ひびきのさと便り



No.17 農業壊滅への歩み('02.2.27.)

 先日、かつてのゼミ生だった方に電話をする機会があり、いろいろと懐かしい話に花が咲いて、時のたつのも忘れるほどでした。その際、この「ひびきのさとだより」にも話題がおよび、まるで私の話をじかに聞いているようだと言ってくださったのには、まことにうれしく、ありがたい思いでいっぱいになりました。たとえわずかであっても、そのように感じてくださる方がおいでだということで、ますますがんばって続けていこうという気持ちを新たにした次第です。

 とは申しますものの、このコーナーで取り上げたくなるような情報に接しますたびに、「この先、日本は一体どうなってしまうのだろう」という危機感が深まっていくのは、悲しいことだと言わざるを得ません。今回もまた、新聞でそのような記事に出会いましたので、それをご紹介し、みなさんにもご一緒に考えてみていただければと思います。
 日本経済新聞に「経済教室」という欄があることは、以前にも申し上げましたが、2月22日、そこに寄稿していたのは、政策研究大学院大学教授の、大来洋一氏でした。見出しは次のようになっています。

FTAの締結先増やせ/孤立すれば不利に/農産物の大幅な無税化を/初のFTAには実は前進はない/自由貿易圏から締め出しの懸念/農林水産部門の将来にもプラス

 FTAは「自由貿易協定」の略語で、日本は先日、シンガポールとの間でこれを締結し、近ごろはニュースなどでしばしば見かけることばになっています。大来氏は先ず冒頭の要約文で以下のように述べます。

@ 日本は多角的、無差別の貿易体制を重視し、自由貿易協定(FTA)を結ぶことはなか ったが、シンガポールと初めてFTAを結んだ。これを本当に活(い)かしていくために は他国とも広くFTAを結ぶ必要がある。
A その際、農林水産品の一部について無税化を進めないと、世界貿易機関(WTO)の  精神に反する。すでに輸入量が多い品目の無税化ならば農林水産業に対するショックも 大きくない。長期的には構造改革にも役立つ。
(アンダーラインは中塚)

 本文の方からも、重要と思われる部分を引用させていただきますと、次のようなところがあげられます。少々長くなりますが、それでもなお、使われていることばや論理の展開などに、全文を読まなければ分かりにくいところが含まれていると思います。ご関心が高い方には、直接新聞をご覧いただきますようお願いいたします。

 ・・・今回の協定で、農林水産品で無税とされたものは、以前から無税とされていたものばかりであり、何の前進もない・・・。
 ・・・農林水産品について追加的には一品目も譲らないというやり方を変えるということが必要である。これはたいへんなことのように思えるが、シンガポールとは一割程度であった無税品目の農林水産品貿易量に占めるシェアを広げていくということは実は、それほど過激なことではないと思われる。
 すでに相当の貿易量があるものを無税譲許すれば、無税の範囲は現在の貿易量をもとにした数字では大きく広がる。しかし、相当量の貿易量があるということは、その品目は輸入比率が高くなっているということである。国内のその品目の産業はすでに相当縮小しているはずである。
 そうであるとすれば、対シンガポールと比べて、日本の農林水産品の輸入が大きい相手国とFTAを結んでも、農林水産品を100%無税化するわけではない以上、わが国の農林水産部門全体を壊滅させるようなことにはならない。すでに縮小している一部の分野の保護をはずして、他の分野への転換を促進することは農林水産部門の長期的な将来にとっても必要なこととさえいえる。
(アンダーラインは中塚)

 大来氏の意見をかんたんにまとめ、かつ、少々露骨なことばにしますと、「農林水産部門において、十分な収益が上がらず、規模が縮小している(それなのに保護されている=すなわち日本経済の足を引っぱっている)分野は思い切って切り捨てる(これが言い過ぎならば、大幅に規制緩和をする)べきである」となるでしょう。さらに、「そうでなければ、現代のグローバリゼーション、自由競争、市場経済至上主義の世界では生き残っていけない」と付け足しても、主張からそれほど大きく外れることはないと思います。これは何も大来氏や、少数の人だけの意見ではなく、いまの政治家や財界人ならば、99.999…%の、限りなく全員に近い人々が同じように考えていることと言えます。さらに、日本および世界経済の今後に指針を示す役割を担っている経済学者の間にも、同じように考える人が多いことが、こうした記事を読むとよくわかります。

 まず、はっきりさせておきたいのは、グローバリゼーションや自由競争、市場主義は、弱肉強食、優勝劣敗の思想である、ということです。それは、人間性を失った、動物の原理にほかなりません。
 別のたとえをすれば、ハンディの有無、能力の高低などをいっさい考慮せず、同じコースをいっぺんに走らせるマラソンのようなものです。だれでも「平等に」この競争に参加できる、というのが「機会の平等」という発想です。しかしそこでは、当たり前のことですが、本当の平等は実現されません。しかもこのマラソンにはゴールがなく、もともとついていた大きな差が、どんどん広がっていきます。さらには、トップ集団が、後続組や落伍者を利用して、自分たちに有利なレースを展開することすら起こります。そうすることが、当然、世界経済全体を発展させる、善い行いと考えられているのです。
 私はもう十年以上前から、『こころのとも』や、その他さまざまな機会に、こうしたことを批判的に考察し続けてきました。しかし、その傾向はあらたまるどころか、ますますその度合いを深めています。
 動物原理の中で行われているサバイバルレースについていけなくなってきた。それは、まだ動物になり切れていないからだ。もっと人間性をかなぐり捨てなければ、この競争には勝てないぞ・・・。いま叫ばれていることの本質は、結局こういうことなのです。しかし、これが果たして、人間としてなすべきことと言えるでしょうか。
 ちなみに、欧米先進国は、なぜこのレースに強いのでしょう。長年にわたる植民地主義・帝国主義の結果、莫大な富を積み上げ、さらに産業革命を引き起こした結果、その富を途方もなくふくらませることに成功したから、と、このように考えることができます。いま繰り広げられている、先進国と発展途上国との経済競争は、かつての収奪した側とされた側の競争です。すでに、スタートにおいて、比較にならない差がついているのです。それなのに、「機会の平等」の名においてその差を無視するのは、詭弁を弄している以外の何ものでもありません。
 別の点をみますと、欧米資本主義は、キリスト教思想と車の両輪をなす形で発展してきました。とくにアメリカでは、社会学者のマックス・ウェーバーが、有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において指摘しましたように、節制や勤勉といった禁欲的倫理は、神が人間に課した「義」であるという教えが、人々の他己(社会性・他者性)の形成に、強く働きかけてきました。こうした、強固な精神基盤が、先進国にさらなる強みを与えたと考えられます。
 しかし、もう少し付け足す必要があると思いますが、資本主義の「発展」や民主主義の「成熟」は、必然的な結果として、他己の喪失と、自己の限りない肥大をもたらします。それはつまり、倫理や道徳、伝統など、人々の行動にブレーキをかけ、姿勢や方向を正しく制御するものが働かなくなってしまうことです。快適性・利便性・享楽性の追求、そして利益の極大化(損得勘定)と思い通りの選好(好き嫌い)が最高の価値とされれば、それを正すのは容易なことではありません。大多数の人が賛成したことが「真」であり「善」であると決まるのが民主主義の原理です。それが「本当に」正しいのか、善いことなのかは、だれにもわかりませんし、かえりみられることもないのです。信仰を失った人間は、そうならざるを得ません。
 日本の農業や食糧の問題も、同じ次元、つまり自己肥大の原理に立って考えられています。どうすることが本当に善いことで、どのように行動すべきなのか、正解はだれにもわかりません。「正解がない」ことを保証するのが、民主主義なのですから、当然と言えば当然です。何を言ってもいいし、何をしてもいいのです。いちばん儲かりそうで、できるだけ楽な方法が、多くの人の賛成を得て採用されることになります。そして、その方法が失敗したときには、だれにも責任のとりようがありません。「だれのせいか」と問われれば、賛成したみんなのせいなのですが、それはつまり「だれのせいでもありゃしない」ということでもあるわけです。

 焦点を農業にしぼって考えてみたいと思います。大来氏は、すでに輸入が大半を占めている品目は、国産に固執せず、関税を撤廃してどんどん外国から買ったらいいと言います(ことばはこの通りではありませんが)。国の産業には、それぞれ得意分野があるのだから、お互いが得意なものを分担・生産して、自由に売り買いすれば、それが合理的であるし、互いの経済発展のために好都合である、現代の「常識」では、このように考えられることになります。
 まず問題になりますのは、国産の一次産品(農産物、水産物、木材など)で、国際価格における競争力をもっているものは皆無である、ということです。主食であるコメは、国産品価格と外国産品価格との間に、十倍の開きがあります。コメが完全自由化になったら、国内の稲作農家でやっていけるところは、おそらく1軒もないでしょう。今月号の「こころのとも」の後記にも書きましたように、現在すでに、北海道の稲作農家は、年間500軒が離農していくという現実があります。北海道全体で、何軒の稲作農家があるのか、手元に資料はありませんが、年間500軒というすさまじいペースで農家がつぶれていけば、北海道から田んぼが消えるまでに、おそらく大した時間はかからないでしょう。その影響は当然、全国に波及することが考えられます。主食であるコメに、国際競争力をつけさせようという目論見を含んで、大規模農業を奨励した政策が、きわめてわずかの期間で破綻をきたしているのです。
 セーフガード発動で話題になったネギにしても、私が見たNHKのテレビ番組では、たとえば3本1束が中国産100円に対して、国産は180円程度でした。価格で対抗するために、ネギ農家の人たちはそれこそ血のにじむような必死の努力をして、何とか1束130円にまで下げるところにこぎ着けました。それでもまだ30円の開きがあるのです。仮に、小売価格を100円に下げることに成功したとしても、おそらくその時には、中国からの輸入品が70円、60円になっているでしょう。大勢の方の努力をあげつらうためにこんな例を出したのではありませんが、このような現実があるわけです。
 つまり、グローバルな市場主義経済に、日本の一次産品をさらすことは、即、日本の農林水産業をつぶすことなのです。

 グローバリゼーションの中で、一国の農業が壊滅的な打撃を受けるというのは、もちろん日本に限ったことではありません。たとえば、アメリカの巨大な外食産業は、売り物である牛肉を可能な限り安く手に入れるために、世界中の土地を調べて回ります。すると、南米を産地にするのが、もっとも効率的であることがわかります。そこで、熱帯雨林を伐採して、広大な牧場を作ります。安い労働力を利用して、安価な牛肉を大量に生産します。それを、何十倍もの値段のハンバーガーに仕立て上げ、ことばは悪いですが、世界中にバラまくのです。
 自然のバランスを無視して作り上げられた牧場は、しばらくたつと荒廃します。すると、さらに新しい熱帯雨林を開墾しなければなりません。土地の使い捨てです。こうして、牛肉の生産を請け負った国では、国土が荒れ果てていきます。自然だけではありません。経済状態も社会構造も、外資によって好き放題にしぼり取られ、かき回されて、ガタガタになっていくという事態が、しばしば生じています。
 もちろん、アメリカだけが世界の悪者であるわけではありません。森林の伐採やエビの養殖などで、日本も同じことをしてきています。熱帯〜亜熱帯の地域では、たいていどこでも、サトウキビ、コーヒー、バナナなど、単一作物の大規模栽培(プランテーション)が、同じような問題を生みだしています。すべて、先進国が望み、押しつけた農業が引き起こした問題です。

 また、みずからも世界有数の農業国であるアメリカでは、しばらく前から土地の砂漠化が深刻な問題になっています。地下水をどんどん汲み上げてスプリンクラーで散布し、そのうえ化学肥料と農薬を大量に使って、広大な土地で小麦や大豆などを育てます。数年間は高い収穫率を保てますが、砂漠化も同時に進行していきます。数年たつと、何も作れない不毛の土地になってしまい、大雨や強風に見舞われると、大量の土砂が流出していきます。こうなっては、新たな場所に耕地を求めざるを得ません。ここでも土地の使い捨て、「土地収奪型農業」の弊害が見られます。アフリカや中国などでも、同様の問題が深刻化しています。
 土地収奪的な農業でなければ、グローバリゼーションの中ではやっていけません。徹底した低コストと大量生産が、絶対にはずせない条件だからです。グローバリゼーションや市場主義経済において、農業をはじめとする第一次産業が安定的に、健全な発展をしたという例は、ないように見受けられます。一次産業は、どの分野も例外なくしぼりつくされています。つまり、直接、その仕事に従事している人々の犠牲の上に、金持ちの商売人や消費者の、安楽な生活が成り立っているのです。
 しかし、その犠牲があまりにも大きくなってしまいました。自然環境や農業従事者が、持ちこたえられなくなってどんどんつぶれ出し、その上にあぐらをかいていた人々も、危機にさらされ始めたのです。

 以上のように概観しただけでも、現代の農業は、世界的な規模で、きわめて危うい状況に直面していることがわかります。いつ、どのようなかたちで、世界的な食糧危機が発生するか、予測がつかない上に、その危険性はかなり高いように思われます。
 地球温暖化や砂漠化、熱帯雨林の減少などが引き金となって、予測を超えた気候の変動が起こるのかも知れません。それよりも、核戦争や原子力発電所の事故が突発し、放射能の汚染によって農業が壊滅するかも知れないと考えた方が、より現実的とも言えます。今日や明日にそうなってもほとんど不思議ではないくらい、世界情勢は不安定化しているのです。
 こうした中で、日本の農業政策は、どちらを向いているのでしょうか。大来氏の主張にも如実にあらわれていますように、最終的には農業を外国に明け渡して、製造業や情報・サービス産業などで生き残っていこうということだと思うのです。
 その際、いっぺんに農業をつぶしたのでは、大来氏も述べていますように「ショック」が大きすぎます。そこで、少しずつ時間をかけ、縮小している部門から順々に切り崩していって、可能な限り軟着陸できるようにもっていこうと考えられているようです。
 これ以上農業に足を引っぱられてはかなわないという本音が、政治家や企業家の中にあるのではないでしょうか。たとえば、先述した中国とのセーフガードの問題にしても、結果は惨憺たるものでした。ネギ・シイタケ・畳おもての3品目に緊急の暫定セーフガードを発令したことに対して、中国側は日本製の自動車や電化製品に報復の特別関税をかけました。半年たって、セーフガードを本格発動するかどうかという時期になったとき、日本の産業界がこうむった損失は、総額600億円を超えたと言います。そして、結局セーフガードは見送りです。その決断自体がどうだったのか、ここではコメントを差し控えますが、この問題が残したのは、600億円の大損だけで、農業も、製造業も、そして外交や政治の面でも、日本には得るところが何ひとつなかったわけです。そして、農業のおかげで「国益」を損なうのはたまらない、競争力の低い分野からは早々に撤退するのが、市場主義では鉄則だという考え方が、以前にも増して強くなったのではないでしょうか。
 しかし、あまり細かい具体例はあげませんが、日本の製造業や情報産業が、現段階で国際的にどの程度にランクされているかということについても、残念ながら楽観できるようなデータはほとんどありません。仮に、農業を棄てて「身軽」になれたとしても、それによって日本が市場主義経済で主導権を握れるようになる可能性が高くなるわけではないと思います。

 一次産品を生産するためには、とても人手がかかります。国際価格競争の中では、人件費が高い日本は圧倒的に不利です。はっきり言えば、最初から競争になりません。日本が強みを発揮できたのは、作るのに人手がかからないもの、つまり、ロボットでも作れて、しかも高く売れるものでした。すなわち、自動車、電化製品、精密機械などです。しかし、ロボットでも作れるのであれば、当然、そのロボットを、コストが安い外国で動かせばいいということになります。その結果、産業が空洞化します。
 このようにして、「国際分業」という考え方が生まれ、日本はより付加価値の高い得意分野に特化してお金を稼ぎ、安く作れるものは外国にまかせ、さらに、食べ物は外国から買ったらいいと言われるようになったと思うのです。
 しかし、食糧は、もう少し範囲を広げて「衣食住は」としてもよいのですが、これは人間の生きる根幹です。それを外国にあずけるというのは、つまり命をあずけているのと同じことになります。言い方をかえれば、日本は、食糧産出国に首根っこを抑え付けられているのです。
 日本が今日のような姿になったのには、太平洋戦争後の連合軍、もっとはっきり言えばアメリカの、遠大な対日占領政策が大きく働いてきたように、私には思えます。アメリカは、どうしたら日本人を骨抜きにし、思い通りに操れるかを、深く考え、周到に手を打ってきたと思うのです。
 人間を精神的に立ち行かなくするのにもっとも効果的なのは、宗教と信仰を取り上げることです。日本は、憲法に宗教を放棄することを明記しました。そして、教育から信仰を捨て去りました。こんなことをしたのは、世界中で日本だけです。その結果、日本は世界でいちばん、人心が荒れ果てた国になりました。「こころ」を失い、手先が器用で金もうけにしか関心のなくなった、世界の使い走りになったのです。これは、まさにアメリカの戦略通りだったのではないでしょうか。
そして、さらに、食糧自給に関心のない国民にすることにも成功したのです。こころを失ったうえ、さらに食べ物まで取り上げられては、エサ欲しさに仕事や芸に励む動物と一緒です。人間としての誇りも尊厳も、あったものではありません。ここでも、アメリカのねらいは、九分九厘、達成されたように思われます。
 この期におよんで、「食糧は外国から買えばいい」などと考えるのは、何をかいわんやなのです。
 自国や、一定地域内での自給体制を回復、確立することを真剣に考え、具体的な取り組みを始めない限り、大げさなことを言うように聞こえるかも知れませんが、日本がつぶれ、早晩、地球全体がつぶれていくことは、避けがたいように思われます。

 いま、国内政治は、構造改革とデフレ対策のどちらを優先するか、あるいはどのようにバランスをとっていくかで揺れています。小泉内閣のキーワードは「構造改革なくして景気回復なし」でしたが、そもそも構造改革と景気回復(デフレ対策)とは、両立するはずのないもので、そんなことは、去年の春からとっくにわかっていたのです。構造改革をすれば、必然的に景気は悪化します。逆の面から見れば、いま以上に景気を悪化させるのが構造改革であるとも言えるわけです。
 先日、アメリカのブッシュ大統領が来日し、「小泉首相の改革を支持し、早い段階で効果が上がることを期待する。そのため、最大限の支援を惜しまない」という、「声援」を残して、次の訪問先であった韓国へ去っていきました。私は、これも以前から感じていたことですが、アメリカが舌なめずりして、日本を呑んでかかろうとする意志をますます露わにしてきたように思いました。構造改革を断行して、いよいよ危篤状態になった日本に乗り込んできて我がものにする、アメリカは、その総仕上げのときがいよいよ近いとねらっているのでないでしょうか。また、お隣の中国が、そんな状態を黙って眺めているとも思えません。こうしたことが、私の杞憂に過ぎなければよいのですが。

 私自身は、日本という国や、自分が日本人であるということに、いっさい、執着やこだわりはありません。国会議事堂に星条旗が揚がるか、中国の五星旗が揚がるか、もしそんなことになっても、それが時代の流れならば、どうでもよいこととして受け入れてもかまわないと思っています。
 しかし、そんなことになったとき、多くの人たちの基準からすれば、人々がいまよりもっと不幸をかこつようになることは明らかです。現代社会の、ほとんどの人たちは、できるだけ多くの富をたくわえ、快適な生活をし、無制限に自由を拡張することを欲しています。それにきびしい制限が加えられるような状態は、耐えられないことになっています。そのようなことは、避けられるのなら避けた方がいいと、多くの方々は考えるのではないでしょうか。
 また、貧富の差がこれ以上ひろがっていくことになれば、もはや暴力によって社会をひっくり返すしかないと考える人が、ますます増えていくと予想されます。世界のあちらこちらで、そうした動きがすでに見られていますが、それがもっと大規模に、日常的になっていく危険性が、きわめて高いと思うのです。日本やアメリカが、その当事国にならないという保証は、どこにもありません。

 いま、礼讃されるのがほとんど当たり前になっているグローバリゼーションや自由競争、市場主義をもって良しとする価値観が、根底からくつがえされることが、実は、緊急に必要なことです。弱肉強食や独り勝ちをやめ、だれもがゆずり合い、分け合い、許し合って生きていける世界をつくることです。
 こういう世界が実現したら、これまでの高い生産効率や経済性は、意味を失うことになるでしょう。「景気」という尺度で測るなら、少なくとも今よりはかなり悪くなると考えるべきだと思います。しかし、人間としての、生きている本当の幸せが実現されるとしたら、その方がよほど大切なことだと言えます。
 物質的・経済的に貧しくなることが、生きていく上でいちばん不幸なことなのではありません。精神的貧困こそが、人間としての、最大の不幸なのです。ことばを換えますと、粗末な食事しかなく、ボロをまとい、傾いた家に住んでいても、精神が満ち足りているならば、それこそが、人間の最高の幸せであると言えるのです。
 こうしたことを実感できるのは、容易なことではありません。何しろ、現代人の常識には、まったく反したことがらなのですから。
 それをわかることができるためには、思想がいります。哲学が必要です。それはつまり、相対的な価値基準を超えた、絶対的な真理を信仰することであり、その教えるところに従って、心を磨く修行に励むことなのです。



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