ひびきのさと便り



No.7 自然との調和 ('01.12.13.)

 12月6日の読売新聞に、「三菱化学生命科学研究所 創立30周年記念シンポジウム」の模様が大きく報じられていました。この「三菱化学生命科学研究所」は、国内で初めての、生命科学を対象にした民間の研究機関だそうです。シンポジウムのコーディネーターは、同研究所科学技術文明研究部長の米本昌平氏、パネリストとして哲学者の梅原猛氏、JT生命誌研究館副館長の中村桂子氏、東大教育学部助教授(科学哲学)の金森修氏が参加されました。
 パネルディスカッションのテーマは「生命科学の世紀と生命観・価値・民主主義」、紙面の大見出しは「自然との調和を求めて」、パネリストの顔写真に添えられた各見出しは次のようになっていました。

 梅原猛氏   多神教的な哲学必要
 中村桂子氏  「生命語る」視点が大事
 金森修氏   「人間設計の段階」自覚を


 
見出しだけから発言の内容を想像する際、それがいちばん容易なのはおそらく梅原氏のものだろうと思います。「効率優先の社会の影響」というセクションで、梅原氏は次のように述べています。

 小麦栽培と牧畜の結果、自然が荒廃してできた「砂漠」で、人間が真剣に思索した末に生まれたのが一神論だった。対照的に多神論は、まだ農業や牧畜が出現していない「森」の中から出てきた。キリスト教やユダヤ教のような一神論は、世界を一元的な価値によって説明するが、二つの点で問題がある。
 まず、一神論は人間以外の生物に対して厳しく、人間の自然破壊や支配を認める。もう一つは、神によって選ばれた民を大事にし、その価値に背いた者は排除してかまわないとする。
 現代文明の主流は一神論に基づいたものだが、今世紀に入り、こうした文明に大きな疑問符が突きつけられている。生命が満ちたアニミズム的世界、自然界の森羅万象に霊的存在を認め信仰する世界観にもう一回立ち返るべきではないか。その意味で二十一世紀を「生命の世紀」と呼びたい。

 梅原氏の発言は、すべてが誤りではないにせよ、根本的な部分で問題を含んでいると考えられます。ここで述べられている考えを短くまとめるならば、「現代文明と、それを支えるユダヤ・キリスト教=欧米的一神教思想を捨てて、原始的なアニミズム世界に還ろう」というものになるでしょう。少々単純すぎるかも知れませんが、外れてはいないと思います。
 まず、実際問題として、現代的な文明生活を放棄し、原始的な生活に戻ることが本当に可能なのかということがあります。梅原氏が本当に言行を一致させるのであれば、立派なホールのステージにスーツを着こんで立ち、マイクを通して多くの聴衆に語りかけるということを真っ先にやめなければなりません。そして自分の発言がきれいな活字になり、何千万人という読者の目に触れるということも、期待できなくなります。氏が脚本を書く、スーパー歌舞伎も狂言も、上演は不可能です。この時点ですでに、梅原氏の本意ではないと思いますが、氏の思想も発言も、単に言ってみるだけの「お話」に終わる可能性が、かなり高いように思われるのです。
 現代文明がきわめて大きな危機に直面しているのは事実です。これを克服しない限り、早晩、人類は滅亡を迎えざるを得ないとも思います。そしてそれは、「これはダメらしいから、こっちに乗り換えよう」というような、単純で、相対的な発想では、とうてい解決不能な事態です。別のたとえにすれば、かつての共産主義や、タリバンに代表される狂信的原理主義と、アメリカをリーダーとする民主主義、これらを比較してみたときにも、確かに民主主義の方が、少しくらいはまともな点があるかも知れません。しかしそこにあるのは程度の差だけで、民主主義に依っていれば人類は安泰かというと、決してそんなことはないのです。絶対的で、普遍的な原理にのっとらない限り、滅亡へのスピードは加速度的に増して行きます。
 問題のふたつめは、梅原氏が礼讃するようなアニミズムが、絶対的な、人類普遍の思想と言えるのかどうかということです。説明は不要かとも思いますが、「アニミズム」という言葉は、「広辞苑」によりますと次のようになっています。

 アニミズム【animism】
  宗教の原初的な超自然観の一。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。


 物理的な諸法則が確立し、膨大な科学的知識が蓄積されてきている現代において、アニミズムに還ることなど、そんなに簡単でしょうか。梅原氏の意見に共鳴し、「そうやなあ、ワシも今日からは、木にも草にも風にも、水にも石にも霊が宿っとると信じて、拝まんとイカンわ」と思って、本当にその通りできる人が、果たしてどれほどいるのでしょうか。私には、決してその数が多いと思えません。はっきり言って、限りなくゼロに近いと思います。 
 古代は、自然のすべてが、人間にとっては脅威でした。なぜ台風が来るのか、地震が起きるのか、火山が噴火するのか、日照りが続くのか、疫病がはやるのか、何一つ原因はわかりませんでした。自然現象の始まりも終わりも、予測できませんでした。人間のおよばない、大いなる自然の力があって、そこにはなにがしか、超越的存在の意志が働いているとしか、思えなかったのです。人間にできるのは、その力や、意志のようなものに従順になって生きることだけでした。そういう思想は、必然的に、アニミズム以外ではあり得ませんでした。
 現代は、古代と違い、自然界の科学的な構成や、物理現象は、ほとんどが解明されています。その中でアニミズムを復活させようと思っても、一時的に「その気」になることはできるかも知れませんが、すぐに限界がやってきてしまいます。また、アニミズムの根源は、自然に対する単純素朴な畏怖心です。その謙虚さに、人間としての善き姿はあるにしても、人間の精神に関する、普遍的な原理にはなり得ません。
 自然現象に霊の存在や、別の言い方をすれば神や仏が宿っていることを感じるなど、そうしようと思ってできることではないのです。古代は、無理にそう思わなくても、他に考えようがなかったので、当たり前のこととしてだれもがそう信じていました。同じことは、決して現代に通用しません。
 それでは、アニミズムがまったく取るに足らない、野蛮で低級な思想なのかと言いますと、そう斬って捨てればいいというものでもないのです。実は、宗教的な修行が極まり、私の言う精神の自己と他己が統合されて、仏教で言えば解脱、キリスト教で言えば神の国の実現、老子の哲学では「道(タオ)」が成った無為自然の境地、ソクラテスの哲学では「無知の知」の自覚に至ると、自分がただ存在しているだけで、「生かされて生きている」ことの無上の喜びが、あふれるように湧きだしてきます。すると、この世のあらゆるもの、生きているものにも、生命を持たないものにさえも、仏性や、神の存在を実感できるようになるのです。ひっそりと咲く、名も知らないような草花を見ても、道ばたに落ちている小石を見ても、「ああ、ここに仏がいらっしゃる」と、勝手に思えてきます。思おうとして、努力して、そんな気になるのではありません。自然と、そのように思えてくるのです。そして、そこに、限りない愛情を感じます。私と、たとえば草花とが、無差別平等で、一体となっていると、実感できるのです。
 これは、アニミズムと言えばアニミズムだろうと思います。ですから、アニミズムとは「結果」であるわけです。理性やアタマで、思おうと思って思えるものではないし、信じようと思って信じられるものではありません。吹いてくる風に意志があると、いくら思い込みたくても、たいていの人は途中でイヤになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、自らの心を磨く精進をひたすら重ねた先に、絶対的な幸福の境地があり、そこに至れば、あらゆるものへの感謝がおのずと満ちてきて、あらゆる存在に愛情を感じられるということです。
 そうなれるためには、釈尊・キリスト・老子・ソクラテスといった、四聖の教えをひたすら信じた、修行が必要なのです。たとえそうした心境に至ることがなくても、修行を続けているときには、限りなくそこに近づいていると言えます。新聞を読んで知識を増やすようなこととは、まったく違っているのです。
                             



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