ひびきのさと便り



No.36 迷走する司法A −和歌山毒物カレー事件一審判決− (2003.2.27.)

 前回は、2000年に新潟で発覚した女性監禁事件に対し、昨年末に言い渡された控訴審判決について検討しました。それは、一審の懲役14年という判決を違法があるとして破棄し、3年減刑の懲役11年としたものでした。このような「条文金科玉条主義」のもとには、戦後の日本が、人間の根源的なあり方に基づいた原理原則(axiom、アクシオム)を失ってきたこと、そのアクシオムのなさは、司法制度以外にも、政治、経済、教育など、社会のあらゆる場面に共通しており、そのことが日本の、ひいては世界全体の危機を招いていることなどを、考察しました。
 この、監禁事件の控訴審判決と1日しか違わない2002年12月11日、日本中が注目した和歌山県の毒物カレー事件の判決公判が、和歌山地裁で開かれました。
 翌12月12日付の産経新聞は、裁判所が下した判決の概要を、次のように報じています(以下引用する各新聞記事は、すべて12月12付です)。

 「・・・(林)真須美被告は(カレーの鍋を)1人で見張りをしていた時間帯にヒ素を混入することが十分に可能だった」として、検察側が状況証拠を積み重ねて「被告以外にヒ素を入れられる人間はいなかった」とする消去法的立証に沿った判断を示した。
 これらを総合し、「被告がカレー鍋にヒ素を混入したということがきわめて高い蓋然性をもって推認できる」と述べた。
 一方で、動機については、検察側が主張していた「住民に対する激高」は退け、「動機は解明できなかった」と言明。
 殺意に関しても・・・未必的な殺意だったと判断したが、「犯人性に影響を与えるものではない」とした。
 このうえで、「4人もの命が奪われた結果はあまりにも重大で、遺族の悲痛なまでの叫びを胸に刻むべき」と断罪。「極刑はやむを得ない」として死刑を言い渡した。
(下線は中塚、以下の引用でも同じ)

 いちおう「蓋然性」という言葉を『広辞苑』で確認しておきますと、「ある事が実際に起こるか否かの確実さの度合」とあります。
 さらに事実を正確に見るため、毎日新聞に掲載された判決要旨から、重要と思われるところを引用させていただきます。

 ・・・夏祭り会場には、東カレー鍋、西カレー鍋など3つのカレー鍋があり、各鍋から採取されたいずれのカレーからもヒ素が検出されている。・・・被害者67人に提供されたカレーはすべて東鍋カレーと認めることができる。・・・
 ・・・多くの間接事実を総合すると、被告は、東カレー鍋の中に亜ヒ酸を混入したものであるということが極めて高い蓋然性をもって推認することができる。動機については解明することができなかったが、現実的に犯行が可能なのは被告以外に考えられないという客観的な蓋然性の高さや、それ以外の被告の犯人性を強める諸事情を考えれば、動機が不明確である等の事情は極めて高い蓋然性で推認される被告の犯人性の判断に影響を与えるものではないと解される
 以上の検討から、被告はガレージで1人で鍋の見張り当番をしていた午後0時20分ころから午後1時ころまでの間に、被告の関係先にあった5点の亜ヒ酸粉末もしくはプラスチック製小物入れに入っていた亜ヒ酸のいずれかの亜ヒ酸を青色紙コップに入れてガレージに持ち込んだうえ、東カレー鍋に混入したという事実が合理的な疑いを入れる余地がないほど高度の蓋然性をもって認められる。・・・
 被告は生保に勤務していたころ、・・・ヒ素が少量でも人を死亡させうる危険な毒物であるとの認識を前提とした言動をしている。
 被告が殺意をもって犯行に及んだことは明らかとなったが、その殺意が、結果の発生を確定的に認識、認容していたものなのか、それとも「死亡する人がでるかもしれないが、それならそれで構わない」という意味で未必的な殺意にとどまるかは検討の必要がある。


 簡単にまとめますと、「被告がヒ素を入れたという自白や物的な証拠などはなく、動機も不明なままで、直接に犯行を立証できないが、間接的な事実を総合すると、被告以外にヒ素を入れた人間がいたとは考えらず、犯人は被告であると認めて、死刑に処する」ということになります。

 産経新聞は、「堅固な『状況証拠』評価」という見出しの、判決に関する次のような解説を掲載しています。

 状況証拠の積み重ねからどこまで事実認定できるかが注目されたが、司法は状況証拠の「質」を問う厳格な証拠評価に基づいて有罪を認定した。
 ・・・判決は冒頭、「疑わしきをまず強調するような論の組み立て方は適当でない」と、その
(=検察側の)手法を批判。・・・
 一方で、被告の「異常人格」という類推に基づいた動機面の「激高説」を認定しなかった。検察側の主張を大筋で認めたものの、不確かな検察側の主張は退けた。これは、検察側の立証構造の崩壊を示したというより、逆に、そうした判断を経てもなお揺るがなかったカレー事件立証の堅固さを示したものといえるだろう。
 ・・・科学鑑定など有罪認定の根拠とされた主要部分は、あらゆる可能性を求めた捜査側の努力の結果だったといえ、自白がない事件の捜査に新たな手法を開拓したともいえる。


 さらに産経新聞社会面には、神戸学院大学教授で刑事訴訟法が専門の、渡辺修氏による、次のようなコメントがあります。

 極刑を選択した判決の理由は説得力がある。決め手は、捜査段階の科学鑑定だ。被告宅で発見された亜ヒ酸などとカレー鍋の亜ヒ酸が科学的に一致することを示す証拠は、犯行と被告を結びつける直接証拠にあたる。犯行自体は、亜ヒ酸をカレーに投与する単純なものだから、凶器と被告の結びつきが立証できれば、有罪の骨格はできあがる。・・・
 この事件の特徴は「自白なき裁判」だ。・・・証拠を破壊せず鑑定を実現した検察の姿勢が裁判段階の再鑑定を可能にし、それが有罪判決の柱を作った。取り調べで自白の強要を生まなかった捜査側の慎重さと、連日の接見で監視を怠らなかった弁護側の姿勢も注目すべきだ。


 渡辺氏は、朝日新聞にも「未必の故意で死刑、珍しい」という見出しのコメントを寄せていますので、引用させていただきます。

 黙秘を続けて確定的な動機を得られない被告を裁く場合、判決は殺意が未必の故意であっても、生じた犯罪の重みが重大であれば、極刑を選択できることを示した。極めて珍しく、画期的だ。
 被告の有罪を認定する主要な柱は、カレーに混入された亜ヒ酸と被告宅で発見された亜ヒ酸の同一性だった。直接証拠に匹敵する重みのある事実を科学鑑定などから認定したものだ。
 そして、@・・・被告が・・・すでに亜ヒ酸を使って保険金目的の殺人未遂を行っていたA犯行があった時間帯に、カレーの調理場に1人でいたB犯行後・・・隠蔽工作を行ったことを証拠で認めこの3点の状況証拠で補強した。すき間のない事実認定は市民も納得するだろう。・・・
 法律に詳しくない市民が刑事裁判に参加する裁判員制度の導入が提言されている。将来の状況証拠に基づく刑事裁判の姿として注目できる判決であろう。


 朝日新聞はさらに、帝京大学教授(刑事訴訟法)の土本武司氏と、作家の高村薫氏のコメントも掲載しています。土本氏は、次のように述べています。

 自白がなく、核心的な供述などの直接証拠もない未曾有(みぞう)の難件に対し、状況証拠だけで有罪認定した意義は大きい。・・・わが国も「自白天国」から「否認原則国」に変貌(へんぼう)しつつある今日、本判決は状況証拠の1つの基準を示したことになるだろう。
 未必の故意による死刑判決には問題が残るが、事案の重大性にかんがみて、結論として、極刑は相当である。


 また、高村氏は次のように述べます。

 ・・・死刑判決が出たことで、人1人が死ぬことになる。そうした重大な判決が下された。
 林被告は完全黙秘を続け、わかりづらい裁判となった。黙秘権は憲法で認められた被告の権利であり、当然、守られなければならない。だが、そのことで被害者や遺族の知る権利が制限される難しさも改めて痛感した。
 この国に暮らし、この国の法律に従うことの重みを改めて思い知らされた。

 産経新聞は、社説で、次のように判決を強く支持しています。

 被告は捜査段階から黙秘を続け、供述なし、目撃者なし、これといった直接証拠もなしという困難のなか、緻密(ちみつ)に状況証拠を積み重ねることによって真須美被告の犯行を浮かび上がらせた県警・検察の立証を評価したい。
 ・・・ヒ素の混入を目撃した人はおらず、逮捕された真須美被告が黙秘を貫いたことから、立証は状況証拠の積み重ねしかなかった。いわば消去法で、「犯人は真須美被告以外にありえない」としたのである。


 読売新聞社説も、冒頭で、「犯罪史上まれな凶悪・無差別殺人である。当然の判決と言っていい」と断言しています。
 朝日新聞社説では、このような賛意がやや弱くなり、「事件の重大さに照らせば、死刑制度を前提とする限り、死刑以外の余地はなかっただろう。それでも、動機が不明なことにもどかしさを感じる人は少なくあるまい」と述べられています。
 毎日新聞社説になりますと、判決に対する疑問がさらに強くなって、「『具体的な動機は分からず、殺意も未必的なものにとどまる』と、重大な未解明部分を残す異例の判決だった。検察の立証の弱さを示した判決と言える。・・・事件の全容は解明されず、動機が不明のままの死刑判決という分かりにくさを残してしまった」としています。

 さて、いろいろと引用させていただいて分かりますように、カレー鍋にヒ素を「入れた」のが被告なのかどうかは、ついに不明なままです。被告の自宅にあったヒ素と、カレーから検出されたヒ素が同一だったことが科学的に証明されたにしても、そのことと、「被告が鍋にヒ素を入れた」ことは、完璧にはつながりません。目撃証言などを総合して、「入れたのは被告以外にあり得ない」とされたのですが、その可能性は100%ではありません。0.00…1%しかあり得ないとしても、他の人間が入れた別の可能性を、完全に排除はできないのです。
 ちなみに、ヒ素の混入については、毎日新聞の整理によりますと、次のようなことが争点になっていました。

 (検察側の主張)犯行時間帯は正午〜午後1時。その間に調理場で1人になった主婦ら4人のうち、自宅から亜ヒ酸を青色紙コップで持ち込み鍋に混入出来たのは被告のみで、0時20分ころからの40分間の間。
 
(弁護側の主張)検察指摘の時間帯は、被告は次女と一緒にガレージで見張りをしており1人になることはなく、混入の機会はない。見張り体制はあいまいで、午後1時以降に混入された可能性は皆無ではない
 
(判決)被告には、午後0時20分〜午後1時、1人で鍋の見張りをしていた時間帯があり、亜ヒ酸を混入することは十分可能だった。それ以外の時間帯に被告以外の者が混入した可能性はほとんどない

 また、動機が不明なままで、被告本人が鍋にヒ素を入れる目的を、合理的に説明することも不可能です。「なぜ被告は犯行に及んだのか」と問うた場合、理由は分からずじまいなのです。「そんなことをして、被告に何の得があるのか」と聞けば、何の得もありはしなかった、あるいは、得だったかどうかは分からない、と答えざるをえません。
 つまり、被告が真犯人かどうかは、どこまでいっても「疑わしい」のです。判決要旨にある言葉にすれば、「極めて高い蓋然性をもって推認することができる」ということになります。クロともシロともつけることができず、あくまでも灰色です。どんなに濃くて、限りなくクロに近いとしても、灰色はあくまでも灰色なのです。それを「クロだ」と言うことはできませんし、してはならないはずです。
 それが、裁判の原則中の原則である、「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」ということなのです。これが、法律の条文の根底にある、裁判におけるアクシオムだと言えます。

 今回の死刑判決では、この、裁判制度を支える重要なアクシオムが無視されてしまいました。先ほど、産経新聞に掲載されました、神戸学院大学教授の渡辺氏のコメントを引用させていただきましたが、氏は最後に次のように述べています。

 自白がなくとも国民の納得する有罪判決を示した裁判所の姿勢は、状況証拠に基づく事実認定のモデルとして歴史に名を残すだろう。

 また、すでにご紹介しましたように、朝日新聞でも同様のことに触れられています。
 渡辺氏の言うように、被告人に死刑判決が下ったことで「納得する」国民は、「納得しない」国民よりは、おそらく多いだろうと思います。これらの発言は、将来に向けて導入が検討されている、市民参加の裁判員制度を念頭においたもののようです。その制度が実現されれば、そこでは確かに、法律に詳しくない、もっと言えばまったく素人でも、納得がいき、有罪か無罪かを判断できる審理の過程が要求されます。
 しかし、裁判というものが、多数派の納得をえられることを一番の目的としてなされていいのかどうか、ということは、きわめて重要な問題です。
 裁判とは、あくまでも真実を明らかにし、真実に基づいて判決を下すべき制度であって、真実が明らかにできなければ、たとえ納得できない人がどれほど多かろうと、真実の裏付けがない判断や決定はできませんし、してはならないものだと思います。この点において、状況証拠に基づく事実認定は、非常な危うさを含んでいます。その危うさに対して、法律の素人が取り組むといいますのは、極端なたとえをすれば爆発物の原理も構造も知らない人が、寄り集まって相談しながら、爆弾の解体処理に挑むようなものと言えます。
 教養豊かな人々が、民主主義の考えと手続きにのっとって、理性的に議論すれば、誤りを避けて真実に到達できると信じられることは多いのですが、残念ながら現実はそうなりません。
 日本のように、アクシオムが失われてしまった社会の中では、犯人を有罪と見なすのか、無罪と見なすのか、その基準が自分自身にしかありません。そして、証拠として採用できるのが状況証拠しかない場合、判断が、好き嫌いや、怒り、哀しみなどの情動によって左右される危険性が大となります。
 自己・他己双対理論の「人間精神の心理学モデル」に照らしますと、人間は、認知−言語(あたま)と自我−人格(たましい)によって、いくら理性的に考えよう、あるいは考えなければならないと努力しても、その基礎にある情動−感情(こころ)は、勝手に動き回るのです。許すことのできない、憎い相手が目の前にいれば、あたまやたましいの働きより、こころの動きの方がまさってしまいます。また、自分や自分の身内などが、直接に被害を受けたのではなくても、他人からの情動が「伝染」してきます。こうした、自分のこころの動きを抑えて、あるいはそれを切り離して、客観的で中立な判断をくだすのは、ふつうの人にとってほとんど不可能に近いことです。

 今回は、裁判の素人ではなく、国家資格を背負った司法のプロが、「疑わしきを罰する」
判決を下しています。その判決に至る審理の過程や、状況証拠の扱い方などのいちいちについてを、問題にしたいのではありません。あくまでも、裁判におけるアクシオムがどうであったか、それがどう考えられたのか、を問いたいと思うのです。
 結果的に、日本の裁判は、一方で条文金科玉条主義でありながら、もう一方では、「疑わしきは罰せず」という、とても重要なアクシオムをないがしろにしてしまうものである、と言わざるを得ません。
 この判決は、いまの日本から、「倫理」というものが失われてしまったことを、非常にはっきりと現すものだと思われます。本来、倫理という基礎の上に、法律は成り立つものです。倫理を具現化するのが、法律の条文である、という言い方もできると思います。「倫理は一番、法律二番」なのです。しかし、日本ではそれが逆になっています。「法律一番、倫理は二番」です。
 条文に書いていないことは絶対にできないし、してはいけない、という考えが、完全に裁判を支配しています。そして、その裏返しとして、書いてありさえすれば、その限りで何をしてもいいのです。刑法第199条に、「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す」と書いてあって、どんな方法でもそこに結びつくような道筋をつければ(道筋がついたように見えれば)、ほとんど問答無用でそれを適用できる、というわけです。ですから、カレー事件の判決も、条文金科玉条主義のバリエーションとして捉えることが可能です。
 神戸学院大学の渡辺氏は、もちろんいい意味で、この裁判が「歴史に名を残すだろう」と述べていますが、本当にそうなのでしょうか。むしろ、「疑わしきは罰せず」という、これまでの裁判の慣例を根底からひっくり返した、ある意味おそろしい判例として「歴史に名を残す」のではないかと心配になります。

 カレー事件に関しては、もうひとつ考えておかなければならない問題があります。それは、被告人が捜査段階から公判に至るまで、完全に近い黙秘を貫いたことに対する、各新聞の反応です。
 まず、産経新聞社説は、次のように述べます。

 ・・・「公判で話す」と言っていた真須美被告が、法廷での証言を拒否し、弁護団も被告人質問を回避したのは解せない。弁護団は捜査段階でも「自白の強要を許さない」として連日、被告に接見し、「取り調べが中断される」と捜査員をいらだたせた。
 黙秘は法的に認められた被告の権利とはいえ、無実を主張するなら、なぜ自ら真相を語り、語らせないのか。弁護のあり方に問題を残した。
 日弁連の弁護士倫理規定には、被告人の利益と権利の擁護に加えて、「弁護士は、勝敗にとらわれて真実の発見をゆるがせにしてはならない」とある。弁護団は即日控訴したが、今度は黙秘ではなく、「真実の発見」に努力を傾注しなければならない


 続いて朝日新聞社説です。

 裁判所が動機を突き止められなかった原因は、被告が捜査と公判を通じて、ほぼ一貫して黙秘したことが大きい。この事件が特異なのは、夏祭りという平和なところでの無差別殺人というだけでなく、被告が「私はまったく関係しておりません」といったきり、口をつぐんだことである。
 黙秘は憲法で保障された権利であり、それ自体を非難することはできない。黙秘を選んだのは、それなりの考えがあってのことだろう。
 しかし、今回の裁判では、事件当日の行動について、被告が具体的な供述をしなかったため、検察側の立証に対する有効な反論をすることができず、検察の主張に沿った事実認定につながった面もある。結果として、黙秘では、無罪であるという説得力を持たなかったといえるだろう。・・・
 判決後、被告側はただちに控訴した。控訴審では黙秘という態度を変えることも考えられる。さらなる解明を期待したい。


 そして、毎日新聞社説は次のように述べます。

 被告の黙秘に対する非難も強かった。しかし、黙秘権は憲法で保障された権利で、供述を強制するわけにはいかない。判決も黙秘権について「自白以外の証拠から冷静に判断することを求める制度」との認識を示した。
 ・・・自白偏重の捜査が、冤罪(えんざい)を生む温床になってきたことにも留意しておきたい。
 黙秘を想定した捜査や立証手法の確立は、司法全体の問題として取り組まねばならない。初動捜査の強化であり、確実な証拠の積み重ねや、消去法で実行行為者を特定していく立証方法、先端技術での鑑定の習熟などである。判決が提言した供述に頼らぬ法制度の創設も検討していい課題だ。
 ・・・被告は死刑判決を受けた以上、口を開いて自らの意見を述べる時期に来たのではないか。


 3紙の立場や、主張の強さは少しずつ異なってはいますが、「被告は(これ以上)黙秘をするべきではない」と言っている(あるいは示唆している)点では共通しています。「黙秘はけしからん」とまでは、さすがに書きませんが、「黙秘をしたところで、どうせ罪はまぬがれないぞ」という、やや脅迫めいたような論調が感じられないこともありません。 黙秘権が、容疑者や被告人に認められた権利であることを、条文で確認しておきたいと思います。
 まず、憲法第38条は、次のように規定しています。

 第38条 @何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

 また、刑事訴訟法第311条には、次のようにあります。

 第311条 @被告人は、終始沈黙し、又は個々の質問に対し、供述を拒むことができる。

 さらに、刑事訴訟法第198条は、取り調べる側が、容疑者や被告人の黙秘権を保障しなければならないことを、次のように義務づけています。

 第198条 A・・・取調に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない。

 個人の権利や、言論の自由を守り抜くことを使命とするマスコミは、当然、黙秘権の意義や重大性を十分に認識しているはずですし、認識していなければなりません。今回の事件で、被告が黙秘を貫いたことを、積極的に称賛することはないと思いますが、非難する、あるいは非難に近い報道をする、というのは、マスコミのあり方としてはきわめて問題があります。被告人が、法的に認められた当然の権利を、正当に行使したという事実を、正しく認識し、あくまでも中立を保って報道する義務が、マスコミにはあるはずですが、社説で明らかになっていますように、個人の権利を侵しかねないような論調に傾いているのが実際なのです。
 「疑わしきは罰せず」と並んで、裁判を支える重要なアクシオムである黙秘権の行使についても、今回の事件と判決をめぐって、混乱が生じてしまいました。そのことをきちんと指摘すべきマスコミ自体が、情緒や気分に流されて、混乱を助長しているのが現状です。アクシオムなきマスコミが、アクシオムなき日本人に、よりいっそうアクシオムを見えにくくし、気付けなくしているのです。

 ただ、ここで、あらゆる人が、あらためて肝に命じておかなければならないと思いますのは、人間には、「うそをついてはならない」という、絶対的な規範が存在している、ということです。仏教で、誰でもが守らなければならないと説く「五戒」にも、「うそをついてはならない」といましめる「不妄語(ふもうご)戒」があるのです。
 自己に不利益な供述をしなくていい、という権利の規定が、実際には、黙秘権の行使だけでなく、「自己に不利益なことは言わなくてよい」→「自己の利益になるように(事実を曲げて)言ってもよい」と、うその供述を許容するかたちになっています。
 そして、官公庁、企業、学校、地域社会などなど、あらゆる場面で、老若男女を問わずに、うそが蔓延しています。また、「ばれなければうそをついてもいい」、否、むしろ、「目的を達成したり、利益を得たりするためには、ばれないように上手くうそをつくべきだ(そうでなければこの世でサバイバルしていけない)」と考える人の方が多くなっています。これは日本だけのことではなく、世界に広がっている傾向です。国と国との外交など、ほとんどうそつき同士のだまし合い、と言わねばならないところにまで、堕落しているように見受けられます。
 あらためて「どうしてうそをついてはいけないのか」と聞いたとしますと、「うそをつくのは悪いことだと言う人が多いから」とか、「もしばれたら損をしたり、非難されたりするから」という程度の答えしか、出てこないような状態です。これは、相対な者が、自分を守る手段として、相対な他者に関わっているに過ぎません。
 うそをついてはならない真の理由は、それが、人間としての絶対な条件だからです。それを欠いては、人間としての意味を失うから、そうしなければならないのです。
 その、絶対な条件とは、地球上の存在物としては、人間だけが、進化の過程で「人の心を感じるこころ」をもつようになったこと、自己・他己双対理論に即して言えば、「自己」から「他己」が分離して、精神が二重性を帯びるようになったことです。
 自分だけの欲や、都合や、利益だけに執らわれて、うそをついたり、他者や社会をあざむいて、ないがしろにしたりするのは、自分が人間であることをやめる、ということなのです。人間が人間らしく生きていくために、うそをついてはならないのです。

 このように言いましても、こうしたことを、単に知識として知っているだけでは、何にもなりません。「うそつきは善いか悪いか」と尋ねれば、幼稚園児でも「悪い」と答えられます。あたまでは知っているのです。しかし人間は難儀なことに、知っているだけでは、その通りに行動できません。むしろ、知っているだけに、ばれないよう、巧妙にうそを重ねて、自分を守ろうとします。
 正しい、と知ったことをそのまま行動できるためには、かねがね申し上げていますように、意識できる世界を超えた、無意識の世界に沈潜しようとする修行が必要です。道徳や、倫理は、意識できる、はからいの世界にあります。それらを、知っていたり、はからおうとしたりしても、すぐに限界に突き当たってしまいます。
 修行を通して、ソクラテスの説いた「無知の知」、老子の説いた「無為而無不為(為すことなくして為さざること無し)」の境地に達したとき、相対な者がもつ限界を超えることができます。また、誰でもが必ずそうした境地に至れる、とは言い切れませんが、そこに達した聖人の教えを信じ、ひたすらその教えに従って生きていこうと努力するときに、実は、絶対の境地に限りなく近いところにいる、と言えるのです。ですから、ひたすらな修行の、さらに根底には、信仰心が欠かせません。信じる心のない修行は、「これだけ信じて、これだけ修行してきたのだから、そろそろ絶対な心境を与えてくれ」、という、取引に成り下がってしまいます。

 以上のような、「うそをついてはならない」という、人間にとっての絶対な規範や、それを支える信仰心を欠いたままで、黙秘「権」や、自己に不利益な供述を強要されない「権利」だけを主張しますと、必然的に、取り調べや裁判では、うそをついて当たり前、うそをつかなければ損だ、ということになっていきます。そして、検察側の追求と、弁護側の主張や反論のどちらに、裁判官がより深く納得したか、で、判決が下されます。何が真実なのか、ということは、次第にないがしろにされていかざるを得ない、と言えます。
 実際に、日本の裁判では、被告人が前言をひるがえして、「あのときの供述はうそでした」と言ったり、何らかの方法でうその供述であったことがばれたりしても、そのために刑が重くなることはありません。先述した憲法第38条は、うその供述をすることを許すものではない、と、最高裁は判断していますが(植松正監修,口語六法全書 刑法,自由国民社,1991年,p346)、現実的には、うそが堂々とまかり通るのが裁判、ということになっているのです。
 ちなみに、アメリカでは、なされた供述がうそだったことが明らかになった場合、それも裁判における証拠となります。つまり、うその供述が量刑に影響するのです。
 また、「英国や米国では黙秘権の絶対的保障を疑問視する動きも出ており、1994年には英国で黙秘権を制限する規定が設けられ、実際に適用されている」(2001年5月31日付読売新聞「ミニ辞典」)とのことです。
 個人の権利の主張を超えたアクシオムがなく、さらにそれを根底から支える信仰を喪失した日本では、「うそをついてどこが悪い」「うそをつかなければ損じゃないか」ということにしかなりません。社会秩序を保つのが使命である裁判の現場ですら、そういう考え方が存在している(むしろ支配的な)のです。
 黙秘権は、あくまでも「うそをついてはならない」という絶対な規範の上に存在しているということを、忘れてはなりません。

 今回の、カレー事件における黙秘に対するマスコミの反応を見て、かつて高校野球で起こった出来事を連想しました。ご記憶の方も多いと思いますが、米大リーグのヤンキース入りで話題になった、元巨人の松井秀喜選手が、石川県代表校のメンバーとして甲子園に出場したとき、相手バッテリーから全打席を敬遠されたことがありました。このことは今でも語り草になっていて、松井選手の「非凡さ」をあらわすエピソードになっています。
 そのとき、敬遠策をとった相手校に対して、スタンドから物が投げ込まれるなど、腹立ち紛れのいやがらせがされました。そして、呆れましたのは、この一連の出来事に対して、そのとき高校野球連盟が発表した見解です。
 敬遠は、ルールに銘記された、れっきとした作戦です。この策を選択した側も、ただで相手チームにランナーを1人進呈するという、リスクを負うわけです。敬遠に腹を立てるなら、送りバント、盗塁、スクイズ、犠牲フライのあとのタッチアップ等々の、「セコい」戦術にも、同じように怒らなければなりません。そして、そんな「姑息」で「汚い」やり口はすべてルールから削除して、野球をもっと「正々堂々」としたゲームにすればいいのです。
 評判のスラッガーの打球が見られなかったから、と言って、あくまでもルールにのっとって試合をした相手校に物を投げつけるなど、それこそ卑劣極まる、許し難い行為です。
 高野連にとっては、スポーツとはルールが厳格に支配する世界なのだということを高校生たちに教育する、よい機会だったはずでした。ところがなんと、当の高野連までもが、「全打席の敬遠策は遺憾であった」という主旨のことを言ったのです。
 敬遠されたチームの監督や選手が、「彼には晴舞台で打たせてやりたかった」と、個人的な思いとして悔しがったり憤慨したりするのなら、まだ少しはわかります。しかし、試合を主催する高野連は、言わずもがなのことですが、すべての出場チームに対して、公正で、中立でなければなりません。あくまでもルールにのっとって、全試合を運営する義務があります。それなのに、「超高校生級の強打者」というふれこみに目がくらんで、言ってはならないことを言い、してはならないことをしたのです。
 こんなことがあっていいのだろうかと思います。高野連みずからが、野球のルールをないがしろにしているのです。情緒や気分に流された、一部の人たちの騒ぎに動揺(同調)して、本来の使命や責任を放棄してしまったのです。

 日本はいま、大勢の人が騒いだら、何でも通ってしまう国になっている、ということです。善いか悪いか、正しいか間違っているかは、どうでもいいのです。とにかくワアワア騒げば、「無理が通って道理が引っ込む」のです。
 ルールなど、あっても関係ありません。「敬遠なんて汚いことしやがって」と叫ぶ声がワアーッと盛り上がれば、たとえルールにのっとっていても、敬遠をしたチームが悪者になるのです。「みんなで責めればこわくない」わけです。
 スポーツはつまるところ、遊びであり、娯楽に過ぎませんから、だいぶ罪が少ない面があります。しかし、刑事裁判はそうはいきません。人の命がかかっています。
 「お前がやったくせに、黙秘なんて汚いことをしやがって」となったら、これはもうリンチです。裁判ではありません。この通りおおっぴらに言う人は、多数派かどうかは知りませんが、いるわけです。
 裁判所自体は、黙秘権の正当性を述べて、黙秘を非難する風潮をいさめています。マスコミは、本来の使命からすれば、当然、裁判所以上に同じことを強調し、世論が冷静さを保つように訴えるべきです。しかし、実態はそうではありません。マスコミが世論を煽(あお)っている、とまでは言いませんが、それに近いようなことを、残念ながら認めなければならないのです。

 日本や世界の情勢が、今後どうなっていくのか、完全に予測することはできません。しかし、現在の状態からは、よくなりそうな判断材料を見つけるのはかなり困難です。「いつ」「何が」起こっても、いっこうに不思議ではありません。それは、戦争かも知れませんし、革命かも知れませんし、環境の激変かも知れませんし、それにともなう食糧危機かも知れません。
 そしてまた、世界は、民主主義制度をよしとしています。そこでは、個々人の考えや判断が最優先であり、絶対です。それは、善悪、正邪、真偽にかかわらず、とにかく同じ考えをもつ人がもっとも多く集まったところが、最大の力を有するようになっている、ということです。多数派の言うことや、することが、アクシオムまがいのものになってしまうのです。
 相対な人間が寄り集まって作った、相対な取り決めは、いつでもひっくり返るおそれがあります。人々が信仰心をもっている国や社会であれば、アクシオムにのっとって、相対な取り決めがなされます。逆に言えば、相対な取り決めは、アクシオムによって統制され、また、支えられるのです。
 しかし、日本は、拠るべきアクシオムを喪失したという面において、世界の最先進国です。その場その場でみんなが話し合って決めた約束事が、ほぼ絶対的な力をもつ、という点では、日本ほど民主主義が「徹底」した国はないのです。
 その約束事が実際の状況に合わなくなったとき、それを改めようにも、どう改めたらいいのかという基準は、せいぜい、「できるだけ大勢の人が得をするように」とするくらいしかありません。また、民主主義の原理によって、当然、改正によって不利益を被った人にも、それをひっくり返す「権利」がありますから、世の中にはいつまでたっても平和や安定が訪れることはないのです。

 いま、人々に求められているのは、「自由」や「権利」や「欲望」や「利益」や「選好」等々、もろもろの自己への執着を離れ、相対な判断を超えた、絶対で、普遍的な原理を信じ、それが教えるところに従おうとする姿勢です。 
 個人の自由や権利を至上のものとし、利益と選好に基づいた合理的行動を良しとする民主主義制度が当たり前であると思い込んでいる現代の日本人は、それを支えるアクシオムなど、求めようとも思いません。そうしたアクシオムに従うことは、不自由で、不利益な生き方にしか思えず、もっとも忌み嫌うところとなっています。
 しかし、人間が現実の生活を送るうえで、「得した」と思ったり「損した」と思ったり、「自由だ」と感じたり「不自由だ」と感じたりすることは、個人の執らわれから離れて、客観的に、大きな目で見れば、どちらでもありうるのです。
 「得したなあ」と喜んだことが、実はたいへんな損であった、あるいはその逆だったということは、いくらでも起こります。すべてのことが、こうした、この世の中の相対なことがらに属しているのです。
 相対を超えた、絶対で、普遍的な原理は何かと言いますと、自己・他己双対理論の言葉では、「人間は、法を目指して、より善く社会的であろうとする存在である」ということです。このことが、時代や地域などの相対的な価値によって変わることはないのです。
 しかし、こうした言葉で表されるような原理を、知識や理屈として知っていても、意味はありません。知っていることと、その通りに行動できることとの間には、断絶があるのです。
 自分が相対者であることを自覚できる人間としては、精一杯、普遍的な原理にかなうように努力して行動することが大切です。できることは、それしかありません。実はその時にこそ、生きることが真に充実し、幸せを感じることができるようになるのです。自分を守るために、権利を主張したり、うそをついたりする必要が、消えてしまいます。
 さらに、不自由をかこったり、死を恐れたりしなくてもよくなり、生きていて善かったと、こころの底から感じることができるようになれるのです。
 こうした生き方から、もっとも遠ざかってしまっているのが、いまの日本人です。刑事事件や裁判をとり上げてみても、そのことが如実に現れているのです。



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