ひびきのさと便り



No.16 不安の正体 ('02.2.20.)

 2月13日付日本経済新聞の「生活家庭」欄に、次のような見出しの記事が載りました。

私はうつ病に違いない・・・/「病名ほしい」症候群広がる/理由つくり安心感/現代人の不安心理映す/専門用語使って説明/「半分は擬態うつ病」/情報の増加も誘因に

 記事本文は、次のように始まっています。

 「私はきっとうつ病に違いない」−−。実際は病気でもないのに、自分はうつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)などに侵されていると思い込む人が増えている。彼らの特徴は、病気情報にやたら詳しく、医師に病名の診断を迫ること。背後には、不安定な気分や自信のなさを病気のせいにして安心する、という現代人の不安心理が垣間見える。

 1年ほど前の読売新聞に、精神科医同士の対談記事が載ったことがありましたが、そこで、現在の日本では、壮年期以降の精神疾患において、うつ病がもっとも重要視されていると言ってよい、と語られていました。また、欧米においては、あるデータによれば、老年期うつ病の有病率は平均5%に達しているとも紹介されていました。今回の日経新聞の記事によりますと、うつ病が、若年層にも広く影響を及ぼしており、しかも、その影響の現れ方に、これまでとは異質なものが目立ち始めたということなのです。

 うつ病と、もう一つ、精神分裂病は、昔から「二大内因性精神病」と呼ばれてきました。スイスの精神科医であったオイゲン・ブロイラー(1857-1937)は、その著書『内因性精神障害と心因性精神障害』(切替辰哉訳,中央洋書出版部,1990年)の冒頭において、次のように述べています。

 精神医学における「内因性」という概念は、心が身体と無関係に、また、外界の体験と無関係に「内面から」病むことがある、という想定から出てきたものである。

 ブロイラーの活躍した時代から百年近くを経た現代では、脳科学や遺伝子学などが劇的に進歩し、これまで不明だった精神疾患のさまざまな問題点が、徐々に明らかにされつつあります。とくに、精神分裂病と比べますと、うつ病は、解明されている部分がかなり大きいと言えます。
 しかしながら、ブロイラーは前述の書で、次のようにも指摘しています。

 「内因性」精神障害と言われる場合には、何よりも先ず、「原因が明らかでない精神障害」ということを言っているにすぎない。

 かつてブロイラーが述べたような状況は、今もなお根本的には克服されてはいません。たとえば、うつ病や精神分裂病において、脳に何らかの組織的な、あるいは機能的な変化が認められることがありますが、それが果たして病気の原因なのか、それとも結果なのかは、わかっていないのです。

 精神病は、何かしら脳に由来する病気ではあるわけですが、その原因を特定することができないので、外界にあらわれた行動によって、診断が下されることになります。その際、たとえば「不眠が続き、だるさがあって床から離れられず、食欲もなく、自分を責めては泣いてばかりいる」という人がいたとして、お医者さんによってそれをうつ病と診断するかしないか、ばらつきがあったのでは、患者は困りますし、有効な治療もできません。そこで、客観的で信頼性の高い診断を目指して、診断のためのマニュアルが発行されています。いま、世界的に利用されているのは、アメリカ精神医学会(APA)が出している「DSM-W(精神疾患の分類と診断の手引き第4版)」と、世界保健機関(WHO)が出している「ICD-10(精神および行動の障害/臨床記述と診断ガイドライン第10版)」の二つです。これらは、一般の書店でもかんたんに買えます。また、関心のある方はご存じと思いますが、いま、インターネット上には、精神疾患に関する情報が、真偽正邪いり乱れて文字どおり氾濫しており、それは日経新聞も記事の中で指摘しています。ですから、先ほどの引用にもありましたように、病気情報にやたらとくわしい人が多いのは当然と言える面もあります。

 さて、うつ病の臨床的な特徴についての記述は、これまでに膨大な蓄積があり、それらは細かく分類、整理されてきています。また、先述しましたように、神経伝達物質や遺伝子のレベルでも、わかったことが増えてきています。しかし、それでもなお、「うつ病とは何なのか」がわかりません。それはつまり、うつ病の症状が人間にとって、つまり精神にとって、どういう意味があるか、がわからないということなのです。
 たとえば、カゼと比較してみます。カゼをひくと、体内に入ってきたウイルスによって、ノドがはれて痛む、鼻水やくしゃみが出る、発熱するなどの、さまざま症状が引き起こされます。これらは、本人にとってはつらいものですが、どれもみな、対抗策として意味のあるものばかりです。ノドや鼻の症状は、それによってウイルスを追い出そうとする働きのあらわれですし、発熱も、高い体温によってウイルスを不活発にしたり死滅させたりするのが目的です。生得的に備わった防御システムが、合理的に機能しているわけです。
 うつ病ではどうでしょう。DSM-Wには、興味・喜びの著しい減退、著しい体重減少・あるいは増加、不眠または睡眠過多、易疲労性、気力の減退、無価値観、過剰・または不適切な罪責感、思考力や集中力の減退などなど、特徴的な症状がこと細かに記載されており、それらが複数、そして一定期間以上持続した場合に、うつ病と診断されることになっています。つまり、「どういう状態をうつ病と言うか」については、いちおうの定義づけができています。
 しかしながら、その精神症状や身体症状が、精神にとってどのような意味をもっているか、あるいは別の言い方をしますと、精神が病んだときに、なぜそのような症状があらわれるのか、ということについての包括的な説明は、いまのところ精神医学界には出されていないのが実状なのです。
 どうしてその根本的なことがわからないままなのかと言いますと、精神とは何なのか、それはどのような構造をもち、どのように機能しているのか、が、研究や治療の場において、明確化されていないからなのです。全体を見通し、理解するための「精神モデル」が不在なため、と言うこともできます。
 「人間は精神である」といったのは哲学者のキエルケゴール(『死に至る病』)ですが、このことばからしますと、精神の何たるかがわからない、とは、つまるところ人間とは何なのかがわからないままに放っておかれていることにほかなりません。
 精神科医療によって、病に苦しむ人が本当に救われることが、実はこの上なく難しいということが、あらためて明らかになります。

 こうした問題意識に立って、私は、いまから9年ほど前に、精神の構造と機能を全体的、かつ有機的にとらえることのできる「人間精神の心理学モデル」を構築しました。本ホームページの「概要」でもご覧いただけますように、そのモデルを支えるのが「自己・他己双対理論」であり、モデルと理論にもとづく、うつ病と精神分裂病の解釈もおこなって、すでに学術論文として発表しております。
 精神は、「自己」と「他己」という、ふたつの「モーメント」がバランスをとり合い、統合されて成り立っています。そして、このバランスが崩れることで、さまざまな精神疾患が生じてくると考えられます。私の解釈によりますと、うつ病は、他己に比べて、自己が弱体化することによって発症するものであると言えます。
 自己モーメントの基礎には「情動機能」があります。これは、欲求(食欲・性欲・優越欲など)や情緒(快苦喜怒哀楽など)、気分(明るい、暗いなど、持続するこころの働き)のような、「自分の心の働き」にあたります。そして、同じく自己モーメントのいちばん上には「自我機能」があります。これは、「情動」、「感覚」、「認知」の、自己に属する各精神機能を統合して、「より善い自分を実現していこうとする意志」の働きです。人生における価値観や目的意識を直接的に担うのは、情動+自我機能です。
 うつ病にかかってしまう人は、もともとこの情動+自我機能が弱い上に、さらにその働きが悪くなっていくと考えられます。すると、欲求が起こらず、何をしても面白くなくて、喜べず、気分がふさぎます。そして、何か重苦しい、何もする気が起こらない、生きている意味や価値がわからない等の、自我機能の弱体化へと進んでいってしまうのです。

 うつ病患者の気質として、クレッチマーというドイツの精神医学者は、@社交的・善良・親切・温厚、そして、A明朗・ユーモアがある・活発・激しやすい、さらには、B寡黙・平静・陰うつ・気が弱い、といった、3群の特徴をあげました。これらを私のモデルと理論に当てはめますと、@とAの大多数は「感情機能」の強さを示すものであり、逆にBは「情動機能」の弱さを示すものと言えます。これは、先ほど述べましたように、うつ病の人は、自己に比べて、他己が相対的に働きがよいという私の仮定と、とてもよく一致する記述です。私の仮説を強く支持する知見は、ほかにも数多く報告されて来ていますが、ここではいちおうこれまでにしておきます。
 ここで述べてきたことは、うつ病の症状や、うつ病患者の気質が、人間(精神)にとってどのような意味をもつのか、という問いに対する、きわめて有効な答えになっていると思います。
 そして、うつ病の治療法についての基本的方針も、「自己と他己のバランスの崩れを回復させる」というかたちで、明快に導くことができます。具体的には、趣味や遊びなどを通じて、「人生は楽しい」ものであることを実感させたり、ものごとを成し遂げる喜びを体験させたり、将来に対する希望がもてるような働きかけをしたりします。そのことで、自己に属する「情動+自我機能」を育てるのです。また、社会からの要請や期待(こうあるべきだ、こうしてほしいなどの、本人に対する周囲の思い)を減らすことによって、他己に属する「感情+人格機能」の相対的な弱体化をはかることも大切です。
 このような解釈は、もちろん、うつ病の発症をどのように防いでいったらいいかという予防医学の面でも、きわめて有効だと思われます。

 さて、新聞記事から離れての考察が、少々長引きました。うつ病とは、以上のように考えられる疾患なのですが、それにかかっていると認めてほしい、と言って病院を訪れる人が増えているということでした。記事の中で、精神科医の林公一氏は、そういう人々の多くが「擬態うつ病」(林氏の造語で、これをタイトルにした著書もあるそうです〈宝島新書〉)であると考えられる、と述べています。
 では、なぜそんな人たちが増えてきたのでしょうか。記事には次のようにあります。

 ・・・東邦大学の高橋伸吾助教授(精神病理)は・・・「ホームページや心理学の専門書には精神病の診断基準も載っている。安易に自己診断して、病気と思い込みやすい状況が整っている」・・・
 この現象の裏に、「自分探し願望」が潜んでいると指摘するのは精神科医の斎藤環さん。「悩みや苦しみの源である、自分の心を知りたい願望は若者を中心に非常に強い。彼らが訴える病気は、そうした疑問の『答え』として映るのではないか。『今まで苦しかったのは、自分がこの病気だったからなのか』と安心する人も多い」

 間違いではないにせよ、説明としては少々不十分だと思います。インターネットが爆発的に普及したのは確かにここ数年ですが、それ以前にも、精神病の診断基準そのものは、たくさん世の中に出回っていましたし、家族や一般の人向けに、精神疾患をやさしく解説した本も、それほど少なくはありませんでした。ごく普通の人が、こうした病気にくわしくなることのできる状況は、以前でもある程度なら整っていたと言えます。
 また、若者に「自分探し願望」が強いのも、いまに始まったことではありません。本欄のNo.11「未来に対する希望と不安・2」でも書きましたように、現代は、将来に対する希望がもてず、いまだけが楽しければいいと考える若者が急増しています。すると、いわゆる「自分探し願望」は、現代よりむしろ昔の方が強かったということも考えられるのではないでしょうか。しかし、「うつ病と認めてほしい」などと言って病院を訪ね歩く人は、以前にはいなかったのです。
 新聞にありますように、自分のことをうつ病と認めてほしい人たちが、何かの不安を抱えており、安心を得てそれを解消したいと願っているという指摘自体は、間違いではないでしょう。それでは、その不安の正体は何なのでしょうか。なぜ、そういう不安を抱えた人が、近年になって急増してきたのでしょうか。より根源に迫った解釈が必要だと思います。

 不安の状態もまた、自己と他己のバランスが崩れていることを表すものです。不安にもさまざまなあり方や原因がありますが、ここで問題になっている、(林氏の命名にしたがうなら)「擬態うつ病」と呼ばれる人たちは、たとえ病人と言われようとも、他者から認めてもらいたい、そして支えてもらいたい、さらには慰めてもらいたい、励ましてもらいたいという、非常に強い願望を抱いていることが、記事からわかります。
 端的に言うならば、他者からの愛がほしいのです。他者に愛され、認められ、支えられているという実感がまったくもてないために、それが欲しくて欲しくて仕方がないのだと思います。意識が、極端なまでに自己に集中しています。考えの中に「自分」しかありません。私がつねづね言っています、自己肥大の極致が、ここにもひとつの形で表れていると考えていいだろうと思うのです。

 自己が肥大して他己を失っているのですから、自己が他己に押しつぶされているうつ病とは、まったく正反対のすがたです。したがって、このような人に対応するのに、自己を肥大させるような方法は、かえって事態をますます悪くさせる危険性が高いと思われます。
 いま、広く行われているカウンセリングでは、患者の相談や、ことばは悪いですが「グチ」を、とにかく一方的に聞いて、それを良いとも悪いともコメントせず、支持や承認を与えるというあり方が、大半を占めています。こうしますと、患者は自分の内面を表出しているようでありながら、そこにほとんど内省が起こらないということになりかねません。
 実際、記事によりますと、こうした「擬態うつ病」の人々は、「最終的には、『ここの医師が自分に合わなかった』と、病院を転々とするのが典型的なパターン」(林氏のコメント)とのことです。これは、治療により、かえって患者がごう慢に、エゴイスティックになってしまったことを表していると言えるでしょう。医療現場の取り組みを単に批判するだけのつもりはありませんが、患者への対応の仕方に、何らかの問題点が含まれていることは、やはり事実として考えていかなければならないと思います。

 この人々にもっとも必要なのは、他己をはぐくむことです。基本的な方針としては、人や社会が、十分に「愛」や「善意」に満ちていることを理解させ、実感させていくことが大切だと言えます。そのことによって、「人の心を感じるこころ」である「感情機能」を育てるのです。愛されたい、支えて欲しい、と、ガチガチになって自己を守らなくてもいいように、こころを豊かにもってもらうのです。
 治療や相談におけるそのような人間関係は、対応する人自身が、どれほど豊かで、無垢な、そして研ぎ澄まされた「人の心を感じるこころ」をもっているかに、決定的に左右されます。単なる対人的なテクニックだけでは、とうていおよびがつかないことなのです。これは結局、世の中全体が、いまのような自己が肥大した社会から、他己が十分に発揮される社会へ回帰できるかどうかの問題であると言えます。

 昨年、「ひきこもり」が、自己肥大の病理のあらわれであるという主旨の論文を発表しましたが、今回の「擬態うつ病」も、同じ次元における現象であると考えられます。
 それにしましても、だいたい19世紀半ばころから、現代につながる精神医学が成立し始めて、それから百数十年がたった今日、精神疾患の数は、一体いくつにまで増えてしまったのでしょうか。失礼とは思いますが、「精神科医の数だけ精神病がある」と皮肉られるのも、現実の一面をうまく捉えていると言えるのです。今のところはカッコ付きで語られる「擬態うつ病」や「病名ほしい症候群」も、ひょっとしたら近い将来、正式な病気としてDSMやICDの改訂版に記載されるようになるのかも知れません。こうして、「○○症候群」「○○失調症」「○○障害」「○○病」が、爆発的に増えていきます。実際、これまでの歴史はそうなっています。
 すると、治療やケアのために医師や看護スタッフ、カウンセラーがいま以上に必要になりますし、薬の開発も要請されます。健康保険の業務が増え、民間の援助団体や互助サークルなどが続々と設立される可能性があります。こうなったら、いま多くの政治家や企業の社長が頭を痛めている「雇用創出」「景気回復」「内需拡大」等の問題が、病気によって解決することも、ジョウダンではすまなくなってくるかも知れません。それが人間にとって幸せなことかどうかは、大いに疑問ですが。
 自己肥大が進んだ日本人の多くが、「愛してほしい症候群」にかかっていることは、間違いのないところだと思います。その中の重度な人たちが、病院を転々としたり、社会に適応できずに苦しんだりしているのでしょう。比較的軽度な、おそらくは膨大な人数に上る人々が、「愛」を売り物にしたビジネスにはまって、ニッポンの景気を下支えしているのです。「癒し系」がはやるのが、その明らかな証拠です。だれも彼も、自分が癒されるかどうかだけが大問題で、自分が人を癒してあげられるかどうかなど、最初から意識にありません。そのおかげで商売が繁盛するのはけっこうだとしても、これで健全な社会と言えるのでしょうか。

 最後に、言うまでもないことなのですが、誤解のないようにひとつ付け加えておきたいと思います。それは、うつ病と診断されて、治療や投薬を受けていられる方、あるいは、「ひょっとしたらうつ病では」という状態になられた方の中には、本当のうつ病の方が多数いらっしゃるはずだ、ということです。今回、「自己の肥大」という観点から考察しましたのは、あくまでも「擬態うつ病」、「病名ほしい」症候群の状態になってしまった方々についてです。本当のうつ病の患者さん方には、病状にあった適切な理解と、正しい診断・治療が欠かせません。そのことを確認させていただきます。
 なお、この記事では、PTSDやAC(アダルトチルドレン)についてもふれられており、それらも重要な問題だったのですが、ここでは論じることができませんでした。またいつか、別のところで機会を設けたいと思います。  



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