ひびきのさと便り



No.37 イラク攻撃と民主主義  (2003.3.26.) 

 3月20日、アメリカとイギリスは、イラクに対する武力行使に踏み切りました。ブッシュ大統領が、2002年1月に行った一般教書演説で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んで以来、世界は、アメリカがいつ、どのように、具体的な軍事行動を起こすかを注視してきました。
 ついに現実となったイラク攻撃は、実にさまざまな角度から考察されたり、分析されたりしています。そうしたいくつもの論点の中に、アメリカが標榜する「自由」や「民主主義」をどう考えるか、というものがあります。
 それを簡単にまとめれば、アメリカ流の自由と民主主義を、アラブ社会やイスラム教文化に(ひいては世界全体に)、そのまま押しつけて良いのか、それはアメリカの独善ではないのか、ということになると思います。あるいは、平和と協調をもたらすはず(こう信じている人は多いのではないかと想像するのですが)の民主主義を掲げつつ、戦争を起こすとは、一体どういうことなのか、そんなことがあり得るのか、許されるのか、アメリカの言っている民主主義は、果たして「本物」なのだろうか、等々の、疑問や混乱が、いま、世界に渦巻いているように見受けられるのです。
 例えば、攻撃開始の翌日、3月21日付日本経済新聞の1面コラム「春秋」欄は、次のようなかたちで民主主義にふれています。

 民主主義はコストがかかるという。たしかに、議論と説得と納得のプロセスは、カネと手間と時間を必要とする。こんなやっかいな仕組みを、なんで人間は取り入れたのだろうか。効率という意味では、独裁や専制に比べて、競争力はかなり落ちるのに・・・・・。
 三十数億年の生命の歴史で、民主主義の採用に匹敵するのが有性生殖の獲得だ。・・・ ・・・無性生殖を繰り返すと、遺伝子のバラエティー・多様性が失われて、進化の袋小路に迷い込んでしまう。まるで無駄なような遺伝子もしっかりため込んでおける有性生殖は、少々コスト高でも、結果的に環境変化に対応して生き残れる。民主主義のコストもそれに似ている。
 イラクで戦闘が始まった。・・・この戦争の巨額の戦費が、民主主義のコストといえるかどうかは、戦後イラクの姿にかかっている。
(下線は筆者、以下の引用でも同じ)

 自由と民主主義を主張しながら、イラク国土にミサイルを撃ち込むアメリカの姿に、多くの人は戸惑いや怒りを表明していますが、民主主義のあり方そのものを問い直そうという、根本的な問題提起は、ほとんど見当たりません。民主主義は正しいが、アメリカが間違っている、つまり、アメリカは口先で民主主義をかたっているに過ぎないのだ、このように考えている人が、かなりの数に上っているのではないでしょうか。
 しばらく以前、3月4日付の毎日新聞は、成蹊大学教授で、アメリカ政治外交史が専門の、西崎文子(にしざき ふみこ)氏による評論を掲載しました。その見出しは、次のようです。

イラク攻撃に傾く米国/民主主義の名の下の干渉/危機にこそ自国の相対化を

 本文から、何箇所か引用させていただきます。

 全米に、そして全世界に広がった反戦運動を前にして、ブッシュ大統領は、「人々が意見を表明できる民主主義はすばらしい」と語ったという。しかし、同時に彼は、反戦運動の高まりによって、米国が政策を変更することがないことも明らかにした。では、大統領は誰の声に耳を傾けているのであろうか。「9.11」以来、彼は民主主義や自由・文明などの言葉を盛んに口にしてきたが、それはどれほどの重みを持っているのであろうか。

 ここに、先ほど申し上げたような、アメリカが口にしている民主主義に対する疑問が提示されています。民主主義、と言いながら、他人(他国)の主張には耳を傾けていないではないか、という疑問です。日経コラム「春秋」の言葉を借りますと、アメリカは民主主義の手続きである「議論と説得と納得のプロセス」をないがしろにしている、ということになると思います。

 西崎氏は次のように続けます。

 かつて、米国は、国際政治の場に新しい理念を吹き込んだ国であった。第一次世界大戦時の大統領ウィルソンは、欧州列強による植民地支配と、軍事同盟網を張りめぐらせて勢力均衡をはかる権力政治とを否定し、かわって「被治者の同意による統治」を樹立し、自由な国民からなる国家が国際協調によって平和を維持することを訴えた。・・・

 しかし、と西崎氏は言います。

 しかし、その外交理念に内包される落とし穴はすでに明らかだったといってよい。ウィルソンは、「被治者の同意による統治」の実現を助けるために、メキシコの内戦に干渉し、・・・強い反発を受けた。カリブ海・中米地域では、文明と秩序、そして民主主義を掲げる介入が繰り返されたが、米国による事実上の保護国化は、欧州列強の帝国主義とさほど変わらぬものであった。「被治者」を尊重しようとした米国は、その「被治者」たちのナショナリズムを理解することがなかったのである。

 文明と秩序、民主主義を掲げたアメリカの干渉や介入が、欧州列強の帝国主義と変わらぬものになってしまったのはなぜなのか。西崎氏は次のように解釈します。

 ・・・米国外交は、民主主義の理念を掲げながら、民主主義を踏みにじる行動によって特徴づけられることになった。それは、米国が理念を軽視していたからではない。むしろ、自らの理念の正しさを信じるあまり、自己反省を怠ってきたことが問題だったのである。

 西崎氏はこのように述べるのですが、実は、民主主義制度のもとでは、国家も、個人も、自らに反省を迫ることなどはしません。逆に言えば、自己反省がないのが、民主主義の特徴のひとつなのです。アメリカが自己反省を怠ってきたことが問題であるとされているのですが、そもそも自己反省がないのが民主主義というものですから、アメリカがとくにそれを「怠ってきた」わけではなく、反省しなくて当たり前、と言えるのです。
 いま、民主主義国家の中で、アメリカだけが自己反省のない国なのでしょうか。そんなことはないと思います。フランスも、ドイツも、ロシアも、そしてもちろん日本も、決して自己反省などしません。相手と議論し、相手を説得し、納得(と言うより屈服)させるためには、自己反省などじゃまなものでしかないからです。反省などしようものなら、いや、反省しそうな素振りを見せただけで、たちまちそのスキにつけ込まれ、足下をすくわれて、やり込められてしまうでしょう。民主主義の土俵の上では、自分のことはいつでも棚にあげておかなければ、交渉や駆け引きはできません。反省しない方が望ましい、と言いますか、してはならないのです。
 国際情勢はもちろん、個人と個人の日常的な関わりも、世界中で、ほぼ完全にこういう原理で動いています。それこそが民主主義なのです。民主主義が広まることは、人々の間に無反省の風潮が広まることと等しい、と言えます。

 西崎氏は、先ほどの引用にありますように、ウィルソンの外交理念に内包される落とし穴はすでに明らかだった、と述べています。では、その「落とし穴」の正体は何なのでしょうか。
 西崎氏によりますと、それは、「『被治者』を尊重しようとした米国」が、「『被治者』たちのナショナリズムを理解」せず、「欧州列強の帝国主義とさほど変わらぬ」「事実上の保護国化」を行ったこと、とされています。これはつまり、民主主義に基づく外交理念は良かったが、具体的なやり方が良くなかった、ということになると思います。
 しかし、民主主義に基づいていたからこそ、アメリカは、帝国主義とさほど変わらない干渉や介入を繰り返したのです。民主主義の立場にあれば、その国も、その人も、常に自身を「正しい」位置においています。トラブルが起きるのは、自分が悪いからではなく、自分以外の者が悪くて、間違っているからなのです。
 自分の枠だけを通して外界を見て、それに合わなかったり、そこからはみ出したりしたものがあったら、自分の枠を直すのではなく、外界の方をその枠に当てはめ、押し込めようとする、それが民主主義の考え方です。そうすることを別の表現にすれば、「議論と説得と納得のプロセス」になるわけです。
 納得させられた側、すなわち言い負かされてしぶしぶ引き下がった側は、次のチャンスには、必ずや立場をひっくり返して、自分の思い通りに事をはこぶべく、虎視眈々とねらうことになります。この状況が続く限り、社会に安定が訪れることがないのは、明らかです。
 「落とし穴」と言うのであれば、これこそが落とし穴です。西崎氏の言う「民主主義を踏みにじる行動」だけが間違っているのではなく、それを支える原理、「民主主義の理念」そのものに、根本的な問題があるのです。
 その、現代民主主義の原理とは、判断や行動などの基準を、自己の欲望においているということです。経済学の用語で言えば、民主主義においては、人々が、自己の利益と選好を極大化することのみを目指す、ということになります。

 もう少し、記事からの引用を続けさせていただきます。

 ・・・今、この米国の理念はさらなる危機に直面している。それは、「9.11」後の米国政府が、民主主義や自由を語りながら、自らの政策に対する異議申し立てに耳を閉ざしているからである。・・・
 民主主義がすばらしいのであれば、ブッシュ大統領は国民の声に、そして世界の声に耳を傾けなければならない。1世紀前、自らが世界に問うた国際協調の価値を擁護するのであれば、米国のイラク攻撃への支持を一方的に求めるのではなく、異論を含めた各国の発言を真摯(しんし)に受け止めるべきである。自国を相対化することは、危機にあってこそ必要なのではないか。民主主義や国際協調などの理念を歴史の舞台から消し去らないためにも、超大国米国の謙虚さが求められている。


 先ほど検討したこととつながりますが、下線をほどこした「民主主義や自由を語りながら〜耳を閉ざしている」という部分につきましても、「民主主義を口にするくせに、他者による異議申し立てに耳を閉ざすのはおかしいではないか」という意見は、はっきり申し上げて的はずれな批判です。
 「民主主義でありながら」ではなく、「民主主義だからこそ」、他者の意見や異議申し立てに耳を閉ざすのが「当たり前」、ということです。それこそが、民主主義の本質のひとつなのです。

民主主義の本質について、自己・他己双対理論の視点から、さらに考えていきたいと思います。
 近代民主主義思想の成立に決定的な役割を果たしましたのは、社会契約説を唱えたホッブズ(1588〜1679)とロック(1632〜1704)とルソー(1712〜1778)です。彼らに共通する考えは、「人間は、元来、自然権として、自己保存(生命・財産など)、自由、平等などの権利を有する」とするものです。
 こうした考え方を受けついで、有名なアメリカ独立宣言や、フランス人権宣言や、世界人権宣言などが述べられてきました。また、日本国憲法で見ますと、次のような条文があります。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできな い永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反 しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 

 現在は、こうした考え方のもとで、だれであっても、「自由」に、自分の生命や財産を守ったり、幸福を追求したりする権利を「平等」にもっている、というのが、平等についての一般的な理解になっていると言えます。ですから、経済その他における自由な競争を規制することは、原則としてできません。
 中には、競争に敗れて、落ちこぼれていく人がおり、その人たちも、生きて、幸福を追求する権利を平等にもっているので、それを保障するために、セーフティネットを張らなければならない、ということになります。しかし、社会的弱者を救うために、強者の自由や権利が制限されるようなことは、逆差別であり、とうてい受け入れられないと考えられます。したがって、セーフティネットは、ごく低いところに、網目の粗いものを、とりあえず張っておく、そうしたものでなければ、多くの人が納得しません。
 このように見てきますと、現在では、平等というものが、自由に奉仕し、隷属する概念でしかないことが明らかです。現代人にとりましては、自由こそが、ほとんど至上の価値であり、自由を合理的に、効率よく追求するために、平等が利用されているにすぎないと言えるのです。
 ただ、個々人がおのれの自由を貪欲に追い求めるばかりで、他者や社会に対する配慮をいっさい欠いていたのでは、ホッブズが言いましたように、「人は人に対して狼」になり、「万人の万人に対する闘い」が起きて、社会は混乱に陥ってしまいます。
 市場原理至上主義とグローバリズムが広まり、大量破壊兵器や生物化学兵器が無数に存在している現代世界は、いまや限りなく「万人の万人に対する闘い」に等しくなっています。ただ、それを避けようとする努力が皆無なわけでもありません。国連が、そのための代表的な機関です。近代以降、こうした努力は続けられてきています。
 民主主義を確立した人たちは、人間が、狼のような動物と違って、「理性的な存在」であることを前提として、自分に都合の良い解決法を考えました。
 それは、自分が自由かつ平等であろうとするのなら、他者も同じように願っているのだから、お互いそうなれるように「約束」で解決すればよい、という考えです。そうした約束を生む前提条件や、約束の内容は、前述のホッブズ、ロック、ルソーの間で多少ことなっているのですが、一般にはそれを「社会契約」と呼んでいるのです。

 しかしながら、ここではまず、自分自身の自由や平等や権利を守り、主張することが第一となっています。それらが保障されることを大前提として、あるいはそれらを保障するために、他者と約束を交わし、それを履行するのです。
 他者との約束が、自分の不利益になるのでしたら、それは反故(ほご)にされます。かんたんには反故にできないようでも、何だかんだと理屈をこね回し、必要に応じてアメを出したりムチを振るったりして、相手を言いくるめようとします。相手がぼんやりしていて、約束違反があったことに気づかないまま、こちらの口車に乗ってくれれば、大成功です。そうではなく、一筋縄ではいかない相手でしたら、交渉を打ち切ったり、腕力に訴えたりすることも、考えなければならなくなります。
 具体例には深く立ち入りませんが、環境問題の国際会議や、WTOの会合などで、近年、各国の利害の対立ばかりが目立ち、交渉が不調に終わることが多いのは、マスコミで報じられるとおりです。こうした駆け引きの場では、他国に譲歩し、積極的に利益を与えるという姿は、まず、見られません。少しでも自国に有利な展開をねらい、はっきり言えば相手から奪い取れる分を増やすために、どの国の代表もしのぎを削っています。

 現代の民主主義教育は、たいてい、こうした駆け引きや交渉の能力を育成することを重視して行われています。日本の学校の様子を考えましても、教室では、とにかく手を挙げ、堂々と、自信をもって話すことが奨励されます。意見の内容はあまり問われません。正しいか間違っているかは二の次、三の次で、極端な場合、「ハイハイ!」と威勢よく手を挙げて、うまく指してもらえた後、「忘れました!」とひとこと叫んで座っても、とにかく積極的に発言したという点が、プラスに評価されることもあります。 
 自分がしゃべるより、友だちの発言を静かに聞いていることの方が多い子どもは、ときとして「関心が低い」「意欲が薄い」と判断されることがあります。また、友だちの考えに賛成することが多いと、「主体性がない」「創造性がない」と見なされたりします。そうした点を直すように、直接指導するかどうかは、担任教師によって違うと思いますが、現在の学校は、全体としてこうした傾向にあると言えます。
 いま、学校教育の目玉になっているのは、いわゆる「総合学習」であり、学習指導要領では、この教科の目的が、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」と書かれています。たったこれだけの文章の中に、「自」という文字が3つもおどっています。
 また、「よりよく問題を解決する」とありますが、どうすれば「よりよく解決」したことになるのかは、まったく不明確です。もっとも、それも当たり前と言えば当たり前で、何が「よりよい」のかは、子ども自身が「自ら考え、主体的に判断」すればいいことなのです。担任や友だちからすると、めちゃくちゃで、迷惑な解決方法であったとしても、本人が「これでいいのだ」と言えば、他人がそれを正すことは、原則としてできません。非難されたり、否定されたりすることがあっても、本人がそれに耳を貸す必要はないのです。それが、いまの学校教育で重視されている「自由」であり、「自主性」や「主体性」だからです。もっと言いますと、憲法第19条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定されている以上、「これが私の良心です」と言って行動した場合、その人が大人でも子どもでも、それを「侵す」ことは、誰にもできないのです。
 この傾向は、幼児教育になると、ますます強まるようです。先ごろ、ある著名な学者の書いた幼児教育、とくにその中でも「自由保育」と言われるものに関する本を読んだのですが、そこには、たとえば、「他人に素直になるように教えることは、創造性をはばんでしまう」、「口答えをする子どもこそ、いい子どもである」、「問題児と呼ばれるような子どもに育てなければならない」等々とありました。
 私の考えからしますと、これらの主張はまったくの誤りですが、こうしたことが言われ、しかも広く受け入れられていることに、あらためて驚きました。いま、小学校に入学した直後から学級崩壊が起こる、「小1プロブレム」と呼ばれる現象が広まっており、それもなるほどと、納得せざるを得ません。幼いうちから、子どもたちに、人の言うことは聞かなくていいと「仕込む」のでは、教育が成り立たなくなって、崩壊するのが、必然的な結果です。
 こうした教育を受け続けた子どもたちが大人になって社会に出ていき、その人数がどんどん増えているのです。この傾向は、日本でとくに顕著ですが、世界的な流れでもあります。その中で、現在、戦争、環境破壊、貧富の差、飢餓などの問題が噴き出しているのです。

 教育によって知識を豊富にし、教養を高め、理性を身に付けていくのに、人間は、直面するさまざまな問題を解決できません。こうした状況にあっても、なお、大多数の人は、理性こそが、動物にはない人間の本質であり、その理性に基づいて社会契約を結び、民主主義社会を運営していくのだから、それ以上によい解決方法などあるはずがない、と考えていると思います。
 しかし、実は、人間の本質のとらえ方に、間違いがあるのです。
 民主主義は、基本的に他者性(=他己)を欠いた、自己を追及する制度です。社会契約という、他者や社会に配慮するルールも、いちおうは定めることにしていますが、それはあくまでも自己追求のための、便宜的なものに過ぎません。自己追求の妨げになるような社会契約が破棄されることが多いのは、先ほども見たとおりです。ここでは、他者があくまで自己の奉仕する存在として、利用されるだけだと言えます。
 しかしながら、自己・他己双対理論によりますと、人間の精神には、民主主義が追求しようとしている、自己だけがあるのではありません。他者のことを思う、他己という精神の働きも持っています。人間の精神は、自己と他己という二重性を帯びているのです。
 また、人間は、理性を持つ前に、その基礎には、「人の心を感じるこころ」である「感情」を持っています。自己・他己双対理論による「人間精神の心理学モデル」に照らしますと、理性は、自我−人格(たましい)と認知−言語(あたま)とを合わせた働きですが、その基礎には、情動−感情(こころ)があります。
 前述しましたホッブズ、ロック、ルソーの3人は、共に、人間の行動の原動力として、「欲望」を積極的に肯定しています。しかし、人間を動かすものは、自己の欲望だけではありません。それに拮抗した、他己の感情(=人の心を感じるこころ)も、働いています。それは、人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとするこころです。目の前に、傷つき、苦しんでいる人がいれば、自分のことはさておいても助けざるを得ない、そういうこころが働くのです。あるいは、現代社会においては、働くように努力しなければならないのです。そうしたこころを持つことこそ、人間の人間たるゆえんなのです。

 ところが、繰り返しになりますが、こうした二重性を帯びた精神のうち、自己のみを追求する制度が民主主義です。理性で他者に配慮している(すなわち社会契約を結ぶ)とは言え、その基礎にある感情と、人間を支える一方の柱である他己を無視するところに、民主主義の根本的な欠陥があります。
 民主主義について発言する研究者や評論家などが多く引用する政治学者に、トクヴィル(1805〜1859)というフランス人政治学者がいますが、このトクヴィルが、『アメリカの民主主義について』という著書の中で、民主主義社会においては、伝統や慣習や風習や倫理や道徳が消えていくことを指摘しています。これらの伝統などは、他己(時間で言いますと過去)の中の感情に基礎を持つような働きなのです。
 ちなみに、自己・他己双対理論に基づいて構築された時間論では、自己は未来を、他己は過去を形成する働きを担っており、現在はその統合であると考えられます。
 他己=過去が失われ、伝統などが消えてしまいますと、あらゆることを法律(契約)で決めなければなりません。ですから、法律はだんだん増えていきます。また、その制定に際しては、主権在民のルールから、多数決原理が支配します。したがって、皆が望めば、いつでも法律は改正されます。これはつまり、朝令暮改が日常的になるということです。これが、伝統・慣習・習慣が意味を失うメカニズムです。
 イラクの大量破壊兵器査察をめぐっても、期限や査察方法などに関して国連がほとんど右往左往、二転三転といった状態になってしまいました。そして、査察の継続か、打ち切りおよび武力行使か、どちらが善であり、正義であるのかは、多数決にのみ、かかっていたのです。アメリカとイギリスは、国連決議を受けずに違法な攻撃を開始したと言われて、世界中の非難を浴びています。しかし、もし、フランスやロシアやドイツなどが譲歩して、武力行使容認の決議が採択されれば、今回の攻撃も、一転して正義の戦争になったのです。あくまでも武力に反対する国がいくつか残っていたとしても、です。むしろ、そうした国が今度は、悪の枢軸に荷担するテロ支援国家だとして、国際的な非難を浴びることも、十分にあり得ます。
 これはつまり、相対な世界に正義や善や真理を求めていることなのです。しかしながら、自己に執らわれた相対な世界には、そうしたものは存在しません。

 西崎氏の意見に戻りますと、氏は、「民主主義がすばらしいのであれば、ブッシュ大統領は国民の声に、そして世界の声に耳を傾けなければならない」と述べています。しかし、これまで考察してきましたように、民主主義の制度に、他者の声に耳を傾けるという姿勢は、基本的にありません。批判や異議申し立てをとりあえずは聞いたとしても、それを受け入れるかどうかは、まったくこちらの自由であるというのが、民主主義の大原則です。
 自分の考えが正しいのか、他人の批判が正しいのか、その主張同士の対立は、どこまでいっても平行線です。その平行な関係を崩す力をもつものがあるとすれば、どちらの意見に、より多くの人が賛意を示すか、ということだけです。
 多数の賛成を得られなかった側が、それでもなお自分の主張を貫こうとするなら、残された道は実力行使ということになります。今回、アメリカとイギリスはそれに近い行動に打って出ました。フランス、ロシア、ドイツが、体を張ってでも米英を阻止しようとすれば、それは第3次世界大戦の引き金をひくことになったかも知れません。では、米英に手を出さず、軍事行動をながめている仏・露・独に、正義があると言えるのでしょうか。
 仮定の話には問題があると感じる方もいられると思いますが、アルカイダによってテロの標的とされたのが、ニューヨークの世界貿易センタービルではなく、もしパリのエッフェル塔だったなら、今回のアメリカとフランスの立場は、そっくり入れ替わっていた可能性もあります。何もフランスの悪口を言うのではありませんが、この国にも、1990年代に、世界中の声に耳を貸さず、南太平洋での核実験を強行したという「実績」があることは、多くの方の記憶に残っていると思います。
 つまり、相対な世界には、絶対的な正義や善はない、ということなのです。

 西崎氏は、民主主義や国際協調の理念を大切にするために、アメリカはもっと謙虚になって他国の批判を受け入れ、みずからを相対化しなければならない、と締めくくっています。
 これを聞いたアメリカは、どのように反応するでしょう。おそらく、もし本当にわれわれ(=アメリカ)が、フランスをはじめとする反対勢力の異議申し立てに従い、イラクから手を引いたとしたら、イラクはますます増長し、それこそ世界から民主主義は失われ、国際協調はめちゃくちゃに踏みにじられるだろう、そうなってもいいのか、そうなったらだれが責任を負い、だれが各国市民の生命や財産を守るのか、と言うのではないでしょうか。われわれが、ごう慢だ、独善だという誹(そし)りを甘んじて受け入れ、その上でなお、命がけで戦っているからこそ、大多数の人々はこの戦争も対岸の火事としてのんびり眺めていられるではないか。何なら今すぐ撤退してもいい、後はどうなっても知らないぞ、と、アメリカが開き直ったら(そういうことはないと思いますが)、他の先進国はどうするのでしょうか。あるいは、西崎氏は何と言うのでしょうか。
 民主主義という、相対なもの同士が争い合う土俵の中にあっては、互いに相手の意見を真摯に、謙虚に尊重し、ゆずり合って、許し合うこと(すなわち真の国際協調)は、決して起こらない、と言わざるを得ないのです。民主主義に固執し、すなわち自己に執らわれている限り、世界に平和は訪れてきません。

 西崎氏は、アメリカも自国を相対化せよ、と言っています。アメリカの首脳陣に、自国もまた相対的な存在であることの自覚が、どの程度あるのか分かりませんし、それはアメリカ以外の国も大同小異だと思います。そういう意味では、アメリカだけが独善的なのではありません。むしろ、独善的でない国など、ひとつもないと言ってもいいだろうと思います。
 あらゆる国、あらゆる人が独善のままでよし、とお墨付きを与えるのが、民主主義なのです。実際はドングリの背比べで、だれも彼もが自覚のないまま悪を為しているのですが、それでいてなお「われこそが正義なり!」と叫ぶことを良しとして、それを奨励するのが民主主義だ、とも言えます。
 ですから、各国(各個人)が、おのれを相対化できればそれでうまくいく、というわけではありません。むしろ、いまはあらゆる国、あらゆる人々、そしてあらゆる考えが相対化されています。そしてそこに、(このように考える人はいないのですが)「相対地獄」が出現しているのです。
 こうした中で、人々がすがるものは、自己の利益(=損得)と選好(=好き嫌い)だけになっています。すると、必然的に、人々はたがいに奪い合い、傷つけ合い、争いが絶えない世の中になってしまうのです。
 相手が凡夫なら自分も凡夫で、仲良く、ゆずり合い、許し合って、共に生きていかなければならない、と深く思いをいたし、その通りに実行できるのは、理性ではどうにもなりません。理性の基礎にある、こころの問題だからです。
 そしてまた、こころがそうなれるためには、自己への執着を捨てて、相対を超えた、聖なる絶対の世界を信じることが不可欠なのです。この「信じる」ということほど、現代の民主主義から失われてしまったことはありません。
 相対な存在同士が、てんでんばらばらに孤立して、おのれを守る争いを繰り返すだけでは、「自国の相対化」など、かえって混乱を深めるだけです。相対を超えた、絶対な真理を信じ、そこにおのれのあり方を映さなければ、謙虚にはなれませんし、他者と共に生きていくこともできません。

 「三人寄れば文殊の知恵」と言われます。このことわざは、一般的には、知識や教養が豊富な人間が何人か集まって相談すれば、文殊菩薩にも匹敵するようなすぐれた知恵が生まれるものだ、と理解されています。
 しかし、本当は、そのように解釈すべきではないと思います。相対な世界に住む「凡夫」である人間が、どれほど頭が良くても、どれほど口が達者でも、絶対な境地に達した聖者の「智慧」に並ぶことはできません。それはちょうど、0はいくら足しても0のままで、決して1になることはないのと同じです。何千、何億と、どんなに寄り集まっても、0にしかならない凡夫は、たとえば私が「四聖」と呼んでおります、釈尊、キリスト、ソクラテス、老子の教えを信じ、その説くところに従っていく以外、正しく、幸福に生きていける道はありません。ですから、「三人寄」ったら、「文殊の知恵」を信じ、従って、その上で譲り合い、許し合って、仲良く生きていこうではないか、このように解釈するべきだと思うのです。
 民主主義は多数決を採用しますが、多数決が本当に人々や社会の幸せを実現していけるためには、絶対な教えへの信仰に基づいたものでなければならないのです。各国や、各個人は、みな、自己の欲求や、利害をもっています。それをそのままぶつけ合い、最終的に「数の暴力」で決着をはかろうとするのでは、どこまで行っても平和は訪れてきません。
 自己への執着を捨て(少なくとも捨てられるように努力し)、相対を超えた、絶対な教えに従って話し合っていければ、めちゃくちゃな議論にはなりませんし、発言力や腕力のある者だけが得をするような、不平等な結果になることも避けられるのです。
 いま、民主主義は、ほとんど疑う余地のない、すばらしい社会制度として、理解されています。その問題点を指摘する声も皆無ではありませんが、それらは、現在は民主主義が不徹底だからであり、個々人が意識や教養を高めて、もっと洗練された民主主義を実現していけば、直面する困難は解決されるだろう、というような論調になっているものがほとんどです。
 しかし、現在の民主主義は、その本質に、自己肥大と他己萎縮をもたらすという、重大な欠陥を含んでいます。この点を根底から問い直すことがない限り、世界から不安定要因が払拭されることは決してない、と言えるのです。



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