ひびきのさと便り



No.9 子どもへの共感  ('01.12.26.)

 読売新聞では、毎週月曜日に「育つ・育てられる」という子育てに関する連載コラムを続けており、12月24日には70回を数えています。毎回、著名な研究者や、保育所・子育てサークルなどで活動している人、あるいは子育てに励む親そのものの意見などから、内容が構成されています。
 その、12月24日の見出しは「子の思い 3割共感できれば」というものでした。これを見ただけで、私は非常に驚きました。私がかねがね言ってきたことと、まったく反するものだったからです。また、同時に、この欄であればこのように書いても当然かという思いもありました。この連載に対しては、私はある意味で注目しております。と言いますのは、私が危惧している「自己肥大・他己萎縮」(より一般的なことばにすれば、エゴイズムの増大と他者性の欠如)をますます進行させるような記述に、ほぼ毎週出会うからです。
 そして、今回の内容もその例に漏れないものでした。中心になっているのは、京都女子大学現代社会学部助教授の棚瀬一代氏の意見です。見出しは先ほどご紹介した通りですが、重要と思われる部分を、少しばかり長くなりますが抜き出してみます。

 子どもの虐待が発生するのは、次の四条件がそろったときだという。
 (1)母親自身の成育史。・・・(2)子どもに対する認知。・・・(3)ストレス。・・・(4)社会的援助。・・・
 前回、一卵性双生児の一人だけを虐待する母親が、その子は自分に似ていて「かわいいと思えなかった」と語ったことを紹介したが、そうした「認知のゆがみ」が生じる・・・。そういう人は、「共感力がうまく育っていないことが多い」とも棚瀬さんはいう。子育ては相互作用だから、母親が拒否的な態度で接すると、子どももどこか、かわいくなくなって、悪循環に陥ってしまう。「基本的にかわいいと思っていることには、決して虐待は起きません」。・・・一時的にぶったり、ひどい言葉を投げつけたりすることがあっても、それは虐待ではないと棚瀬さんはいう。なんだか安心できる言葉だ。
 「多くの母親は母性神話に縛られているから、自分の心の中に、かわいくないという感情が動いたら、それを認めたくなくて、抑えつけ、見えないようにしがちです。でも、それほどがんばって母親的なふるまいをしなくても、根本のところで愛情があれば、子どもは親の気持ちに敏感だし、結構たくましいので、許してくれます」
子どもの思いに三割くらい共感することができればいいのじゃないでしょうか、というのが棚瀬さんの見当だ。

 子どもに対する「認知のゆがみが生じる」母親は、「共感力がうまく育っていないことが多」く、その点を克服するためには、子どもの思いに三割くらい共感することができればいい、すなわち、「うまい共感の仕方」とは、子ども(相手)の思いに三割程度の共感ができることである。棚瀬氏の意見を要約すれば、こういうことになると思います。
 「三割共感する」とは、逆に言うと七割は「共感しない」、つまり無視することです。「話半分に聞く」と言うように、五割聞いて、五割は筒抜けでも、ダメで失礼な話の聞き方とされます。それを、三対七にせよと主張するわけで、これは結局、共感などしなくてもいい、ということなのです。
 これまで何度か申し上げてきたことですが、これは大きく見れば、民主主義の考え方そのものです。民主主義では、個々人、自分こそが絶対ですから、人の話に耳を傾けることも、気持ちに共感することも、不要とされます。さらに進めば、相手に共感することは、すなわち個が確立していない、主体性のない生き方であって、悪であるとすら考えられるわけです。
 古来、日本人は、「和」の精神とか、以心伝心とか、お互い様とか言いますように、相手に深く共感して、こころとこころをじかに響かせ合ってコミュニケーションをとって来ました。それは、何千年にも渡って続いてきた日本固有の精神文化だったのです。しかし、それが軍国主義の温床になったと考えられて、太平洋戦争の敗戦をきっかけに、徹底的に放棄されました。日本人は、こころとこころのつながりを喪失し、なおかつ社会を保っていく規範意識も持てませんでした。ちなみに、民主主義の本家である欧米社会には、民主主義思想の上にキリスト教の絶対的な教えがあります。
 しかし、戦後日本の民主主義社会の場合には、自分自身の利益(損得)と選好(好き嫌い)の追求だけが残りました。この生き方に、他者への共感が入り込む余地はありません。地域社会や職場の仲間、親戚や夫婦は言うに及ばず、血のつながった親子の間ですら、よそよそしく、冷たい関係が支配的になってしまったのです。真のコミュニケーションが失われ、民主主義の徹底が図られたことで日本人の自己肥大が進行し、自己肥大がますます民主主義を病的に加速させるという悪循環の中に、あらゆる場面が陥っていると思います。家族病理の深刻化や虐待の急増などが、その顕著な現れになっているのです。
 棚瀬氏の意見は、この風潮をあらためるどころか、さらに悪い方向へと推し進めかねないもののように思えます。そもそも、他者への共感に、三割も四割もないのです。人間は、他の動物にはない特質として、生まれながらに他己を宿しています。それは、無意識のレベルにおいては如来蔵識(集合的無意識)であり、意識レベルの基礎としては感情機能(人の心を感じるこころ)なのです。
 これら、他己の根幹部分をなすものは、生まれた時にはほとんど完成している、まさに人間の人間たるゆえんであると言えます。別の言い方をすると、赤ちゃんは、誰でもが、他者に対する100%の共感を備えて生まれて来るのです。ところが、その輝きは、成長につれて必然的に起こる自己の肥大によって覆い隠されてしまいます。それが、仏教的に言うならば、人間の負った悲しい宿業、業であるわけです。
 今日、多くの人に求められているのは、この業の深さに気づき、そこから抜ける努力を始めて、人の心を感じるこころ、すなわち共感の働きを回復させることです。この、人間性のいちばん大切な部分を、単なる子育てのテクニックと捉えて、「三割程度使えればよいのだ」などとうそぶくのは、あまりにも人間への洞察を欠いた、傲岸不遜な態度と言わねばなりません。このような論調が、何の反省もないままに堂々とまかり通ること自体が、現代の子育てをますます窮地に追いやるものになっているのです。
 繰り返しになりますが、三割の共感などというものはなく、そこにはゼロか十しかありません。いまでは、ほとんどの人が自己を肥大させ、子どもを含めた他者への共感がゼロになってしまっています。このままでは虐待が減ることなど期待できないと思いますし、近い将来、日本社会が崩壊状態に陥ることも避けがたいように感じられます。
 共感、人の心を感じるこころ、すなわち他己の回復は、アタマで考えて出来ることではありません。棚瀬氏は「認知のゆがみ」という言葉を用いており、これは近年、精神医学や心理学の分野ではやっている考え方でもありますが、もし「認知がゆがんでいるからそれを治そう」と「あたま」で考えて、本当にその通りになれるのだとしたら、この世で精神的な苦悩に見舞われる人など、一人もいなくなるはずです。下世話な比喩にすれば、「わーかっちゃいるけどやめられない」のが、人間なのです。
 他己の回復のためには、「あたま」と「からだ」と「こころ」を使った修行がいるのであり、それを支える信仰が、欠かせないのです。



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