ひびきのさと便り



No.18  自分の立脚点 ('02.3.26.)


 観測史上初ともいわれる異例の速さで桜前線が北上しており、今回の「ひびきのさとだより」をお読みいただくころには、すでにお花見も盛りを過ぎたという地域が増えているのではないでしょうか。
 いよいよ新しい年度が始まります。この4月から新しく切り替わることはたくさんあると思いますが、その中でも、とくに世の中の注目を集めていることの1つが、みなさんよくご存じの、学校における新学習指導要領と学校週五日制(週休二日制)の完全実施です。
 学校教育の基本方針を示す学習指導要領の改訂に際しては、移行期間が設けてあり、例えば週五日制と並んで新指導要領の目玉である「総合的な学習の時間」は、改訂に先がけて実施されてきています。
 週五日制や「総合学習」の導入といった「ゆとり路線」の徹底によって、学習内容が従来の3割削減されることになり、このことをめぐっていわゆる学力低下論争が起き、世論に押されるかたちで、文部科学省の見解が二転三転したのも記憶に新しいところです。
 例えば、これまで「到達目標」と考えられてきた学習指導要領を「最低レベル」を示すものと解釈を変更したり、「体験」にこだわってきた「総合学習」について、基礎的な学力を付ける授業時間として活用することも認めざるを得なくなったり、「学力向上のためのアピール(学びのすすめ)」を発表して、宿題や放課後の補習を奨励したり、かつては「目の敵」にしていた学習塾や予備校に対して、体験学習などに関する応援を依頼したり、等々のことが続きました。
 「フタを開けてみれば(それほど悪くはなかった)」という言葉がありますが、ここ数年続いてきた、教育と新学習指導要領をめぐる一連の動向を見ますと、フタを開けるどころか、その前にナベが爆発してこわれてしまったという観がなきにしもあらずです。それでも、文科省の対応は、あくまでも、ナベはきちんとしております、新年度になったらどうぞ安心してフタをお取りください、というものです。別段、文科省を攻撃するのが目的ではありませんので、このあたりで話を先に進めてまいりますが、遠山大臣以下、文部官僚の方々は、現状認識すら危ういのではないかという思いを払拭することはできません。 
 さて、以上のような、4月からの新指導要領完全実施に先立ち、さる2月21日に、文科相の諮問機関である中央教育審議会が、教養教育などに関する3つの答申をまとめて提出しました。2月25日付の毎日新聞は、この内容を次のような見出しで紹介しています。

新・教養のススメ/中教審「学び」逃避傾向に警鐘/「幅広い年代で」強調/ゲーム時間制限/高校でも「卒論」/大学の教養、再生 

 記事からも、少々引用させていただきます。

 教養教育の答申で、中教審は「便利さと物質的な豊かさを手に入れながら、生活や社会全般において豊かさを実感しにくい。価値観が揺らぎ、個人も社会も自身や将来展望を持ちにくい」と日本の現状を分析した。このため、「学ぶことの目的意識が見失われ、まじめに勉強したり努力することを軽んじる傾向がある」と述べ、子供や若者に目立っている「学びからの逃走」に警鐘を鳴らした。
 こうした時代にこそ「自分の立脚点を確認し、目標の実現に向けて、主体的に行動する必要がある」と呼びかけ、「新しい時代の教養」がこれを実現する力になると位置づけた。


 この中教審答申に対して、日付が前後しますが、23日の毎日新聞社説は「教養教育/補習と宿題で身に付くか」というタイトルを掲げて、批判的な論説を展開しています。ここに書かれていることも、引用させていただきます。

 ・・・中央教育審議会の答申は、あちこちに気を配るあまり、たくさんのことを細かく書きすぎて、焦点がぼけてしまった。
 答申は、「教養」を「自分の立脚点を確認し、今後の目標を見定め、その実現に向けて主体的に行動していく力」と定義。生涯にわたって身に着けるものとした。基本的に異存はない。・・・しかし答申は一方で、「確かな基礎学力」を育てるために学校は「家庭学習の課題設定、放課後の個別指導や補習などの指導を行う必要がある」とも記した。・・・「家庭や地域でのしつけを充実し、善悪を区別する力や我慢する心などを身に着けさせる」「教員の力量を高める」なども課題に掲げた。
 それが答申の性格をあいまいにしている。一つ一つは間違っているわけではない。が、・・・正しいことを多く書きすぎた結果、教養にスポットを当てた意義がぼやけ、インパクトも弱まった。
 ・・・目配りは行き届いている。しかしあれも大事、これも大事の羅列の中では、かすんでしまう。影響力を持たない。残念なことである。


 この社説の主張は、「ポイントをしぼった答申にすべきであった」ということに尽きているようです。「正しいことをたくさん書きすぎては意義がぼやけ、インパクトも弱まってしまうから」というのが、その理由です。答申に書かれていることは、どれも(というのが言い過ぎとすれば、大部分が)正しい、というのが、大前提になっています。
 この考え方が、そもそもの間違いだと思うのです。本当に真実が述べられているのであれば、たくさん書かれていようが少ししか書かれていなかろうが、そんな条件ぐらいで「意義がぼやけ」たり、「インパクトが弱まっ」たりはしないと思うのです。答申に問題があるとすれば、それは、「正しいことを多く書きすぎた」からではなく、「間違いを多く書きすぎたから」、あるいは、「とるに足らないことばかりを羅列してしまったから」と考えるべきではないでしょうか。

 この答申をどう捉えるべきなのか、もっとも基本的な点を考えてみたいと思います。答申では、中教審が考える、「新しい時代の教養」の定義として、「自分の立脚点を確認し」と書き始められています。ここに、すでに問題が含まれていると思うのです。
 人間は、一体どうすれば、「自分の立脚点を確認」することができるのでしょうか。そもそも、自分の立脚点を確認するとは、どうすることなのでしょうか。それが明らかにされない限り、このようなことはいくら言ってみても、絵空事に終わってしまいます。
 2月25日の毎日新聞によりますと、今回の答申では、幼児期から大学までを通して「国語」「読書」の重要性が指摘されているそうです。具体的には、高校において、学校ごとに「必読30冊」を選んで卒業までに読むよう指導することを例示したり、大学でも「グレートブックス」のリストを学生に示して、読破を求めたりする、としています。
 このような読書指導に象徴されるように、一人ひとりが知識を豊富にして「知能」を高めたり、あるいは体力や器用さなどの「技能」を向上させれば、そのことによって、みんなが賢くなって「自分の立脚点を確認」でき、さらに、そういう人々が世の中に増えれば社会は善くなる、と、一般には考えられていることと思います。
 しかし、アタマがよくなったり、スポーツが上手になったり、手先が器用になったりしたくらいで、「自分の立脚点を確認」できるようになるのかと言いますと、決してそんなことはありません。
 「立脚点」と呼ぶ以上は、不動のものでなければならないと思います。完璧に不動であることはきわめて難しいにしても、少しくらいのストレスや社会の変化によって動揺しない強靱さをもち、あるいはそういう強さが備わるように努力すべきものであると言えるでしょう。
 しかしながら、たとえば読書をして、一生懸命アタマに知識を詰め込んでみても、そんなことでは決して不動の立脚点は得られないのです。相対的な知識をどれほど漁(あさ)って集めても、それだけでは何にもなりません。ちょうど、ゼロはいくら足してもゼロのまま、というようなものです。

 人間が生きていく上で、依って立つべき立脚点は、かんたんに揺れ動いてしまうような、流動的で相対的なものではなく、不動の、絶対的なものであるべきです。それは、私がつねづね申し上げていることですが、最終的には信仰によってしか得られないものです。その信仰が、具現化され、体系化されたものが、思想であり、哲学であると言えます。ですから、真の思想や哲学とは、単なる雑多な知識の寄せ集めではなく、絶対的な真理を表すものであるわけです。
 教育という、人間が生きていくことそのものを取り上げる営みは、揺るぎない思想や哲学の上に成り立つべきものです。そして、「生きていく上での立脚点」を問題にするのであれば、それも当然、思想や哲学の裏打ちがなければなりません。それらを欠いた立脚点など、自分の頭の上に足場を作ろうとするようなもので、そんなところに立とうとすれば、必ずひっくり返ってしまいます。自分ひとりがひっくり返るのであれば、まだ自業自得といって済むのかも知れませんが、そういうわけにはいきません。この世はお互いさまであり、だれもが相互相依で、「生かされて生きている」のですから、だれかがひっくり返れば、必ず他人も巻き添えを食って、迷惑をこうむります。「オレの勝手だろう」では済まないのです。

 「自分の立脚点を確認」するとは、究極的には、自分が生きている意味を実感できること、自分が「生かされて生きている」存在であることを、腹の底からわかることです。私の構築しました、哲学的心理学理論である「自己・他己双対理論」では、人間精神を構成する「自己」と「他己」(これは、一般に使われている言葉にすれば、おのれの中に宿した「他者性」)に対応して、それぞれの「基本命題」(生きていく上での最終目標)を想定しています。それは、次の2つからなっています。

「自己」の基本命題:
 人間は、自分自身を知ることを目指して、より善く生きようとする存在である
「他己」の基本命題:
 人間は、法を目指して、より善く社会的であろうとする存在である

 少しだけ補足をしますと、ここで言います「法」とは、単に「法律」だけを指すのではなく、社会の「のり」、天下の道理、人のふみ行うべき道、さらには仏教用語で言われます「法(ダルマ)」をも含むものです。概念としては難しいと思いますので、またいつか機会を改めてご紹介させていただければと思います。

 人間にとっての「自分の立脚点」とは、こういうものだと思うのです。そして、もうおわかりいただいていることと思いますが、これは、「お勉強」をして知識を増やし、少々アタマがよくなったくらいでは、およびもつかない次元です。むしろ、「オレはかしこいんだ」という傲慢さを捨て、自己への執着を滅しなければなりません。そして、「あたま」と「からだ」と「こころ」をひとつにする修行に励むときにだけ、少しずつ近づいていける世界なのです。
 しかしながら、このことは、日本の教育から、いや、日本人の生き方やものの考え方から、ほとんど完全に失われていることです。中教審の答申にこうした思想がみじんも含まれていないことは、当然と言えば当然でしょう。
 以前、講義で、ここに書きましたようなことをお話ししたとき、たまたま、ヨーロッパのある国からの留学生の方が聴講に来ていました。その学生さんは、私が話している間中、食い入るような姿勢で聴いてくれており、表情もニコニコと豊かで、こちらの心が大きく響いているらしいことは、講義をしているうちから感じておりました。
 そして授業時間が終わった時に、その学生さんがこちらに近づいてきて、私の手をしっかりと握り、大きく揺さぶって、「先生、先生のお話、とっても面白かった。私、感激しました」と言ってくださったのです。こちらも、そのように感じ、その思いをストレートに表現してくれる学生さんがいたことに感動し、たいへんありがたい気持ちに満たされました。
 比較したら悪いのですが、何を言っても能面に近いような表情で、聞いているのかいないのかわからないことすら多い日本の学生さん(もちろん、全員がそうではないのですが)と、非常に対照的でした。この違いが、知的能力に由来するものではないことは明らかです。

 人間は、人(他人)の喜びや悲しみを我がものとして感じることができるからこそ、人間なのです。私はそれを、心理学の用語で言えば「感情機能」と名付けていますし、私の独自の言葉では「人の心を感じるこころ」と呼んでいます。「人の心を感じるこころ」が枯れてしまった人は、人間性の根本が枯れているのです。話を戻しますと、「自分の立脚点を確認」するとは、こうしたことについて、自分の心を深く見つめ直すことです。
 人間性に対する洞察を欠いたまま、こう言っては失礼かも知れませんが、軽々に「自分の立脚点」などと言いますと、いま進んでいます、日本人の自己肥大傾向を、ますます加速させるだけの結果になりはしないかと心配になります。そのような事態に警鐘を鳴らすべきマスコミも、「基本的には、正しいことばかりが書いてある」と、答申に評価を与えているのですから、よけいに危機感がつのります。

 この中教審答申に絡んで、東京大学教授の山内昌之氏が、やはり3月3日付毎日新聞の「時代の風」欄に評論を寄稿していますので、続きまして、その主張について考えてみたいと思います。
 まず、評論の見出しは、次のようになっています。

 日本の次世代教育/愚直に「人間」の教養習得を

 山内氏は、中東地域・イスラムの文化や歴史が専門であり、ご自分の専攻分野から、14世紀アラブの歴史哲学者、イブン・ハルドゥーンの著書である『歴史序説』を引用して評論をはじめています。
 山内氏によりますと、ハルドゥーンは、その本の中で次のように述べているそうです。

 人間は社会的結合なしには過ごしえない。・・・相互扶助によってこそ、人間の生存に必要な力、それも相互扶助に携わった人々よりも数倍も多くの人々の需要を満たす力が得られるのである。

 まず最初に、こうしたハルドゥーンの考え方について、根本的な問題点を指摘しておきたいと思います。ハルドゥーンは、人間の社会的な結合や相互扶助を、「生存に必要な力」「需要を満たす力」を得るために必要不可欠なものとして位置づけているようです。別の面からいいますと、人間は、生存や需要を確実なものにするために社会的に結びついたり、相互に助け合ったりすることができる、その「力」こそが人間を人間たらしめているのだ、という考え方が、ハルドゥーンの思想をかたちづくる大きな要素になっていたように読めるのです。
 もちろん、人間にはそういう一面があります。しかし、そこを見るだけでは、人間の捉え方としてはきわめて不十分であると思います。自己・他己双対理論からしますと、人間精神の「自己」の側面しか問題にしていないからです。人間は、進化の過程で人間だけが得た特性である「他己」(他者性)をも宿しているからこそ、人間なのです。人間の社会性は、必ずしも個々人の生存に都合がいいようにのみ、発達してきたのではありません。
 考古学などの研究成果によりますと、(報告によって幅がありますが)いまからだいたい十万年ほど前から、人類は仲間の死を悼み、遺体を埋葬して弔いの儀式を行い始めたらしいことがわかっています。古代人は、いったい何のためにそのようなことを始めたのでしょうか。脳の進化、しかも他の動物にはほとんど見られない、大脳皮質のうちでも「前頭連合野」と呼ばれる部分の極度の発達によって、ヒトに特有の知能や思考力が発達した結果だと主張する人は多いだろうと思います。高度な抽象概念を操作できるようになって、象徴や儀式を取り入れ、精神生活が「豊か」になったという考え方です。しかし、そのような考え方だけでは、人間だけが「精神」をもつようになった意味を、十分に説明しきれないと言えます。
 ノーベル賞を受賞した著名な脳生理学者であるJ・C・エックルスは、人類の歴史上、おそらくこの頃に、大脳半球の左右機能分化が起こったのだろうと推測しています。専門的な説明は省略しますが、よく知られていますように、人間の大脳には、いわゆる「右脳」と「左脳」があって、働きが分かれています。ちなみに、サルなど人間以外の動物も、形の上では右脳と左脳がありますが、人間のような機能分化は生じていません。そして、私は、右脳が精神機能の「自己」を、左脳が「他己」を担っているという仮説*を構築しています。
 このように、「他己」の働きを得たことが、人間性の根幹をなすものなのです。このことは、人間の社会性や他者性という問題に対して、従来とは違った解釈を迫るものであると思われます。

 さて、先の『歴史序説』からの引用を受けて、山内氏は次のように述べています。

 個人と組織の関係は永遠の問題である。どの市民も、社会や国家に対して納税などの義務を果たす一方、保護や恩恵をこうむっている。この相補性によって、個人と組織との間に秩序と調和に満ちた関係が維持されるのだ。

 ハルドゥーンの言葉と合わせてここを読みますと、やはり山内氏も、人間の社会性は、「保護や恩恵をこうむ」るために、「納税などの義務」のかたちで発揮されると考えているように読み取れます。これは、人間と社会、あるいは「個人と組織」との関係が、あくまでも「取引」として想定されているということなのです。さらに言葉をかえれば、個人が、自分の生き残りのために、組織、社会を手段化し、利用するということです。
 無論、と言うべきかと思いますが、山内氏は、エゴを追求するために社会を手段化せよとすすめているわけではありません。反対に、「個人と組織との間に秩序と調和に満ちた関係が維持される」ことを理想としているのだと思います。しかしながら、その主張するところとは裏腹に、論理展開の基礎を、ハルドゥーンが言ったような「人間の生存に必要な力」「人々の需要を満たす力」などにおいているため、残念ながら、現代的なエゴイズムを脱却できずにいると思うのです。

 もう少し、山内氏自身の意見に即して考えてみたいと思います。少々長くなりますが、評論の後半から、特に重要と思われる部分を引用させていただきます。

 古今東西の英知は、人間を有害な事物から公共の利益に導くことを勧め、善から悪へつながる行為を拒否してきた。今回の「新時代の教養教育」は、知識習得の意味を他者や社会と関係づけている点で評価されるのである。
 「人間はまず自分の行為から出たものが、悪であり有害なものであるかどうかを、正しい経験と現実の習慣に照らして識別する。この点は、さ迷える禽獣(きんじゅう)とは異なるのである」(『歴史序説』第6章)。
 しかし、現実の日本社会は、善悪の価値観さえ時として忘れがちな危機に陥っている。それを混迷から救うには次世代の教育においてオーソドックスな道筋を〈愚直〉に確認する以外に近道はないのである。イブン・ハルドゥーンは、教育によっても高められる思考について、三段階に分けて考えている。
 第一の段階は、・・・「表象」あるいは「識別知」ともいえよう。これによって人間は、自分やその生活に役立つものを選び、有害なものを棄てるのである。
 第二の段階は、人間が仲間と交際し、指導する場合に必要な考えや態度を人間に与える思考である。・・・これは「経験知」といってもよい。
 第三の段階は、感覚のはるか向こうにある対象を実地の行動によらずに知り、憶測する思考であり、「思索知」と名づけられる。・・・
 人間はこう思考することによって、「完全な真実性に到達することができ、純粋な知性、知覚する魂となる」のだ。いずれにせよ、人間の本性と本質は、「われわれが本来無知なる存在であって、知識は獲得されたものであることを明らかにした」のである。
 

(アンダーラインは中塚)

 みなさんは、これをお読みになって、どのようにお感じになるでしょうか。私には、山内氏の考え方に、オプティミズム(楽天主義、楽観論)が根強いように感じられ、そのことに強い印象を受けました。引用のはじめの方の部分にある、「古今東西の英知は、人間を有害な事物から公共の利益に導くことを勧め、善から悪へつながる行為を拒否してきた」というのは、果たして本当でしょうか。諸学問や、科学、技術などが進展することで、本当に人間は「悪」を拒否し、「善」を求めるようになってきたのでしょうか。いま、日本や世界で現実に起こっている、数々の出来事を見ますと、とてもそうとは言えないと思うのです。
 二千年、あるいはそれ以上も昔、釈尊やキリスト、老子、ソクラテスが教えを説いていた時代と較べて、人々の人間性が向上したのかと言いますと、現実はまったく正反対であるように見受けられます。山内氏が言われますように、「公共の利益」は増大しました。生産性は、数字にすれば、古代に較べてまさしく天文学的なレベルに跳ね上がっており、生活上の快適性・利便性・享楽性も比較になりません。いまのところ、「利益」は限界を感じさせないほど増大を続けています。しかしこのことが、世界の平和や人々の幸福に何ら貢献できていないことは、改めて例を挙げるまでもないことのように思われます。利益のほとんどは、個々人(しかも、そのうちの強者)のエゴの肥大に還元され、飢餓、貧困、略奪、搾取、差別、殺人、紛争、戦争などの悪循環が続いているのです。
 もちろん山内氏も、そうした現実に目をつぶっているわけではなく、そこから脱却し、諸問題を克服できる道を模索していると言えるでしょう。そして、教育によって、教養や知識が習得されれば、それが可能になると考えているのです。その考えを補強するために、再びハルドゥーンの言葉が引用されています。
 ハルドゥーンは、人間は、自分のしたことが悪であるかどうかを、「正しい経験と現実の習慣に照らして識別する」ことができ、それが人間を動物と分かつ点であると言います。しかしながら、この考えがそもそもの間違いなのです。
 人間は、相対的な存在です。それはつまり、自分の経験によって善悪を判断するだけでは、いつでも善は悪に、悪は善にと、簡単に価値観がひっくり返ってしまう、ということです。社会の習慣や常識に照らしてそれを識別するとは言いましても、相対的な価値観が寄り集まったのものが習慣なのですから、それとて、どこまでいっても相対的なものに過ぎません。
 もっともわかりやすい例が、昨年9月11日に起きた、同時多発テロ事件を発端とする国際社会の動きです。アメリカはついこの間も、北朝鮮、イラン、イラクを「悪の枢軸」と呼びましたが、北朝鮮はすかさず、「アメリカこそ悪の頭目だ」と反論しました。相対的な価値基準がまかり通る世界では、善は悪、そして悪は善なのです。これは結局、どちらも、自分の利益しか考えていない「悪(ワル)」なのだ、ということです。この「口げんか」に対しては、国連も黙って眺めているしかないようでした。世界に存在している「現実の習慣」など、実際はほとんど役立っていないのです。
 近ごろ、アメリカをめぐっては、鉄鋼製品のセーフガード問題も物議をかもしています。アメリカに言わせますと、国内産業を保護するためには当然の対応で、EUや日本がアメリカの国内市場を食い荒らすのは許さないということです。EUや日本にしてみれば、自分だけがさんざんいい思いをしておいて、相互の恩恵や利益は平気で踏みにじるアメリカの態度は、きわめて身勝手に映ります。このままでは、どこまでいっても接点など見いだせるはずがありません。WTO(世界貿易機関)の仲介や裁定があったとしても、それが不公平なものにならないという保障はなく、ここでもやはり「現実の習慣」が、かえって悪い方に作用する危険性があるわけです。
 自分の経験や、相対的な価値観といった、「自己」の論理に固執する限り、「さ迷える禽獣とは異なる」どころか、ますます人間性を喪失し、動物と一緒か、動物以下の生き方しかできないことになります。人間性を回復するためには、教養や知識を身に着けるのではなく、むしろそれらへの執着を断って、他己を取り戻さなければなりません。

 残念なことに、山内氏にはこのような考え方がないようです。もっとも、これは、山内氏だけのことではなく、現代社会のほぼ100%に近い人々の考え方なのですから、無理もないといえば無理のないことです。
 山内氏は、これもおそらくハルドゥーンからの引用と思われますが、学問や教養によって思考を身に着けることで、「完全な真実性に到達」できると主張します。しかし、繰り返してきましたように、相対的な価値観にどっぷりと浸(つ)かったままで、完全な真実に到達できることは、絶対にあり得ません。相対な世界と絶対な世界にとの間には断絶があり、前回も申し上げた例えですが、ゼロはどれほどたくさん集まってもゼロのままなのです。
 ハルドゥーンは、人間は「本来無知なる存在」であり、「知識」を獲得することで、その状態を脱することができると考えていたようです。これは、17世紀後半にヨーロッパに起こった啓蒙思想に共通する考え方です。啓蒙思想は民主主義の強固な基盤となって、現代に引き継がれています。
 しかし、どんなに知識を寄せ集めても、決して無知を脱することはできません。ひとりの人間が覚えたり、考えたりできることの「量」には限りがあって、どんなに努力しても、たった1枚のCD-ROMに収められた百科事典の情報にはかなわないのです。そうである以上、人間は、知識を身に着け、思考力を高めても、完全な真実とはまったく無縁の世界に生き続けなければならないことになります。

 人間が、完全な真実性に到達できるとは、精神をなしている「自己」と「他己」が、完全に統合されることを意味します。そうなったときに、1つ1つの具体的なことは知らなくても、すべてを知り得たという心境になれるのです。根源的で、絶対的な真実と一体になったという実感が得られ、雑多で細かいことなどは、知ろうとも、知りたいとも思わなくなるのです。その境地を、ソクラテスは「無知の知」と呼び、老子は「無為而無不為(なすことなくしてなさざることなし。何もしないのに、しないということがない、あるいは、何もしなくても、すべてをなし得たと思える、という意味)」と言ったのです。
 どれほど「勉強」をしてアタマをよくしても、決してこうはなれません。かえって、自分はこれほど勉強したんだ、かしこいんだというおごりが、自他の統合を妨げることの方が多いと言えます。自他の完全な統合に至ることのできるのは、実は、おのれを捨て、完全な真実に到達できた人々(釈尊、キリスト、老子、ソクラテスの「四聖」)の説くところに従って、ひたすらに心を磨く修行に励むときだけなのです。
 ただし、修行に励んでいれば、生きているうちに必ずその境地に至れるかと言いますと、必ずしもそういうわけにはいきません。むしろ、その世界を知らないままに一生を終える人の方が圧倒的多数であると言えるのです。
 成功や達成が保証されていないことなど馬鹿馬鹿しくて、あるいは恐くてとてもできない、と考えるのが現代人です。知識の豊富さや思考力の高まりは、試験の結果やお金もうけなどによって、目に見えるかたちで実感することができます。しかし、精神の統合はそういうものではありません。わかる人にはわかりますし、わからない人には、どんなことをしても絶対にわからない世界の出来事です。そうなりますと、「なんのためにそんなことをするんだ」「やっていられるか」となってしまいがちです。
 しかし、前回、生きる基本命題を申しましたように、一面では「自分自身を知ることを目指して」、もう一面では「法を目指して」、より善い存在であろうと主体的に生きていくのが、人間としての本来的なあり方です。キリスト教に即して考えますと、それが、「神の義」「人の義」、つまり、神によって人間に課せられた義務である、ということです。
 1人ひとりの人間にできることは、完全な境地を目指して、ひたすらに精進を重ねていくことだけです。そこに到達できるかどうかは、人間のはからいや思惑を超えているのです。

 人間存在の根本的なあり方を問題にすることこそが、教育の使命であると思います。しかし、現実は正反対で、こういうことほど、いまの教育において無視され、さげすまれていることはないと言えます。どれほど知能や技能を効率よく身に着け、現実の世界でうまく立ち回ることのできる「人材」を作り上げるか、教育に期待されていることは、たいていがこれに尽きています。中教審の答申や、山内氏の考え方も、残念ながらそれを逃れるものではありません。その結果、人々の願いとは裏腹に、社会はますます混迷を深め、世界は一歩一歩、崩壊の危機に近づいていってしまうのです。
 直面している危機を回避する上で、もっとも大きな役割を担うべき教育が、逆に事態を悪化させるようなことがあってはならないと思うのですが。


*中塚善次郎(1998) 自閉症児における左半球障害新仮説の提示 −コミュニケーション障害の大脳生理学的基礎をより深く理解するために−,鳴門教育大学学校教育研究センター紀要,12,21-30.



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