多発テロ以後、米国や日本などの国家がとった行動は、テロリストやそれに同調する国家に対する殲滅(せんめつ)戦であった。その剥き出しの暴力を通じて国家は、処罰的で規律的な権力の威力をみせつけ、効率性の欠落を隠蔽し、国民としてのアイデンティティが脅かされることを悪とみなすとともに、その悪に対処するというかたちで集合的なアイデンティティの回復を図ろうとしたのである。しかし、・・・「他者」をその外に排除しようとしても、境界を侵犯して内側に入り込む「不法入国者」やテロを完全に遮断することはできないだろう。また目も眩(くら)むような富を独占する少数の人々と、アンダークラスに見捨てられた人々とが分断され、隔離されていても、同じ国民である限り、この社会のどこかで出会わざるをえないのだ。たとえ犯罪という形をとっても。

文明社会の「野蛮」への回帰

 こうして恐怖と暴力の悪循環がエスカレートせざるをえないだろう。万人の万人に対する闘争状態に近いような自然状態が文明社会のなかにたち現れ、それが日常と化すのである。それは「野蛮状態」への回帰を意味している。・・・国家が集合的な活動の主権的な中心でいる限り、その行方を楽観的に展望することはできないのだ。
 もし文明化を脱暴力化のプロセスとして考えるならば、われわれに残されているのは、市場の暴走を制御するためのルール作りの主体として国家を活用し、他方で主権的行為としての物的暴力の行使を出来るだけ制限するために、複数の国家がそれぞれの主権を相互に共有し合うシステムを構築することではないか。
 国家が構造調整を迫るだけのIMFや世界銀行、WTOなどのグローバルな国際機関の代理人にすぎなくなれば、市場経済の自由の名のもとに地域経済、環境が破壊しつくされ、社会的な紐帯はズタズタに引きちぎられていくはずだ。国家の機能と役割の転換をはかり、その
主権的な至高性を相対化していくプロセスに望みを託したい。


 どのようにお感じになりましたでしょうか。
 私がつねづね言っていることですが、今日の(国内に限らず、世界的にも)危機的な状況下において、現状認識が的確に、しっかりとできている方はけっこういらっしゃいます。なかでも、この記事を読むと、姜氏の現実を見る目の確かさに、感心させられる部分が少なくありません。前段から中段にかけての、「敗者」「余計者」「不適格者」、そして「リスク集団」「アンダークラス」といったあたりの記述は、かねてから私が考え、発言してきたこととほとんど重なっています。
 問題は、そうした危機をどうやって乗り越え、どのような新しい方向性を示すか、ということです。姜氏は、意見の最後を次のように締めくくっています。

 国家の機能と役割の転換をはかり、その主権的な至高性を相対化していくプロセスに望みを託したい。

 しかし、ここに「望み」はないのです。なぜなのでしょうか。次回、その点を中心に考えていきたいと思います。



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