ひびきのさと便り  



No.19 「衰弱死」と「創造」   ('02.4.1.)

 毎日新聞に「経済観測」という小欄があり、3月14日は「国民の目」という見出しになっていました。書き出しは、次のようです。

 ニューズウィーク誌は「衰弱死する日本」と特集し、10年後には日本が国として破綻(はたん)する可能性について論評を集めている。

 この部分を読んだとたん、紹介されているニューズウィークの特集に、強く関心を惹(ひ)きつけられました。ご存じの方は多いと思いますが、ニューズウィークはTIMEと並ぶ有力なアメリカの週刊誌で、1980年代からその日本語版が刊行されています。その、世界的に読まれている雑誌が、日本の今後を予測するような記事を掲載したらしいことに、何かしらただごとではないような空気を感じたのです。
 私がこのように思ったのには、「経済観測」の記述以外にも理由があります。第12巻(平成13年)9月号の『こころのとも』をご覧いただくとおわかりいただけますように、私はそこに「思想を欠く日本人」という随筆を書きました。今から10年以上前の1989(平成元)年、こちらもやはりアメリカの「The Atlantic」という雑誌が、「日本には原理(プリンシプル)がない」「日本人は、他の世界の人々との情緒的なつながりを欠いている」「世界中のどんな人たちの生活も、同様に従っているような原理・原則に、日本人は従っていない」等の、日本人の弱みを指摘する記事を載せたことを取り上げたものです。
 ぜひこの随筆をご参照いただきたいのですが、この記事に出会ったときに抱いた私の第一印象の部分を、ここに再掲いたします。

 ・・・この記事の全体を読まないとその意図や目的はわからないのですが、・・・私は深い衝撃を感じました。
 この記事は、日本が破竹の勢いで世界中を、金の力にまかせて荒らしまくっていた時代・・・に載ったものです。
 その当時から、すでにこの記事は、私がこのところ言っています「日本人は民主主義以外の思想(信仰)を失って、根無し草に陥っている」ということを、的確に指摘していたわけで、そのことに強い衝撃を感じるのです。・・・哀れで悲しむべきは、このことに日本人自身がまったく気付いていないことです。


 当の日本人が自覚できていない自らの決定的弱点を、再び外国人が鋭く指摘しているのではないか、私は強く、このように感じたわけです。
 問題のニューズウィークは3月13日号で、私が「経済観測」を読んだときにはすでに週がかわっており、書店では入手できませんでした。そこで、ただちに香川県立図書館まで車を飛ばし、特集部分のコピーをとってきて読みました。 
 結論から申しますと、この特集では、「The Atlantic」ほどは、根本的部分への掘り下げがなされていませんでした。それでも、日本の現状や、短期的な将来予測の部分にはうなずけるところもありましたので、せっかくですから少しばかり引用いたします。
 まず、見出しは次のようになっています。

SPECIAL REPORT  2010年、衰弱死のシナリオ/財政が破綻し、銀行や企業が消滅−− 停滞の末の「国家倒産」で、日本はどう変わるのか/銀行の破綻は「大歓迎」/購買力が半分になる?/若い世代がねらわれる/タイムリミットは近い

 記事本文には、例えば次のようにあります。

 これまでの先送りのツケが大きすぎて、いまさらどんな手を打っても国家破綻の運命は避けられないという見方もある。・・・これまでのような対症療法を続ければ、5〜10年の間に日本経済そのものが突然死するか、過去10年と同じような停滞を続けたあげくに衰弱死してしまう可能性がある。・・・財政はますます悪化し、銀行や企業の破綻が相次ぎ、失業者は急増する。円は暴落し、輸入物価の高騰を通じて急激なインフレが襲う。

 ニューズウィークは、悲惨なシナリオを披露してみせるだけではなく、結末部分では「明るい兆しがないわけではない」と述べて、日本のとるべき方向性を提案しています。
 これがまた大きな問題をはらんでいるわけですが、その検討は最後に回すことにしまして、ここでいったん視点を毎日新聞に戻します。「経済観測」欄は、以上のような、ニューズウィークのかなりきびしい見方に対して、反論と言える意見を展開しています。

 現実をきびしく見つめることは大切だが、そういう未来になるのだろうか。
 (ニューズウィークに書いてあることは)これまでの傾向が変わらないことを前提とすればということであり、真意は変わることを促すことにあるのだと思われる。現に流れは変わりつつあるのではないか。外務省への政治家のかかわり方に対する国民の目の厳しさは並みではない。デフレの一層の深刻化、失業の増大の中で、癒着や既得権などのよどみに対する鋭敏さ、浄化力はこれまでになく強まっている。

 前号の「ひびきのさとだより」で、山内昌之・東京大学教授の考えにある「オプティミズム(楽天主義、楽観論)」を検討しましたが、ここでの「経済観測」の姿勢になりますと、もはやオプティミズムを通り越して、ほとんど「カラ元気」「根拠のない自信」等としか言いようがないのではないか、と思えてきます。
 「浄化力」という言葉ひとつをとってみましても、なぜ、いまの日本で、そのようなものが強まっていると言い切れるのでしょう。この記事は3月14日のもので、この時期、世間は、外務省や鈴木宗男氏をめぐるさまざまな問題で大騒ぎになっていました。野党の論客が次々とマスコミに登場して、自民党の旧体質や官僚の腐敗、不手際を暴きたて、また、身内からの内部告発とも言えるメモや会話内容の公表などがあり、さらに鈴木氏に対する国会の証人喚問が行われて、政治の動向を多くの国民が注視していたころです。そのような騒然たる情勢の中においては、「経済観測」が、「外務省問題に対する国民の目の厳しさは並みではない」と書くのも、多少はやむを得ない点があるかもしれません。
 それにしましても、本当に「浄化力はこれまでになく強まっている」のであるとすれば、なぜあそこまで現職議員の離党や辞職が相次ぐのでしょうか。この文章を書いている時点では、自民党の鈴木宗男氏、加藤紘一氏が離党、社民党の辻元清美氏が議員辞職となっています。この少し前には、田中真紀子氏の外務大臣更迭、現職の徳島県知事の逮捕などがありました。さらに、狂牛病問題への対応をめぐっては、武部農林水産大臣の進退が取りざたされています。「枚挙にいとまがない」とは、まさにこういう状態を言うのだと思います。
 政治家がこのような立場に追い込まれることこそが、「浄化力の高まり」なのであるという言い方があるかも知れません。しかし、これら一連の動きは、浄化力というよりも、政治家や政党、派閥同士の足の引っ張り合い、だまし合いと見る方が的確ではないでしょうか。
 政治の他にも、例えば食品表示の偽装問題などでは、「よくぞここまで」という感じで不祥事が次々と明らかになってきており、しかもその連鎖はいっこうに治まる気配がありません。偽装が明るみに出たメーカーや小売店の経営者、従業員は、たいてい「どこでもやっていることだから・・・」と言います。先日議員辞職に追い込まれた、社民党の辻元清美氏も、釈明の記者会見で、秘書給与の操作などは「ほかでもやっている」と発言して波紋を呼びました。これでは、浄化力が強まっているどころか、日本社会には浄化力などまったくないと言うべきです。
 念のために「浄化」という言葉を辞書で引いてみますと、「@きよめること。清浄・清潔にすること。A〔宗〕卑俗な状態を神聖な状態に転化すること」とあります(広辞苑)。
いま、日本に渦巻いている一連の動きは、とてもではありませんが「浄化」の名に値するものとは思われません。逆に、政治家を含め、多くの国民が倫理観を失い、義理や人情も捨て去って、おのれの利益の増大や保身だけに必死になっている姿が、あさましいまでにあらわになっているものと理解すべきだと思います。「浄化力」ではなく「不浄化力」が強まっているのです。
 将来に対して、ある程度は的確な予測をすることも、新聞社の重要な務めです。その点からしますと、「経済観測」の認識には、かなり甘いところがあると言わざるを得ないように思えます。
 「経済観測」の主張は、次のように続きます。

 何のための構造改革か・・・。その目的は過去の負の遺産を砕く、ということだけではなく、未来に向かって新しい国づくりをする、という面が当然含まれていなければならない。そこがあいまいであったことが行き悩みの原因になっているのではないか。
 21世紀の2年目となり、ようやく20世紀をつくってきた拡大主義や唯物主義、自己中心主義の前提のままでは走れないことがはっきりしてきた。そういう新しいパラダイムによって新しい国や世界をつくるために、日本が本来もっている特色をどう生かすのか。その視座から魅力あるビジョンが示され、広く理解されるなら、それを実現するための苦労をいとう国民とは思われない。
(アンダーラインは中塚)

 みなさんはこれを読んでどのようにお感じになったでしょうか。
 最後は、日本人が改革のための苦労をいとわないことを期待して結ばれていますが、果たしてその願い通りにいくのでしょうか。記事にケチをつけたいというような気持ちはみじんもないのですが、私には、ここに述べられていることが実現する可能性はきわめて低いように思われます。
 表舞台に立ってこれからの日本を支えていくべき若い世代の人々の間から、現在、急速に覇気やエネルギッシュな面が失われつつあります。以前(No.11  未来に対する希望と不安・2)もデータをご紹介しましたように、いまの日本の若者は、その半数以上が、人生の目的は「らくをして楽しむこと」だと考える傾向があります。自分さえ、そして今さえ楽しければ、他はどうでもいいのだというのです。一生懸命に努力してお金を稼いだり、社会的な名誉を得たりすることになど、まったく魅力を感じていません。外国と比較すると、その差は歴然としています。
 「苦労をいとう」どころではなく、「苦労などまっぴらゴメン」、いや、すでに「苦労」という言葉そのものが、日常においては死語と化している傾向すらあるように思います。
 そのような中で出される「魅力あるビジョン」とは、一体どのようなものなのでしょうか。多くの人々は、果たして何を望み、何を「魅力」と感じるのでしょうか。現状の延長で考えるなら、いま以上に楽ができ、いま以上に楽しく暮らせる、つまり、快適性・利便性・享楽性のさらなる追求でしかないように思われます。
 「経済観測」は、「20世紀をつくってきた拡大主義や唯物主義、自己中心主義の前提のままでは走れないことがはっきりしてきた」と述べていますが、それに代わる新たな「パラダイム(思考の枠組み)」は、残念ながらまったく示し得ていません。
 確かに、多くの日本人、とくに若い人たちは、高度経済成長期に顕著だった「拡大主義」になど、まったく魅力を感じていないようです。多くのデータがそのことを物語っています。では、「自己中心主義」も放棄したのかと言いますと、そうではなく、こちらはむしろ反対に、広く、深く蔓延していると考えられます。
 それは、例えばアメリカのように、自国の利益にならないことは、いかに国際的な取り決めであっても真っ向から反対するというような、いわば外向きの、ごり押しの自己中心主義ではありません。私が「自己・他己双対理論」において考えていますところの、人間精神をかたちづくる一方の柱としての「自己」が限りなく肥大し、しかも一人ひとりがそれに閉じこもっているという意味での自己中心主義です。先ほどの、「The Atlantic」にありました、「日本人は、他の世界の人々との情緒的なつながりを欠いている」という指摘は、まさにこのことを言い当てているわけです。
 いま、日本に蔓延している自己中心主義は、世界に類を見ない、異質なものです。この、日本的な自己中心主義の異質性が、もっとも明らかなかたちで現れているのが、今ではその人口が百万人とも言われている「ひきこもり」です。よく知られていますように、ひきこもりは海外では例がなく、まさしく日本だけに特異な現象です。
 自己中心主義において世界の最先端を行っており、その弊害が続出している当の日本で、「自己中心主義の前提では21世紀を走れない」と、本人たちが言ってみても、ほとんど説得力がありません。解決策以前に、自己中心主義そのものの本質が、的確に理解されていないのですから。
 したがって、構造改革を通して、「未来に向かって新しい国づくりをする」とは言いましても、どこからも具体的な見通しやプランが出てきません。日本人にとって、未来はないも同然になってしまっているのです。なぜそうなるのでしょうか。
 人間にとって、過去という時間は、精神の他己を形成するものです。自分を含め、これまでに人類全体がなしてきたことが、文化や文明、伝統や慣習、法律や制度となっています。それらは、他者との関係でみますと、他者の要請であり、他者の期待であると言えます。他己が豊かな人は、そうしたものに心を開いて、それらに定位(依存)し、それらにのっとって生きていけるのです。そうした生き方は、人間に精神的な安定をもたらします。反対に言いますと、それらに精神的定位ができないとき、人間は存在そのものが脅かされるような、きわめて危機的な不安の状態に陥ってしまうのです。いま、多くの日本人が自己を肥大させ、他己を失っていますので、それは時間で見れば、生きていく上で、意味のある過去を喪失しているということになるのです。
 過去(=他己)に定位ができないとなりますと、安心を得るために未来への定位を求めざるを得ません。未来は過去と対をなしており、精神で見ますと自己を構成するものです。したがって、自己中心主義は未来への固執でもあるわけです。しかしながら、未来は文字通り「未だ来ない」時間です。つねに流動的で、不透明で、不安に満ちています。ですから、そこに安心を見出そうとすれば、欲すること、願うこと、期待することが、いますぐ、ただちに実現しなければ我慢できません。それはつまり、刹那主義に陥ることです。「いまさえ楽しければ、後はどうなってもいい」と考えることです。現代人の多くがそうなっていることは、すでに述べてきました。
 日本人にとって未来が「あいまい」であることは、「経済観測」でも認められているようですが、では、なぜそうなってしまうのかという根本的な理由については、理解されていないようです。「過去の負の遺産を砕く」と、勇ましい声をかけて、何でもかんでも一緒くたという感じでどんどん過去を捨て去ることが、実は未来を失うことにもなっているのです。それはつまり、他己を失うことで、自己そのものが危うくなることです。
 過去(=他己)と未来(=自己)を現在に統合し、本当に充実した「いま」を生きていくことは、「今さえよければいい」という刹那主義とはまったく違います。そういう、充実した現在を取り戻すことが急務なのですが、それを可能にするためには何をしなければならないかと言いますと、精神における自己と他己の統合をはかる以外にはないわけです。それは、具体的には、信仰を取り戻し、修行(精神修養)に励むことです。それを抜きにして、いかなる対策をたてようとも、しょせんもろく崩れ去ってしまうことは避けられません。
 修行は、決して楽なものではありません。何も、きびしい断食をするとか、冷たい滝に打たれるとか、そういう特別なことでなく、毎日一定の時間、静かに瞑想することを怠らないというだけでも、ごく当たり前の日常生活を送っている中では、なかなか難しいことです。たった一人で、だれも見ていなくても、だれからも評価されなくてもそれが続けられるかどうか、その難しさは実際に経験してみればわかることと思います。
 しかし、あえてそれに取り組んでいこうという強い決意も、それに基づいた実践もないままに、「魅力あるビジョン」などと、耳あたりのいいことばかり言ってみても、新しいパラダイムが構築され、将来への展望が開けることなど、決してないのです。

 今回の原稿を用意する中で、日本経済新聞にも、関連することが書かれた記事を見つけました。こちらは3月24日付の「中外時評」欄で、見出しは次のようになっています。

「成功の罠」と日本の閉塞/貧乏哲学と決別する時

 少々長くなりますが、本文からも重要と思われる箇所を引用します。

 80年代末のバブル景気の時は、根拠なき楽観論が国内に充満し、バブル崩壊後はこれまた過度な悲観主義が生まれ、今日に至っている。・・・
 明治以降の日本の大ぼっ興、第二次大戦後の新たなる大発展−−・・・日本のこれまでの成功は歴史的な事実である。・・・「成功の罠」という議論がある。・・・見事に成功したやり方は・・・次第に時代の変化に対応できなくなる。対応できなくなった段階で、それにある程度気づいていても、この称賛された成功モデルをなかなか修正できない。
 20世紀の大半は、日本の成功の歴史だった。成功を支えたモデルの基本理念は、言ってみれば「貧乏哲学」であった。資本がない、技術がない、資源も乏しい。そういう状況から貧乏克服を図ろうとした。・・・この見事な貧乏克服を可能にしたやり方(制度、慣行)が、その後も居座っている。
 ・・・キャッチアップ過程が完了したら、海外にモデルを探すのでなく、日本みずからが独自の技術、文化を造り出さなければならなくなった。
 模倣から創造への発想の基本的な転換である。それには、中央集権による、画一的な資源配分、画一的な平均値教育から地域と個人の個性を尊重した分権、多様性と独創性の確保への転換が課題となる。・・・
 20世紀における日本の成功は、立派な成功である。だが、時代は急速に変化する。過去の成功を十分確認しつつ、「成功の罠」から抜け出したい。


 結果として莫大な富が蓄積されれば、たとえそれと同時に精神の貧困化が進んだとしても、「成功」であると考えるのは、「経済」に携わる人にとってはごく当たり前のことかも知れません。しかし、果たして「経済」とは、単なる金もうけとイコールなのでしょうか。それほど狭く、中身のないものなのでしょうか。私は、それは違うと思うのです。
 もう何年も前から、自己・他己双対理論によって新しい経済学を構築するという計画があり、少しずつ、その準備と取り組みを進めてきています。くわしい考察はそちらの研究に譲ることとしますが、経済活動こそ、まさに人間精神のあり方(すなわち、自己と他己の分化と統合)が色濃く反映されるものだと思います。富の量だけで価値をはかることはできないと思うのです。人間の、本当の幸福に寄与できる経済学においては、これまで当然とされてきた、合理性の追求や、利益と選好の是認などを、根本的に問い直さなければならないと思います。従来、自己のみに閉じてきた経済学を、他己との統合という、開かれたものとして体系づける必要があるということです。
 日本は明治以来、富の蓄積だけに奔走してきて、終戦後は宗教と思想の否定により、それがさらに徹底されました。そのことを見事な成功と呼ぶのは、あまりにも一面的な見方に過ぎないのではないでしょうか。

 日本経済新聞の「中外時評」は、日本が「成功の罠」から抜け出すために、「模倣から創造への発想の基本的な転換」が必要であると主張します。どうすればそれが可能になると言うのでしょうか。ここでは「個人の個性を尊重」すること、「多様性と独創性」を確保することが重要だと述べられています。これはつまり、非常にくだけた言葉にするならば、好き勝手にすること、「何でもあり」を保証することと言えるでしょう。
 しかし、そもそも「創造」とは何なのでしょうか。それは本当に好き放題にすることから生まれてくるのでしょうか。 
 真の創造は、自己に閉じているところからは生み出されないものだと思うのです。学問にしても、仕事にしても、画期的な発見や業績、ブレイクスルーは、一面では自己の徹底的な追求がきわめて重要なことは確かです。しかし、それだけではなく、もう一つの面では、自分の為していることが、他者に対して、あるいは社会的にどのような意味をもつのか、そのことについての深い洞察も欠かせないと思います。そうでなければ、人間として意味のある行為としての創造にはなり得ません。自己に閉じている限り、せいぜい自己満足、それがもし病的なものであれば妄想の産物ということにしかならないでしょう。
 実際、文学や芸術の分野では、鑑賞する人の心を深くつかんで離さないような、あるいは強烈な個性がほとばしっているような作品を生み出した人が、精神病にかかっていたという例が、決してまれではありません。そして、そうした文学者や芸術家たちが、人々の心を強く揺り動かすことは事実としても、そのような作品が、安定的に、システマティックなかたちで、社会の福祉や安寧に貢献できるかと言いますと、それは次元が違う問題だという感じがします。つまり、厳しいたとえかも知れませんが、どこまでいっても、人間の生きることに対するスパイス、刺激以上の働きにはならないということです。スパイスは主食になりませんし、とりすぎは時として害を及ぼします。
 さて、人々がそれぞれ自己に閉じている限り、他者の行為を「創造」と謙虚に認めることもありません。自分の利益を拡大するためにそれが役に立つ限りにおいては、うまく利用します。使い道があるかどうかが問題なのであって、それが創造的であるか、とか、社会的に意味があるか、などというのは、極端な場合どうでもいいことなのです。
 創造が本当に創造としての意味をもつためには、人々に他己がなければならないということです。究極的には、信仰がなければならないのです。アメリカでは、学問にしても産業にしても、とにかくあらゆる分野において、世界の中でも群を抜いて創造的な仕事が次々と生み出されています。なぜそのようなことが可能なのでしょうか。「自由の国」と呼ばれるほどで、個人の自由や権利がきわめて強く保証されていることは、理由のひとつでしょう。しかしそれだけではないと思います。「いいものはいい」と、他者の業績をたいへん率直に認める空気が、社会に浸透しています。それはつまり、多くの人々が、他者に対して謙虚に心を開いているということです。それを支えているのは、キリスト教への深い信仰心に他なりません。
 神が人々を愛するように、一人ひとりの人間もまた、隣人を愛さなければならないというのが、「神の義」であり「人の義」です。それは、個人主義や自由主義という、人間のはからいで作り上げた社会システムをはるかに超越して、人間に義務を課す、絶対的な規範なのです。
 日本や、広く東洋に共通することですが、こちらではキリスト教の思想とは違い、隣人愛が「義務である」という考え方は、古来からありませんでした。義務がなくても、人々はお互いに、「こころとこころ」でつながりあってきたのです。
 しかし、日本は戦後になって、そのような「こころ」のつながりをいっさい放棄しました。「こころ」を支えてきた、宗教や思想、社会制度等が軍国主義の温床であったと考えられ、それらを否定したためです。この場合、それに代わるべき規範が何かしらなければ、社会は必然的に崩壊への道のりを歩み始めてしまいます。
 ところが、これまでにも、論文や「こころのとも」などでくり返し述べてきましたように、戦後の日本には、民主主義以外に、思想と呼べそうなものは見当たりませんでした。 民主主義は、とにかく「自分が一番」という考え方です。自分が「いい」と思うかどうか、それだけが判断や価値の基準になるのであり、それは突き詰めれば、自分にとって得か損か(利益)、と、自分が好きか嫌いか(選好)だけが、その人にとって絶対的な基準になるということなのです。日本の公教育は(最近は家庭教育も)、民主主義を教えることにおいて徹底していますから、子どもたちは小さいうちから、「いいか悪いか、するかしないかは自分で決めなさい」と言い続けられて大きくなります。
 すると当然、他者に対する謙虚さなどが育つ機会がほとんどありません。社会的技能(ソーシャルスキル)として、腰の低さを身につけることはあっても、その場合、そこには何ら心がともなわないということになります。他者に対する思いやりからではなく、自分自身を防衛するために、他者との心理的な距離をとるのです。それはつまり、慇懃無礼(いんぎんぶれい)になってしまう、ということです。
 そういう雰囲気の社会では、他者の仕事や業績に対して、それが良いものであろうと悪いものであろうと、何ら心が動かされないのが普通になってしまいます。強烈な批判がないかわり、積極的な承認や称賛もないのです。「はあ、そうですか、良いものを作られましたねえ、なるほど」というような、毒にも薬にもならない反応があるばかりで、進歩や発展がほとんど期待できません。創造性を評価する土壌がないのです。
 わかりやすい例として、ノーベル賞受賞者のことを考えてみましても、受賞決定がおおやけになって初めて、「日本にそういう人がいた」ことがわかる、というケースがあります。そして、海外への頭脳流出の直前になって、産業界や学界が慌てて引き留めにかかるのです。
 いまの日本では、多くの人が自己に閉じ、他人が何をしていようと、何を作り出そうと無関心になってしまっています。しかし、本来、他己を宿している人間は、他者や社会に心を開き、精神的に定位していないと不安でたまらなくなります。すると、他者定位ができず、自己に閉じこもっている人にとっては、他者との比較が、ものすごく大きな問題になってきてしまうのです。他者には無関心でありながら、それが高じますと、他者に勝つこと、他者に優越することが、自己の安定を保つためにきわめて重要になるということです。そうしますと、他人の方が自分より善いことをしたり、言ったり、または良いものを作ったりしますと、素直に認めるどころか、腹を立てて、けなしたり、攻撃したりします。また、他人が自分より劣っていたり、失敗したことがわかったりしますと、「ざまあみろ」「してやったり」と、うれしくなります。絶対的な規範や基準を失い、自分の価値判断しかない人にとっては、いつでも、他人の善は自分の悪、他人の悪は自分の善になってしまうのです。
 日本では、創造的な仕事をする人ほど、周囲からねたまれ、恨まれ、いびられたり足を引っぱられたりしています。その結果、多くの優秀な人が、正当な評価と自由な環境を求めて、海外へ流出していってしまいます。こうした問題は、他己の喪失に深く根ざしているのです。ねたみ根性を日本人の欠点として指摘する人も少なくありませんが、事態はいっこうによくなりません。「ねたむのは悪いことだから、反省して改めよう」と、言ったり思ったりしても、人間の心のあり方はそれくらいで変われるようなものではないのです。
 このように考えますと、「模倣から創造に発想を転換する」と言いましても、口で言うほど容易ではないことが明らかです。どうすれば創造的になれるのか、そもそも創造的とはどういうことなのかについての、共通の原理原則が、いまの日本には存在していないからです。創造性の欠落と、他者の創造性を認めない空気の蔓延は、つまるところ、精神における他己の喪失に深く根ざしていると考えられるのです。
 新聞や雑誌、テレビなどを見ましても、ほとんどの人が、この、たいへん重要なことに気づいていません。ですから残念なことに、出される対策といえば、たいていは的はずれか、もっと悪い場合は事態をさらに悪化させることにしかならないものしかありません。
 これまでに何度も繰り返してきましたように、自他の完全な統合を目指して、心を磨く努力をするところにしか、本当に進むべき道はないのです。

 ニューズウィークの記事の結論部分は、先ほど述べましたように、日本が「衰弱死」を避けるための処方箋を提示しています。それは次のようになっています。

 ・・・日本の新しい発展の基礎となる制度を見つけるためには、競争促進的な税制の導入や規制緩和を通じて、企業や個人が自由に実験を繰り返せる環境をつくらねばならない。

 これは別に目新しい提案ではなく、何年も前から言われ続けてきたことの繰り返しです。そして、約1年前に発足した小泉内閣は、「構造改革なくして景気回復なし」を合い言葉に、まさにニューズウィークが提案していることをさらに加速させようとしてきたのです。 道半ばどころか、いまだ構造改革は始まってもいないという感じですが、その間にも日本の状況は悪化し続けています。構造改革が本格化しないために、日本の再生は遅れているのでしょうか。そうではないと思います。「自由」や「規制緩和」ばかりを叫び、それらに心を奪われ、それがますます自己肥大と他己喪失をもたらして、社会、日本という国そのものが崩壊していくという最悪の事態に、何ら配慮しないということが、諸悪の根元だと考えられるのです。
 人間だけがもつ特性である他己、他者性をないがしろにしたまま、どんな処方箋を繰り出そうとも、しょせん小手先のあがきに過ぎず、事態はジワジワと悪化していくのです。これまで、さんざん痛い目に遭いつづけてきているのに、日本人はその教訓をまったく生かせていません。それは、自己に閉じ、他己(=過去)を失っているからです。そのような中から出てくる処方箋が役立つはずもないことは、自明のことと言えるのですが。

 ニューズウィークは、最後の最後に次のようにも述べています。

 もし改革に失敗して生活水準が下がっても、心の豊かさまで失われるとは限らない。
「特別な理由もないのに親元を離れて暮らしたり、実家が米作農家なのに毎日パンを食べている人も多い。そんな余裕はいずれなくなるだろう」と、岩手県石鳥谷町に住む田中由一は言う。「コンビニの弁当を一人で食べるのではなく、手料理の並んだ食卓を家族で囲む。そういう『当たり前』の生活に戻るのも悪くないのではないか」

(アンダーラインは中塚)


「生活水準が下がっても、心の豊かさまで失われるとは限らない」とありますが、悲しむべきことに、いまの日本からは「心の豊かさ」など、とうに失われてしまっています。「心の豊かさが失われる」とは、他己が枯れ、「人の心を感じるこころ」がなくなってしまうことに他なりません。そして、本当の「心の豊かさ」は、生活水準の高低にはまったく関係がないのです。ニューズウィークもそういうことを言いたいようなのですが、この部分の取り上げ方を読むと、書いてあることの裏には「心の豊かさは生活水準に左右されるのだ」という本音があるのではないかと思えてきます。
 以上、3本の記事をもとに考えてきましたが、どれも、日本の現状に対してある程度の問題提起をしてはいるものの、残念なことに、それぞれきわめて不十分なものに終わってしまっていました。そして、それ以上に怖いのは、このようなことが報道されても、まったく心を動かされない人々が、この日本には大勢いるのではないだろうか、ということです。



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