ひびきのさと便り



No.8 日本の知的財産 ('01.12.19.)

 12月14日の読売新聞「論点」欄に、荒井寿光氏(元特許庁長官・現日本貿易保険理事長)による、「知的財産に強い国作り」という投稿記事が載りました。
 荒井氏は、ITを中心とした急速な技術革新によって、国際的にモノ作りの現場が均一化されてきているために、日本のような先進国は人件費の安い後発国にとてもかなわないと、危機的な状況を指摘しています。そして、企業家や識者が集まって「知的財産国家戦略フォーラム」が結成され、近くなされる予定の提言に先立って、「世界一の知財立国を作ろう」とのタイトルで中間報告がまとめられたことを紹介しています。以下、本文から直接引用します。

 製造業分野での高い労働コストなどを考えれば、日本経済の国際競争力を回復する唯一の手段は、より付加価値の高いモノを創造する以外にあり得ない。その基本的な視点にたって、三つの柱を考えた。
 第一が、創意工夫を目指すために、パイオニアとなった個人が十分に報われる企業社会や研究社会の醸成である。・・・これからは、研究者への応分の報酬を考える必要がある。
 第二は、知的財産を重視するために、企業や大学などの研究機関がのびのびと知的財産の創造活動ができる仕組みを作ることだ。・・・不必要な規制を撤廃することが大切だと思う。
 第三は、知的財産国家への転換を国民に浸透させることだ。知的財産の創造が、日本経済のエンジンであるとの認識を、国民に理解させるための工夫と、幅広い活動が急務と考える。

 
 荒井氏以外にも多くの人が実感していることですが、日本の製造業はもはや瀕死の状態です。「世界の工場」と呼ばれるようになった中国の生産コストは、これも周知のように、日本の20分の1とも言われています。
 こういう情勢に対抗するために、荒井氏は日本の生き残り策として、高付加価値のモノ作りしかないと主張します。しかし、そこにもいくつかの大きな問題があります。過去、確かに日本は、世界でも抜群の科学技術を誇り、他国に真似の出来ない高品質の製品を生み続けてきました。しかしいまや、その地位はほとんど崩壊しています。荒井氏も指摘しているように、技術革新の核はITですが、コンピューターソフト開発の知識や技術では、日本はインドにはるかに及びません。インドは国家事業として優秀なエンジニアの育成に力を注ぎ、成果を上げています。また、お隣の韓国も、高速インターネット通信の充実度では、日本の比ではありません。もっとも重要なIT分野で、日本はアジアですらすでに三番手、四番手です。欧米や、他の富裕国との差も、おのずと明らかです。
 また、技術革新はかなり成熟し、付加価値をつけようにも、爆発的な需要を生み出すような新技術は生まれにくくなっています。さらに、おもに先進国での話ですが、そこではもはや「モノ」があふれかえっています。もし、いま、世界中のすべてのメーカーが製造をいっせいにストップしても、おそらく在庫だけで何十年もやっていけるのではないでしょうか。新しいモノを作り出す必然性が、どんどん薄れつつあります。必要だから作ると言うより、メーカーが存続していくために操業を止められないという面の方が大きいように思われます。
 このように言いましても、ではただちにあらゆる製造業はストップするべきだという乱暴なことを主張したいのではありません。いまのような大量生産・大量消費が長く続くわけはないとも思いますが、これらのことはまた別の機会に考えてみたいと思います。

 考察の視点を荒井氏の意見に戻します。日本ほど知的な産出に無関心な国は、先進国にも例を見ないと言えます。ノーベル賞の日本人受賞者を見ますと、化学や物理、生理などの分野で、その研究成果が「純国産」であった人は、ほとんど見当たりません。このあいだ化学賞を受けた白川英樹氏は、受賞前の国内評価がさほどでもなかったとのことで、筑波大学退官後には海外への頭脳流出直前でした。ノーベル賞決定のニュースに驚いた国内の学界が、あわてて引き留めにかかったというのが実態のようです。岩手県立大学長の西沢潤一氏も、国内の学会では何の反応もなかった研究結果を、国際学会で発表すると、IBMやゼロックスなどの超一流企業がすぐにすっ飛んできて「ぜひ我が社と契約を」と言われ、それを見た日本人がまたまたびっくり仰天、そんなことが何度繰り返されたかと嘆いていました。ほかに最近話題になったのは、世界に先駆けて「青色発光ダイオード」を開発した中村修二氏の、アメリカの大学教授への転身などがあります。
 こうした日本の状況については、かなり昔から議論や批判が繰り返されてきました。しかし一向に改まる気配はありません。なぜそうなのでしょうか。

 アメリカでは、「アメリカン・ドリーム」と言われるように、チャンスをものにした人が、社会的にも経済的にも破格の評価を受けることがめずらしくありません。これは、ある面では、自由と平等を標榜する民主主義が機能しているからだと言えます。しかし、それだけではなく、民主主義以上に大切なのは、アメリカ人の多くが、いまでもキリスト教を熱心に信仰していることだと思います。聖書の教えによって、人々の間に「お布施」の心が浸透しています。裕福な人が、お布施の心を持っているのです。そのため、無名でもやる気や実力がある人に対しては投資がさかんにおこなわれ、その結果ベンチャー企業がどんどん育ちます。これはビジネスだけでなく、芸術の世界でも同じです。才能ある新人が、いきなりニューヨークで個展を開けたり、カーネギーホールのステージに立てたりすることが起こるのです。
 そして、問題はお金のことだけではありません。キリスト教が信じられていることで、多くの人が神の前では謙虚になります。みずからの傲慢さを戒めます。そうすると、人の考えには素直に心を開いて耳を傾けるという姿勢が生まれます。だから、「いいものはいい」ということが、ごく自然に認められると思うのです。「業績が高くてもアイツのことは気に入らないから認めない」というようなことが起きにくくなっています。
 以上のようなことが関係しあって、アメリカでは知的産出に対する評価が非常に高く、それによって繁栄が続いていると考えられます。

 一方、この日本ではどうでしょうか。研究や「こころのとも」を通じて、私がここ数年主張し続けてきているように、日本では戦後になって、それまで日本人を支えてきた思想と宗教をすべて失い、唯一の思想らしきものとして民主主義だけを信奉してきました。民主主義は、自己の肥大と、その必然の結果としての他己の萎縮を、きわめて強力に進めます。自己の利益が極大化し、選好に合うことだけが、合理的行動として尊重されます。ですから、そこでは当然、お布施の心などまったくなくなってしまいます。お布施をすることが、人間としての務めだなどと考える日本人は、ほとんど皆無に等しいのです。ですから、知的な生産にお金を出す人がいません。金もうけに直結しそうなアイデアなら、多少は心を動かす人がいるかも知れませんが、哲学や思想など、人文科学の成果に価値を認める人など、それこそ皆無です。
 そして、民主主義は、「おのれこそが主」という考え方です。それはつまり、人の話になど耳を貸すな、自分こそが一番だと思えということなのです。欧米にはキリスト教があって、そういう傲慢さに対して軌道修正がされますが、日本には何もありません。日本の場合、どこまで行っても一人ひとりが偉いのです。すばらしい考えでも、気に入らなかったら無視するのが、日本ではむしろ当然です。
 また、日本には、そういう民主主義思想が広まった結果、昔からずっと続いてきた情緒的なつながりが放棄されました。それはたとえば、「和」とか「以心伝心」とか「お互いさま」とかの、こころとこころのつながりです。そして、個人個人がバラバラになってしまったのですが、その反面、「ねたみ」や「ひがみ」といった、非常にマイナス的な面は、強く残されました。民主主義によって社会的・精神的規範が著しく低下し、日本人が昔から持ち続けてきた負のこころばかりが目立つようになったのです。
 そして、産業界でも学問の世界でも、教育の世界でも、地域社会でも、とにかく、ちょっとでもできる人や、他人と違うことをする人に対しては、徹底的に足を引っぱって邪魔をするという風潮が当たり前になりました。このことが、どれほど独創的な仕事を阻んでいることでしょうか。
 このような現代日本人の意識が根底から改革されない限り、いくら提言がなされ、法が整備されても、日本において知的財産が本当に尊重されるようになることは、ほとんど期待できないと思います。結局のところ、私が常々言っているような、他己(=他者性)回復の大切さに尽きると思うのです。



                NO.7へ       戻る       NO.9へ