ひびきのさと便り



No.15 エゴイズムの光と闇(2)('02.2.19.)

 前回の最後に申し上げましたように、今回は、東大教授・姜尚中(カン・サンジュン)氏が、1月29日付の毎日新聞に寄せた評論、「見失われる福祉主義的な正統性」についての、具体的な検討をおこなってまいります。けっこう難しいことばがちりばめられていて、決して読みやすい文章ではないと思いますので、前回、新聞から引用させていただいたものをご参照いただければ幸いです。

 まず、姜氏の言わんとするところを、私なりに大づかみにいたしますと、現在、急速に進んでいるグローバリゼーションや市場経済を至上とする社会のあり方が、このまま放置されていくのであれば、「地域経済、環境が破壊しつくされ、社会的な紐帯(ちゅうたい=つながりをもたせる大切なもの)はズタズタに引きちぎられていくはず」であり、何とかしてそれを回避し、克服しなければならない、ということになろうかと思います。
 では、そのため、具体的に何をどうすればよいのかと言いますと、姜氏は、「国家の機能と役割の転換をはかり、その主権的な至高性を相対化していくプロセスに望みを託したい」と結論しているわけです。この表現もやや難解だと思いますので、あとでくわしく考え直す予定です。

 さて、ここで評論の最初の方に戻りまして、姜氏の「国家」観、あるいは今の社会に対する現状認識について考えてみたいと思います。姜氏は冒頭で、次のように述べています。

 いま国家について私たちは奇妙な光景を目の当たりにしている。国家の・・・機能や役割の収縮を主張する圧力がある一方、他方では国家こそが・・・国民が何であるかを象徴する集合的なアイデンティティの担い手でなければならないとする圧力が高まっている・・・。どうしてこうしたアクセルとブレーキを同時に踏むような分裂した機能が国家に求められているのだろうか。

 いま、「分裂した機能」を求めるふたつの「圧力」が国家に働いており、それはまるで「アクセルとブレーキを同時に踏むような」、矛盾した要求だとされています。しかしながら、私からみますと、このふたつの圧力は少しも分裂したものではなく、同じ根から咲いた、違う色の花にすぎないように思うのです。そうなりますと、この「光景」は少しも「奇妙」ではありません。
 その共通の根とは、民主主義の徹底です。これはすなわち「力」を頼みにした強者の生き残り・弱者切り捨ての論理であり、さらにことばを換えれば、人間精神をなす自己のみを肥大させ、他己を喪失していく社会のあり方です。
 「力」を行使するためにもっとも有効な方法は、富を蓄えることです。強い立場の者が、無制限な富の蓄積を欲するならば、経済活動に対する統制を、当然じゃま物と見なすようになります。姜氏は別の本(『ナショナリズム』,岩波書店,2001年,p149)で、そのことを、「国家から国民の経済生活に対するその影響力を削ぎ落とす方向を目指」すものと表現し、批判的に考察しています。
 そうなりますと、富める者、強い者が、貧しい者、弱い者から、甘い汁を徹底的に吸い尽くす構図が強まります。それがいつまでも続きますと、貧富の差が拡大し、弱い立場である労働者はどんどん疲弊(ひへい)して行かざるを得ません。人々の生活は圧迫され、結果的に生産効率も落ちていきます。
 それでもなお、搾取の手がゆるめられなければ、労働者が待遇の改善を申し入れたり、サボタージュに訴えたりするようになるでしょう。しかし、そうした穏健な手段で状況が変わらなかったり、かえって弾圧が強化されたりした場合、人々のうらみつらみは積み重なって、ついには暴動、テロリズム、革命といった最終手段がとられる危険性すらが高まります。

 産業革命からはじまった資本主義が「成熟」してきた19 世紀後半以降、激しくなってきた社会的・経済的な不平等を解決する方策として、それまでの自由放任主義からの方向転換が必要とされるようになりました。資本主義国家は長年にわたって、「最小の政治が最高の政治」という考え方にもとづいて、国民、とくにその中でも一部の富者・強者の経済活動や私的生活への干渉をつつしんできました。そのような国家のあり方は、「夜警国家」と呼ばれます。国は、人々が寝静まった頃、静かに街をパトロールする夜回りのように、せいぜい対内的には公共事業を行い、治安を維持し、対外的には外敵からの防衛をする程度の、消極的な役割にとどまるのがよいことと考えられてきたのです。
 しかし、その結果、先述しましたように、国内において、失業・貧困などをはじめとする経済的不平等や社会的矛盾があらわになってしまいました。こうした状況下では、社会はきわめて不安定となり、経済成長が低迷します。
 このような事態に直面した「夜警国家」は、国家全体の利益のために、個人の自由をある程度制限することもやむを得ないという考え方に立つ、「福祉国家」への変換を迫られるようになります。具体的には、さまざまな社会問題や、経済恐慌、景気の変動などに対する社会・経済政策、失業者や貧困者に対する厚生行政、労働運動や労使双方に対する労働政策、こうした業務に関する積極的な取り組みが不可欠になってきたのです。

 しかしながら、この近代的な福祉の考え方も、あくまでも経済的な利益の追求という、人間精神の視点から見た際の、自己肥大の原理の上に成立したものであったことは明らかです。つまり、資本家は、生産効率を落とさず、高収益を維持していくという目的のもとに、国家の福祉政策を支持するのであって、何も労働者に対する友愛・博愛につき動かされてそうするのではありません(そういう動機が皆無とは言い切れないかも知れませんが)。
 一方の労働者側も、福祉対策を利用して、自分自身や家族たちの生存権や財産権、自由権などを最大限に保障させるため、徹底的に権利を主張します。はっきり言いますと、遠慮したり譲ったりしたら負けなのです。エゴイスティックに権利を言い立てるほど、利得をえるチャンスが拡大します。多くの庶民、一般大衆は、あらゆることを国家の責任に帰するようになり、おのれの欲望・情緒・気分を満たすだけのために、国家に「タカる」ようになっていくのです。
 さらには、少しでも多くの利益を我がものにしようとして、労働者同士が、他者を蹴落とし、足の引っ張り合いをし、互いに排撃し合うことすら起きます。福祉という限られたパイを奪い合う、醜い争いが起きるのです。この争いに敗れた、比較的弱い人々は、社会の底辺に追いやられます。資本家や国家にとっては、こうした淘汰によって、強くて「優秀」な労働力を得、「自業自得の」落ちこぼれ組には、必要最低限の「お情け」をかけるだけです。あくまでも、利益第一主義に立った上での福祉政策ですから、経済活動に貢献できない「ゴクツブシ」と呼ばれる人々に対する施策は、必然的にお粗末なものにならざるを得ません。
 いまの日本を見ましても、社会的な「セーフティネット」ということがさかんに言われていますが、このネットにかからない人が、どれほど多数にのぼっていることでしょうか。きわめて粗い目の網しか用意せず、そこからこぼれ落ちてしまう人に対しては、「落ちる方が悪い」と言わんばかりです。一体これのどこが「セーフティ」なのかと、疑問を通り越して怒りを覚えます。

 以上のように、利益の極大化を目指し、選好(好き嫌い、好み)に基づくことが、もっとも合理的な行動規範として尊ばれます。労働者も、資本家も、政治家も、つまり国民のほぼ全員が、利益と選好という、自己肥大の原理のみにしたがって行動するようになるのです。
 富が拡大再生産されるのと同時に、自己肥大の精神性も拡大再生産されていきます。人間は、同じ価値観を共有したとき、気持ちの通じ合いを実感することができます。もっとたくさんの富、もっと快適で便利な暮らし、もっと享楽的な人生といった、情動(欲望)の満足を、多くの人が求めますと、たがいの一体感は大きく燃え上がります。その一体感についていけなかったり、反対したりする者に対しては、冷酷な無視や切り捨て、場合によっては法の裁きが待つことになります。
 実際、誰もが欲望をみなぎらせている社会は、つねに、人が人に対して狼になる危険性と隣り合わせです。それを抑えるためには、法による厳罰主義をもって臨む以外に方法はありません。世界でもっとも自由を尊重する国であるアメリカでは、反面、社会秩序を保つために、他人の権利や自由を侵す者に対して、きわめて重い刑罰が科されます。そのため、服役中の受刑者はいまや180万人前後に達するといわれ、これは1980年代の十倍近くの人数で、刑務所の収容能力をはるかに超えてしまっています。そして、その傾向はあらたまるどころか、ますます加速化しているようなのです。前々回、「条文金科玉条主義」でも考えましたように、いまの世界では、人々を規制できるものは、きびしい法律以外にはないというのが実状です。
 富の拡大再生産という人々の欲求や期待に応えることが、国家の機能として強く期待されています。そうした人々の気持ちに、直接、具体的にアピールできる政治家でなければ、選挙で勝つことができなくなっています。
 このようにして、姜氏が言うところの、国家こそが、国民の「集合的なアイデンティティの担い手」であるという発想が生まれてくるのだと考えられます。
 結局、利益と選好に対する一人ひとりの欲望、エゴイズムが、巨大な国家エゴに凝集されている、と言えるのです。国家の概念が、人々の際限ない自己肥大に利用されているにすぎず、いま、世界中の国々の中で、このあり方を逃れているところはありません。本来、国や社会というものは、人間だけが備えている他己、すなわち他者性のあらわれであると思いますが、現代では、そのことが見向きもされないのです。

 姜氏が「分裂」していると指摘する、ふたつの国家機能への圧力は、自己肥大(と、その必然的帰結としての他己萎縮)という点において見るならば、まったく等しいものであると言えるのです。
 もっとも、姜氏も、「敗者」「余計者」「不適格者」「リスク集団」「アンダークラス」等のことばを用いて、エゴイスティックな市場経済に対し、鋭く警鐘を鳴らしています。  
 いま、全世界が直面している緊急の課題は、姜氏がきびしく批判するところの「野蛮状態」や「市場の暴走」をどうやって克服できるのか、そして、その先の展望をどう描いたらいいのか、ということだと思います。
 民主主義思想の誕生期には、有名なフランス革命のスローガンにもありましたように、「自由・平等・友愛」の三位一体が重んじられていました。しかし、これまで私どもが「こころのとも」や数編の論文で考察・検討・指摘をしてきましたように、民主主義は自己肥大の原理ですので、この3つの価値の中では、必然的に自由が偏重されていく傾向があります。すると、平等の価値が、自由のために利用されるようになります。つまり、「だれもが、自由(すなわちエゴ)を追求する価値を平等にもっている」ということになってしまうのです。
 真の平等は、エゴ追求を支えるものなどではありません。少々むずかしいかも知れませんが、平等とは、本来、自由(これは、精神の働きのうち、自己にあたります)と友愛(同じく他己にあたります)とを、「等しくはかる」「バランスをとる」ものです。友愛の視点から見ますと、人がみな他者への愛情にあふれ、それを豊かに注ぐならば、そこにはおのずと平等が実現されることになります。あえて「平等」を言い立てる必要がなくなるのです。具体的には、たとえば飢餓に苦しむ貧しい国に、豊かな国が、惜しみなく無償の援助を続けるなら、両国は自然に平等になっていきます。
 現実が正反対なために、ことさら「平等」や「差別」が深刻な問題になるのです。それは、民主主義の3つの価値の中で、友愛が徐々に失われてきたことが根本的な原因です。友愛を取り戻し、三位一体のバランスと統合を回復することが、世界の現実的な課題です。それがなされなければ、どのような提言も対策も、絵に描いた餅に終わってしまうのです。

 この課題の解決策は、仏教のことばで言うところの「お布施」のこころを、だれもがもつことに尽きると思います。あるいは、キリスト教で言う、博愛、友愛、そして奉仕のこころを取り戻すことです。また、聖書の、別のことばにすれば、隣人愛です。とくに、富める者、権力がある者こそがそうしたこころをもつべきです。
 お布施や隣人愛は、いっさいの見返りを期待せず、一方的に、ひたすらに与えるものです。「ギブ・アンド・テイク」ではなく、「ギブ・アンド・ギブ」なのです。ことばにすれば短いものですが、これほど、言うは易く、おこなうに難いことはありません。
 たとえばいま、世界の先進国はアフガニスタン復興支援のために力を合わせており、それはそれでけっこうなことかも知れません。しかし、(こう言ったら気を悪くされる方も多いと思いますが)そのウラには各国の打算があります。どこの国も、ゆくゆくは自分のところに国益がもたらされることを期待して、アフガニスタンに「投資」しているのです。
 あるいは、次のような理由も考えられます。すなわち、アジアからアラブ地域にかけての諸国は、貧困が広がっているにもかかわらず(むしろ、それゆえに、と言うべきなのかも知れませんが)、軍事化が進んでおり、多くの非合法的なルートを伝わって豊富な資金や高性能の武器が流れ込んでいるようです。いわば、世界の火薬庫に近い状態になっており、放置したり下手にあおったりしたら、たちまち爆発が起こりかねず、その火の粉がいつ、どういう形で先進国に飛んでくるかわからないのです。つまり、この地帯を平穏に、安定した状態に保っておくことは、先進諸国にとっても死活問題ということになります。

 アフガニスタンの隣国パキスタンは、核兵器の保有や核実験強行を理由にアメリカから経済制裁を受けていました。しかし、反タリバンとアメリカへの全面協力という旗幟(きし)を鮮明にしたとたん、制裁は解除です。常識的に見れば、これほどつじつまが合わない話があるでしょうか。また、アメリカは同じように、「国際テロとの戦い」への協力見返りに、旧ソ連諸国に対して巨額の資金援助を提案しているといいます。その結果として、カスピ海沿岸での利権を確保するねらいがあるそうなのです。何もアメリカだけがずる賢いわけではなく、どこの国も国際舞台では同じような取引を、血眼になって繰り広げています。
 いま世界の目がアフガニスタンに向けられているのは、結局、アフガニスタン支援が「カネ」になるからです。アフガニスタンと同等、あるいはそれ以上に悲惨な状況下にある国、地域が、アフリカには広大な範囲にひろがっています。そうしたところは、内戦、暴動、虐殺、略奪が起こるままに放置され、もう何十年もたっています。軍事介入や物資の援助がおこなわれたところもありますが、結局、国際社会からは見放されたかたちになっています。こう言っては身も蓋もありませんが、アフリカへの「投資」は、ハイリスク・ローリターン、場合によってはノーリターンだからです。見返りの期待できない援助など、積極的におこなう先進国は存在しないのが現実ということです。
 アフリカの場合はあまりにも貧しすぎ、内戦などの動揺が大規模化して全世界に波及する危険性は、今のところかなり低いように見受けられます。したがって、先進国も、アフリカを見捨て、見殺しにしておくことに、さほどの危機感を覚えることはないと言えるのではないでしょうか。しかし、近い将来、アフリカの混乱が世界に影響を及ぼすようになるのは、ほぼ必然だろうと思います。

 現代人からは、本当の意味でのお布施や隣人愛、「人の心を感じるこころ」が、まったくと言っていいほど失われてしまいました。ギブ・アンド・ギブの、無償のお布施は、しようと思ってできることではありません。できない人には努力してもなかなかできませんが、できる人には、あえてしようと思わなくても、その人の生きる姿そのものと行いのすべてが、すでにお布施になっているのです。
 では、できない人はしなくていいと、最初から開き直っていいのかと言いますと、そうではありません。お布施のこころは、人間性の本質をなすものです。だれもが生まれながらに宿しているそのはたらきが、成長にともなって肥大してくる自己に覆い隠されてしまうのです。ですから、その輝きを取り戻すことが、本当に人間らしい生き方であるわけです。
 それができるのは、信仰と宗教を回復し、その教えにのっとって、心を磨く修行に励む時だけです。その時に、完璧ではないにしても、本当のお布施にきわめて近い心境になることができるのです。

 さて、姜氏は、「恐怖と暴力の悪循環」を脱し、「市場の暴走を制御するため」には、「複数の国家がそれぞれの主権を相互に共有し合うシステムを構築すること」が必要ではないかと提案しています。そして、何度か紹介しましたように、「国家の機能と役割の転換をはかり、その主権的な至高性を相対化していくプロセスに望みを託したい」と、評論を結んでいるのです。
 姜氏が提案する新しい「システム」は、この評論を読む限りでは、もうひとつ具体的なイメージを抱きにくいように思われます。先ほど紹介しました姜氏の著書である『ナショナリズム』の154〜155ページには、この点がもう少しくわしく書かれていますので、そちらもここに引用させていただきます。

 ・・・悲観的な見通しを避け、「国体」の呪縛を解きほぐし、同時にグローバリズムの暴力に抗するような回路があるとすれば、それはさし当たり東北アジアにおける開かれた多極的で地域主義的(リージョナル)なネットワークの構築であろう。ローカルという意味での地域が中心となって越境的な交流の重層的なネットワークを形成し、その分権化を国家が後押しするとともに国家主権を相互に共有し合うシステムを構築していくことである。この大胆な構想の第一歩は、まず朝鮮半島における南北の共存と統一への多国籍的な信頼醸成機構の構築からはじめられなければならないだろう。 (アンダーラインは中塚)

 これらに書かれている「主権の相互共有」という考え方を私なりに言い換えますと、これは、価値観、あるいは規範意識、行動原理を共有することとしてよいように思われます。 それでは、共有すべき価値観は、どこに求めるべきなのでしょうか。それが問題です。民主主義思想では、大勢の人が共感し、賛成、支持することが、そのまま社会全体の価値観になります。みんなが「そうだ!」と言ったことが、そのまま正義になり、真実になるのです。「人を殺すことが善なのだ」という思想ですら、それが多数派を占めれば本当に「善」になってしまいます。典型的な例は、ナチス政権下におけるユダヤ人の虐殺であり、現代日本でも、オウム真理教の教義の中にそれを見ることができます。殺人を奨励する人が存在していても、民主主義において「思想と良心の自由」(日本国憲法第19条)や、「信教の自由」(同20条)などが認められていれば、実際に手を染めない限り、なんら規制を受けることはありません。

 「国家主権を相互に共有し合うシステム」が理想であると言いましても、それが現代民主主義の原理の上に立つものである限り、「恐怖と暴力の悪循環」や「市場の暴走」から脱却することはできません。なぜなら、この悪循環や暴走は、自己肥大のあらわれなのであり、民主主義思想という自己肥大の原理によって、その原理そのものを克服することは不可能で、あり得ないことだからです。
 姜氏は、「多国籍的な信頼」を「醸成」することが必要だとも説いています。では、「信頼」とはいったい何なのでしょうか。いま、果たしてどれくらいの人が、あるいはどれくらいの国家が、自分以外の他者や他民族、他国を信じることができているのでしょうか。 大局的な視点に立たなくても、日常生活をほんの少し振り返っただけで、当てはまることはけっこうあるように思います。多くの人が、自分の知り合いや友だちは言うに及ばず、上司や先生、果ては、もっとも強い信頼関係で結ばれていてしかるべき夫婦や家族との間にすら、すきま風が吹いていたり、閉じこもりや引きこもりが生じていたりすることを発見して、がく然となるのではないでしょうか。
 引きこもりを例にとるなら、今は、部屋に閉じこもったまま一歩も出てこないという、実際上の引きこもりにいたることがなくても、精神的に自己の殻に閉じこもり、決して他者にこころを開かないという人がきわめて多くなっているように見受けられます。それゆえ、「誰でも引きこもりになる可能性がある」と言われると思うのです。
 うわべは上手に付き合っているように見えても、こころには透明なラップがぴたりと貼り付いていて、他者と自分との間に、しみ通るようなこころの交流は起こっていません。万一そのラップがはがれてしまったら、自分がなくなってしまうのではないかというような、存在そのものに関わる恐怖があり、必死になって自分を守らざるを得ないのです。
 すると、他者とのつきあいや社会的な関係においては、それが自分にとって利益になるかどうか、あるいは害を及ぼすものでないかどうかということが、第一に重要になってしまいます。信じているからつきあうのではありません。損得(利益)と好き嫌い(選好)を計算して、プラスになるからつきあうのです。これがマイナスになるような、不合理な行動は「悪」と考えて排除するのが、民主主義であり、市場主義経済です。そこには、本質的に、信頼は存在していないのです。結果として、当然、疑心暗鬼の悪循環が深まってしまいます。いまの世界には、残念ながら、信頼関係が「醸成」されるきっかけとなるような要素は、どこにもありません。

 本当に相手を信じるとは、こころを開き、自分のすべてをまかせきることです。自分の都合やはからいを捨て、あらゆることを他者にゆだねることです。
 国際関係で考えるなら、交渉の場において、全面的に相手国に譲歩することです。たとえば貿易で言いますと、いま、世界中の先進国は、途上国から、食糧や材木などの一次産品を、ほとんどタダ同然の値段で買い叩いています。それを適当に加工し、製品に仕立てて、原価の何十倍、何百倍という価格で売りつけ、莫大な収益を上げているわけです。そのもうけは、途上国にほとんど還元されていません。それどころか、途上国の自然や社会情勢は、先進国の収奪によって、深刻な破壊に見舞われています。
 国際間で互いに信頼し合うなら、まずこうしたことをやめなければなりません。たとえば先進国が一次産品を輸入する場合には、自国の産物の値段と同じか、むしろそれよりも高く買うということです。そして、輸出品は、国内価格より安く売ってあげるということです。そうしましたら、日本で考えますと、ハンバーガーも、牛丼も、冷凍食品も、プレハブ住宅も、おそらくいまの何十倍という値段に跳ね上がるのではないでしょうか。国同士が信頼し合うとは、そうした状況も当然として甘受することです。  
 こんなことは、現代世界の思想や哲学のどれを見ても、どこを探しても見つかりません。民主主義思想を、はるかに超越しているのです。
 現代民主主義の次元において「信頼」を言ってみても、それは実際のところ、「私はあなたのことをうっかり信用できないと思っている。しかし、私は信じるに足る存在だ。大丈夫だから安心して信じなさい」となってしまうのが関の山です。他者との社会的なつながりを、自己を肥大させるために、そして、おのれの利益を極大化させるために利用することを認め、積極的に勧めるというのが、民主主義の思想なのです。こんなことで、どうしてお互いにこころから信じ合うことなどできるでしょうか。

 もう1箇所、引用文の「分権化を国家が後押しする」というところに下線を引きました。
他のところで主張されていることにくらべますと、ここだけが矛盾した記述になっていると考えたからです。再度読み直してみますと、姜氏は、「開かれた多極的で地域主義的(リージョナル)なネットワークの構築」や「地域が中心となって越境的な交流の重層的なネットワークを形成」することが必要だと説きます。そして、「その分権化を国家が後押しする」と述べています。
 いまの世界情勢の中で、ネットワークの構築を国家が後押しした場合、それは結局、どの国もが「自国の利益第一」という国家エゴをむき出しにして、互いにしのぎを削ることにしかならないでしょう。現実を見ても、近年の地球温暖化防止会議とか弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約、WTOなどといった国際交渉の場において、前進的な合意が見られたケースはほとんどありません。どこの代表も、背負ってきた国益を守り、拡大するために、権利を主張するばかりで、ほとんどまともな話し合いになっていないのです。いま、国際交渉の舞台は、国家同士がエゴを主張し合う修羅場と化しています。
 誤解を避けるためにもう少し付け加えますと、私は、国家などない方がいいと言いたいのではありません。人間は相対的な存在です。それは、何かに定位、依存しなければ生きていけないということで、ことばを換えますと、人間の生活には何らかの枠組みが必要なのです。
 ある一定の地域、一定の人数でまとまるという、何らかの形での社会の単位というのは必要です。すべての国境線、民族や文化の違いを取り払って、ひとつの地球国家にするというのは、おそらくうまく行かず、現実的ではありません。
 大切なのは、国家や地域の存在について論じる以上に、その単位ごとの利益に執着せず、そして他の社会から収奪をせず、エゴイズムを乗り越えることです。ネットワークが形成されればその点が克服できるのかと言いますと、現実はそれほど甘い、単純なものではありません。

 評論の結びに述べられている、「主権的な至高性を相対化していくプロセス」というものについても、やはり限界があります。「主権的な至高性」とは、おそらく、「我が国の主権(つまり、国家制度や国民性、価値観、社会規範など)こそが至高のものであり、全世界がそれに従うべきである」という考え方のことでしょう。実例を挙げれば、いま、現実にアメリカが世界で唯一の超大国になっているわけですから、世界中をアメリカナイズするということです。アメリカにはおそらく、実際にそういう希望を抱いている人が多いだろうと思います。
 姜氏はそれを、相対化せよと言います。それはつまり、アメリカが絶対ではない、日本も、韓国も、北朝鮮も、アフガニスタンも、イランも、イラクも、ロシアも、中国も、南アフリカ共和国も、その主権のあり方においてはみな「相対」なのだ、つまり、善いも悪いもない、優劣もない、各国で話し合って意見を出し合い、みんなが納得し、みんなが賛成するシステムを作っていけばよいのだ、という考え方になるでしょう。 
 これは、実を言いますと、姜氏みずからが指摘する現代世界の問題状況を、一歩も出るものではないわけです。相対なもの同士が、相対なままに放っておかれたら、必然的に争いが起こります。互いが相対である限り、相手の立場や考え方が、自分のそれよりも優れていると認めなければならない理由は、どこにもないからです。アメリカが正義を主張するのと同じだけ、タリバンもまた正義であり得るのです。
 こうして起きるであろう争いを制するために、数(すなわち富)と権力(武力など)を手中にしようとする勢力が出てくることは、決してやまないでしょう。それはまさしく、姜氏が批判する「恐怖と暴力の悪循環」、「万人の万人に対する闘争状態」「野蛮状態」にほかなりません。仏教のことばにすれば、果てしない「無明の闇」を、いつまでもさまよい続けることになるのです。

 現代の世界では、エゴイズムをより強く発揮し、富をたくわえ、力をもつものが、人を支配し、領土を維持し、快適性・利便性・享楽性を追求しています。それは、エゴイズムの「光」の部分です。しかし、その光が強くなればなるほど、反面にひろがる闇は、その深さ、濃さを増していきます。その闇が、「野蛮状態」として姿をあらわしつつあるのです。
 光の明るさを競い合ったり、互いに照らし合ったりしてみても、闇は決して消えることがありません。むしろ深くなっていきます。姜氏のことばに戻すなら、「国家の・・・主権的な至高性を相対化していくプロセス」に「望み」はありません。
 国同士が認め合い、許し合い、譲り合うのは大切なことです。本当にそれができるのは、相対な世界に身をおくのではなく、相対を超えた、絶対な規範を信じて、その教えにしたがうときだけです。つまり、宗教と信仰を回復するところにしか、望みはないのです。
 こうした考えが世界に広まった時、「複数の国家」だけでなく、あらゆる国と地域、つまりは地球上に生きる全人類の、本当の幸せが実現されると思うのです。
 闇を照らす真の光は、実は闇の中にこそあります。「闇こそが光」とは、論理的にはまったく矛盾していて、常識で理解できることではありません。その、闇の中に光を求めることこそが、信仰なのです。
 最後に、「こころのとも」第12巻(平成13年)7月号に載せました詩を一編、味わっていただけたらと思います。

闇の中の真実
 人は
 意識の
 闇の中で
 生まれ
 闇の中で
 死んでいく

 だから
 真実は
 闇の中にしかない
 暗い
 闇の中に
 明るい
 真実があるのだ


 



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