ひびきのさと便り



No.38 「犯罪王国」日本   (2003.5.27.) 

 連日、テレビや新聞などを通じて、凶悪な犯罪の発生やそのてんまつが、おびただしく報道されています。つい5年、10年前でしたら、常識をはるかに逸脱していると誰もが感じたような事件が、いまではまさしく日常茶飯事になっていることを、多くの方が強く感じておられるのではないでしょうか。
 少し前にはマスコミで話題にされない日がなかったほどの、ピッキング盗やATM強盗などは、いまやかなり「定着」してしまったため、それほど人々の関心や危機感を呼び起こさなくなったように見受けられます。決して発生が下火になっていたり、有効な対策がとられたりしているわけではないのに、です。あけられにくいカギに交換しても、その次にはドリルで穴をあけられますし、大型で頑丈な金庫を購入すれば、「どこの誰が、いつ、どんな金庫を買ったか」という情報が販売業者から犯罪者に流れ、金庫を買ったがためにかえって狙われる危険性が高まるという、実に皮肉な現象も起きているとのことです。
 ごく最近、世間を騒がせた事件を思い起こしましても、各地で連鎖的に起きたような通り魔事件ですとか、会社役員の誘拐・殺害事件ですとか、枚挙にいとまがありません。
 繰り返しになりますが、しばらく以前でしたら、何年間も語り継がれ、容易には風化しなかったような重大事件が、いまではほとんど毎日、日本中の至るところで起きています。
必然的に、個々の事件のニュースバリューは薄れ、犯罪に対する人々の感受性も鈍くなってきているのではないでしょうか。
 イラク戦争の戦後処理、新型肺炎の流行、北朝鮮による拉致被害や核兵器の問題、さらにはバブル期以後の最安値を更新し続ける株価、国会議員と暴力団との関係などなど、犯罪以外に目を向けましても、いま、日本中、世界中が大混乱に陥っています。危機を示し、問題の解決や克服を訴える声も皆無ではありませんが、社会の軌道修正や方向転換は、残念ながらまったく起きていないと言わざるを得ません。

 そのような「声」の1つとしまして、3月31日付の毎日新聞は、「主張 提言 討論の広場」という紙面で、次のような見出しのもとに特集を組みました。

続発する凶悪犯罪 どう防ぐ/日本の安全神話が根底から揺らぐ。市民を凶悪犯罪から守る方策はあるか

 意見を寄せていたのは、警察庁刑事局長の栗本英雄(くりもと・ひでお)氏、ジャーナリストの富坂聰(とみさか・さとし)氏、中央大学教授で犯罪学が専門の藤本哲也(ふじもと・てつや)氏の、3名の方々です。
 3氏の意見を、記事から引用させていただきながら、いまの犯罪について考えていきたいと思います。
 まず、警察行政の立場から、栗本氏は次のように犯罪の現状について指摘しています。

 犯罪情勢をみると、犯罪が量的に増加し、質的にも悪化しているという状況にある。昨年の刑法犯認知件数は約285万件と昭和期の約2倍であり、7年連続して戦後最多を記録している。・・・
 ・・・中でも、とくに注目すべき原因としては、次の3点を考慮すべきである。第1は不法滞在外国人等による組織的かつ大胆な犯罪の増加である。・・・
 第2は少年非行の深刻化である。増加が目立つひったくり等の街頭における犯罪は、検挙人員の約7割が少年である。遊興費欲しさに安易に非行に及び、凶悪化・集団化の状況もうかがわれる。
 第3は巧妙化・潜在化する暴力団犯罪の脅威である。
(下線は筆者、以下の引用でも同じ)

 挙げられている数字を見ますと、いずれも驚くべきものですが、日々の報道を考えればたいへん納得のいくデータでもあります。
 栗本氏はこれに続いて、街頭犯罪や侵入犯罪の抑止対策に重点的に取り組んでいること、少年犯罪を防ぐために学校や地方自治体などとの連携を進めていること、ピッキングなどの新しい犯行形態に対しては、法律案の提出などの働きかけを行っていること、暴力団や暴走族などの取り締まりを強化していることなどなど、警察の取り組みについて述べています。
 そして、次のような一文で意見を締めくくっています。

 警察としては、日々厳しくなる犯罪情勢と捜査環境の中で、警察改革をいっそう推進して国民の信頼を回復し、国民1人1人のご理解、ご協力を賜りながら、「世界一安全な国」の復活を目指し、全力を傾注していきたいと考えている。

ここに述べられているのは、たしかに必要なことではあると思いますが、刑法犯の認知件数が「昭和期の約2倍」に達し、「7年連続して戦後最多を記録している」という、恐ろしいほどの事態に、するどく、具体的に迫るものであるかといいますと、かなりの不十分さを感じます。
 栗本氏が述べているのは、必ずしも新しい対策ではなく、多少の変遷はあるにしましても、これまでも長年にわたって行われ続けてきたことがほとんどだろうと思います。しかし、そうした努力にもかかわらず、犯罪の悪化はとどまるところを知らないという現実があるのです。
 栗本氏は、だからこそ、「警察改革をいっそう推進して」「全力を傾注していきたい」と強調するのだろうと思います。ですが、過去7年という決して短くない期間の犯罪動向を見ましても、従来の延長線上にあるような対策では、犯罪の減少を図ることも、それどころか横ばいの状態を保つことすら、難しいように考えられます。
 より具体的で、実効性や速効性を期待できる手だてを打ち出す以外には、少なくとも現状を変えることはできないのではないでしょうか。

 ジャーナリストである富坂聰氏は、まさに「発想変えた防止策を」という見出しで意見を述べています。
 富坂氏によりますと、新しく目立つようになった犯罪として、ピッキングの他に次のようなものがあるそうです。

 瞬時にカード情報を盗みコピーするスキミング。戸籍を操作して・・・他人の籍に侵入、または行方不明者や自分が殺害した人物になりすます背乗り。キッチンタイマーを手に警備員や警察官が駆け付ける前に数百キロの金庫を持ち去る金庫強盗・・・。

 先ほど述べました、カギを交換すればドリルで穴をあけられ、大型金庫を買えば逆に狙われやすくなるといいますのも、富坂氏の記事に書かれた実態です。
 これらに多く関わっているとされますのが外国人、とくに中国の犯罪者グループだとのことで、富坂氏は取材によって得た、次のような生の声も紹介しています。

 「オレたちの胃は越来越大(どんどん大きくなった)。もう数百万円では満足できない。最低でも2、3千万円は持ってかえる。でなきゃ、日本にいる意味は無い。人殺しだって何だってやる」
 「日本で犯罪をする理由は、刑罰が軽くて拘置所や刑務所がホテルのように快適というだけじゃない。日本人を傷つけても罪の意識が軽くて済む。教育のせいだろうね」


 全体的に見ましても衝撃的な告白ですが、とくに下線をほどこした部分に表れた「ふてぶてしさ」はどうでしょうか。中国人から見ますと、日本の犯罪者収容施設は「ホテルのように快適」なのです。刑務官などによる暴行事件や、受刑者の不審死などの問題が次々と明るみに出、犯罪者の人権や待遇などがいろいろと取りざたされていますが、中国人犯罪者に言わせれば、日本の刑務所はホテル並みなのです。雨風がしのげるのはむろんのこと、そこそこの広さと清潔さと快適性が保たれた居住空間があり、質量ともに申し分のない3度の食事が与えられ、従順でありさえすれば身の安全は保証され、健康管理や娯楽にも配慮される。こう見ますとたしかに「ホテル並み」という形容が決してオーバーではないように思えてきます。
 現在、窃盗犯の検挙率は14%程度だとされています。逆から言いますと、盗みの成功率は85%を超えており、5回中少なくとも4回はうまくいくのです。野球でしたら、ほぼ毎打席ヒットが出るようなものです。そして、「運悪く」捕まってしまっても、考えようによっては快適な「ホテル暮らし」が待っているのであり、これが本当に運の悪いことなのかどうか、分からなくなってきます。
 しばらく以前、中国で、飲食店で朝食用に売られていた饅頭などに殺鼠剤が混入され、何十人かが殺害されたという事件がありました。この場合など、犯人は逮捕されたらただちに起訴、そして、裁判も朝に開廷したら昼には死刑が確定という、超のつくスピードぶりでした。中国人の犯罪グループには、こういう本国の事情が身にしみているわけで、これと比較したら、日本が天国のように見えても当然と思えます。
 外国人犯罪者にとっての日本の魅力は、他にもあるそうです。

 「デパートの売り子はカード情報を盗み、旅行会社の社員は家族旅行の情報を売る。そして、何も売る情報のない者はパスポートを売る。日本人ははした金で簡単に転ぶ」と彼らは言う。

 「はした金」で買われた協力者によって、さらに犯罪がやりやすくなっているのです。協力者にとっては、犯罪を実行するのも被害に遭うのも見知らぬ他人であり、「あっしには関わりのねえことでござんす」というところなのでしょうか。
 このような現状に対する、富坂氏の「発想変えた防止策」は、次のように述べられています。

 もはや犯罪者の侵入を防ぐだけでなく、自分自身を守る意味でも、より深い個人情報、例えば「指紋」を旅券に組み込むなど、対策を真剣に考えるべきだ。外国人を呼ぶことで利益を得る法人に、治安維持のコスト負担を応分に求めることも検討してはどうか。

 なるほど、どちらも、いままでにはなかった新しい対策なのでしょう。しかしこれが、本当の意味での「発想」を変えた防止策と言えるのかどうかは、考えなければならないことだと思います。
 パスポートに指紋を組み込んだとしても、その部分を偽造することが、果たしてどれほど困難なのでしょうか。もし技術的にきわめて難しいとしても、空港などの係官や警察官が買収されたらおしまいです。何しろ「日本人ははした金で簡単に転ぶ」のですし、賄賂が横行している国や地域は、日本以外にも多いはずです。企業が治安維持のコストを負担するというものも、まったく無効とは言えないまでも、ある程度の効果を上げようとすれば、現在の警察予算を上回るようなお金が集まる必要があるのではないでしょうか。どのような率で負担金を課すか、監督責任は国が負うのか、民間にまかせるのか等々、少し考えただけでも決めなければならないことが山積しています。そのための話し合いをしている間にも、犯罪はどんどん激しくなっていくでしょう。「これでいこう」という形ができたとき、それではすでに対応しきれない状況に陥っているおそれが、非常に大きいと思います。
 残念ながら、富坂氏の提案も、栗本氏の主張と同じく、これまでに言われたり行われたりしてきたこととそれほど差はない、と言わざるを得ないと思います。失礼な言い方かも知れませんが、そんな「小手先」の対策では、どうにもならないところまで来ていると考えなければならず、その上で、あらためて「発想」を根本的に変えていかなければなりません。

 さて、犯罪学の研究者という立場から、藤本哲也氏はどのようなことを述べているのでしょうか。
 藤本氏が最初に指摘するのは、「犯罪と経済状態は密接な関係にある」ということです。その根拠としては、日本では1992年のバブル崩壊以降、凶悪犯罪が激増し、96年からは、先ほどの栗本氏の指摘にもありましたように、刑法犯の認知件数が戦後最悪を更新し続けていること、その一方でアメリカでは、「ニューエコノミー」と呼ばれたクリントン政権下での好景気に支えられて、凶悪犯罪が10年間にわたって減少し続けていること、の2点が示されています。
 このことを前提として、藤本氏は、犯罪対策の先進国と言えるアメリカの取り組みを紹介し、犯罪の防止について述べています。
 アメリカの犯罪対策として挙げられているのは、次の4つです。

 第1は、「軽微な犯罪を取り締まることにより凶悪な犯罪を防ぐ」という手法・・・であり、ニューヨーク前市長ジュリアーニ氏によって実践され驚くべき成果を上げた。現在では、ニューヨークはアメリカでも安全な都市の1つといわれている。
 第2は、「凶悪な犯罪に厳罰化をもって対応する」という方策である。これは、「野球量刑」とか「三振アウト法」と呼ばれているが、2回目(ツーストライク)の重罪は2倍の量刑となり、3回目(スリーストライク)の重罪は、25年間仮釈放のない無期拘禁刑に処せられるというものである。
 第3は、強姦(ごうかん)事犯に対するもので、「性犯罪者の個人情報を住民に公開することによって犯罪を予防する」方法だ。・・・子どもを性犯罪者から守るために、性犯罪の前科を持つ者の現住所や顔写真、身体的特徴、犯歴などを地域住民に知らせる。全米すべての州で採用されている。
 第4は、「防犯都市設計によって犯罪に対処する」手法だ。・・・日本でも、最近、スーパー防犯灯(街頭緊急通報システム)や街頭防犯カメラが設置されている。


 これに続いて藤本氏は、日本がどの手法を見習うべきかを考察しています。結論的には、どれにもそれぞれ問題点がありますが、日本には伝統的な「交番」という制度があることから、それを充実させて、第1の「軽微な犯罪を取り締まることにより凶悪な犯罪を防ぐ」という手法をとることが、「当面の最善の方策と言えるのではないか」としています。
 それでは、第2から第4の、3つの手法については、なぜメリットよりデメリットの方が大きいと判断されたのでしょうか。藤本氏は次のように述べています。

 第4は、監視社会化をもたらすとの批判が出るだろう。犯罪防止と市民が日常的に行動をのぞかれることの兼ね合いは慎重に考える必要がある。第3も、被害者保護は図れても、プライバシーの重大な侵害につながり、犯罪者の人権を大きく損なうことになる。第2は、一定の効果こそ期待できるものの、威嚇によって凶悪犯罪を防ぐことには限界があり、刑務所人口も激増するだろう。

 第4の点に関連して、アメリカで同時多発テロが起きた後、多くのアメリカ人が、テロを防ぎ、犯人を検挙するためには、自分たち自身のプライバシーの権利が制限されるのはやむを得ないと考えている、といった内容の報道があったことを思い出しました。
 個人の生活が、常時、あらゆる場面で、あらゆる角度から監視されるようなことになったら、犯罪の防止が目的とはいうものの、明らかに行き過ぎです。しかし、そうは言いますものの、個人の自由と権利を主張することにかけてはどこの国民にも引けを取らないアメリカ人の多くが、犯罪の多発と凶悪化という現実を前にした場合には、ある程度は個人を犠牲にする面があっても仕方ないと考えているのです。
 こうした考え方を、自由の制限と引き替えに安全が手に入るのであればそれで結構と割り切る、アメリカ的で、合理主義的で、ビジネスライクな発想だ、と見ることができるかも知れません。しかし、必ずしもそれだけではなく、やはり、社会秩序の維持について、アメリカ人の意識は高く、それは日本人と比較すると、よりいっそう鮮明になる、ということがあると思います。
 日本の場合、憲法によって、個人の基本的人権は最大限に保証されています。条文を引用しますと、たとえば次のようなものがあります。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する 基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられ る。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に関する権利は、 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


 憲法第13条によりますと、個人の生命、自由および幸福追求の権利は、「公共の福祉に反しない限り」、最大限に保障されるとなっています。犯罪を未然に防ぐために個人の自由や権利を制限するといいますのは、「公共の福祉に反する場合」と判断され得るのでしょうか。解釈には幅がありますから、そのように理屈をつけることも可能かも知れません。しかし、多くの人は、まだ起こってもいない犯罪を想定して、そのために個人に制限を加えるのは、それこそが「公共の福祉に反する」ことだと考えるのではないでしょうか。
 日本には、憲法以上のアクシオム(axiom 普遍的な原理原則)がありません。社会の中で生きていく上では、憲法だけが、最終的で唯一のよりどころになっているのです。ですから、憲法に、個人の自由と権利が最優先と書かれていれば、それだけが金科玉条となります。たとえ、「それでは犯罪を防ぐことなど到底できない」という事態に陥ったとしても、憲法に書いてある以上のことはできませんし、してはなりませんし、する気がある人もいないのです。
 アメリカでは、こうは考えられません。人々の間に、社会の現実への、憲法や法律を超えた、共通な理解や認識があります。個人にある程度の制限を課す以外には、直面する危機を乗り越えることができない、と判断されれば、法を超えて、多くの人々が積極的に取り組んでいくのです。
 以前にも、本欄や「こころのとも」でご紹介しましたが、アメリカで、自分の娘を数ヶ月間、押し入れに閉じこめた母親が、裁判で終身禁固の刑になったことがあります。こんな判決が下ることは、日本では絶対にありません。たとえば、ついこの間も岡山地裁で、事件当時11歳だった娘を餓死させた母親に対して、「保護責任者遺棄致死罪」により、懲役2年4ヶ月が言い渡されました。ちなみに求刑は懲役4年です。
 アメリカでは、子どもを死に至らしめることなく、「単に」監禁した「だけ」で、終身禁固なのです。日本との差はどうでしょう。日本の刑罰は、本当に犯罪への抑止効果をもつと言えるのでしょうか。
 アメリカでは、自分の子どもを監禁した親は、期間の長短や理由の有無にかかわらず、終身禁固に処すると決められている、というわけでは、もちろんないでしょう。人間関係のあり方や、社会に与える影響の大きさなどによって、刑事罰も、ある程度の柔軟性をもって定められていくのです。
 こうした例は、アメリカの社会に、日本と違って、憲法や法律を超えた(あるいはそれらを支える)アクシオムが存在していることを意味しています。そして、そのアクシオムの根底には、アメリカ人の、キリスト教に対する深い信仰心があるのです。
 日本の人々は、こうしたアメリカの実状を見て、どう感じるのでしょう。「子どもを押し入れに入れただけで、終身禁固をくらうような、ムチャクチャな国に住んでいなくてよかった」と、胸をなで下ろすのでしょうか。

 社会の秩序を重視するアメリカ人の考え方は、藤本氏の述べます、第3(性犯罪者の個人情報公開)や第2(「野球量刑」)の手法にも、よく表れています。
 藤本氏の文章にもありますように、日本では常に、「犯罪者の人権」が大切な問題として取り扱われます。もちろん、アメリカでも同様なことはあると思います。しかしながら、日本の場合は、犯罪者の人権ばかりがあまりにも大事にされすぎて、本来なら第一に尊重すべき被害者の人権が、むしろないがしろにされているケースすら、あるとは言えないでしょうか。とりわけ少年犯罪では、こうした傾向が顕著なように見受けられます。被害者の家族の方などがマスコミを通して、犯罪者との間にどれほどの不平等が存在しているかにつき、憤りを訴えることもしばしばですが、いまの状態が変わっていくところまでには至っていません。
 憲法に定められた、基本的人権を最大限に尊重する大原則が、当然、犯罪者に対しても
「法の下の平等」の名において当てはまると考えられるのです。
 しかし、この考え方を金科玉条にするだけで、本当に社会秩序を維持していけるのでしょうか。実際は、改めてこのように問うまでもなく、社会の情勢は悪化の一途をたどっているのですが。

 次のように申し上げますと反発をお感じになる方もいられると思いますが、犯罪という、他者の人権を侵す行為をした加害者については、その人権が大幅に制限されることが、当然、あってしかるべきです。
 そのあたりのことが憲法でどのように規定されているかを条文で確認しますと、以下のようなものがあります。

第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又 はその他の刑罰を科せられない。
第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、 且つ理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第34条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられ なければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、 要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示され なければならない。


 いずれの条文も、「法律によらなければ」「正当な理由がなければ」、「〜されない」という、加害者の権利を擁護し、主張する書き方になっています。しかし、これは、現代の実状に合わせるなら、「法律により」「正当な理由があれば」、「〜されなければならない」「〜しなければならない」という、権利を制限し、義務や服従を明示したものとして読むべきではないでしょうか。
 たとえば、前述の憲法第31条でしたら、「何人も、法律の定める手続きにより、その生命若しくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられる」といった具合に、です。
 いずれにしましても、法律や、正当な理由があれば、犯罪者の基本的人権は、制限されてしかるべきであり、それはこれまでも行われてきていることです。問題はその程度なのですが、何の歯止めもなければ、自白の強要、拷問、冤罪などがあとを絶たなくなるおそれが生じるために、憲法によって強力な歯止めをかけておこうとする主旨があったと思います。ところがいまは、そのように犯罪者の権利が守られているために、むしろ無制限に近いかたちで、犯罪者の人権が主張されるようになってしまっています。憲法だけを金科玉条にしている弊害と言えるのではないでしょうか。

 憲法が犯罪者の権利を強く守る立場をとっているのは、1つには、終戦まで続いてきた、犯罪者の人権をほとんど無視した過酷(残虐)な取り調べや刑罰に対する反省があったためだと思います。
 そして、もう1つは、犯罪者の人間性、「良心」に期待するということがあるのではないでしょうか。これは、自己・他己双対理論のことばで言えば「他己」、あるいは「人の心を感じるこころ(感情)」になります。犯罪を犯した者にも、人間である以上、そうした「こころ」があり、そのこころが痛んで、良心の呵責を感じるのなら、おのれの権利ばかりをわがままに言い立てることはないだろう、だから、権利を保障しておくことで、ちょうどバランスがとれるのだ、という期待があったと思うのです。
 たとえば、戦前、無罪を主張していたある死刑囚が、その訴えを退けられて、いよいよ刑を執行されるというときになった際、まったく別の真犯人が名乗り出て、まさに命を絶たれようとしていた、その元死刑囚が無罪で釈放された、という出来事がありました。真犯人も、「我が身を捨ててよく真実を述べた」と、罪を減じられたということです。
 日本人は、古来、「和をもって尊しと為す」という聖徳太子のことばを言い伝えてきましたように、こころとこころでつながり合って、社会の安定を保ってきました。互いに相手の心を感じ合い、コミュニケーションし合う、「他己社会」であった、ということです。先述の死刑囚と真犯人のエピソードも、そういう日本人の精神的風土の中に位置づくものであったと言えるように思います。
 しかし、終戦となって、アメリカの占領政策のもと、日本は宗教を捨てさせられ、伝統的なこころとこころのつながりも、軍国主義の温床となった等の理由で否定させられ、アメリカ流の民主主義を信奉させられて、個の確立こそがすばらしい、と思い込まされました。他者に配慮したり、譲ったりするよりも、自己の権利を主張することこそが、何をおいても重要だという風潮に、社会全体が傾いていったのです。具体的な例はあげませんが、この傾向は近年ますます加速しています。
 このような現代社会の中では、もはや、日本人が伝統的に大切にしてきた「人の心を感じるこころ」が枯れてしまっています。自分の権利の主張はひかえたり、他者に譲ることを優先したりしていますと、相手はそれに乗じて、とことんまで搾り尽くそうとしてきますし、そういう「弱み」や「スキ」を見せるのは、自由競争・民主主義の世の中では、むしろ悪いことだと考えられています。
 こうした社会の中でも、たくましくサバイバルしていける「生きる力」を子どもたちにつけることが、教育には期待されており、そのように教育されて大人になった人たちが、ふたたび同じ(おそらくはより強烈な)自己拡張の教育を、次の世代の子どもたちにほどこしていくのですから、人々と社会からますます他己は失われていき、自己肥大が進むことになります。

 犯罪の凶悪化と多発を、根本的に解決し、安全で平和な社会を実現するためには、行き過ぎた自己肥大の風潮を反省し、改めて、人々が他己を豊かに回復し、「人の心を感じるこころ」をお互い働かせ合うように、大きく意識改革をしなければならないと思います。ジャーナリストの富坂氏が言うような「発想を変える」とは、新しい対症療法を考え出すことではなく、人間の精神そのもの、心のあり方そのものにさかのぼって、「どうすべきか」をそこから考え直し、取り組んでいくことに他なりません。
 自己を抑え、他己を回復し、両者のバランスをとって統合をはかるのは、知識や理屈でできることではありません。人間は、いくら「こうした方がいい」「こうすべきだ」と、頭で分かってはいても、欲望、情緒、気分などの「こころ」=情動が勝手に動き回ってしまい、それを頭で考えて制御することはできないのです。
 情動がコントロールできるようになるためには、おのれのはからいを捨てた修行による他はありません。具体的には、瞑想やヨーガなどに取り組むことです。
 また、そのようなこころを磨く努力を日々欠かさずに続けられるためには、自他の統合が成り(すなわち、人格が完成し)、相対な世界を脱して絶対な境地に至った人(私が「四聖」と呼んでおります、釈尊・キリスト・老子・ソクラテス)の説くところを信じて、従わなければなりません。
 こうしたあり方は、個々人の自由や権利を最大限に追求しようとし、あらゆる人の判断や決定がそれぞれにすばらしくて、そこに善い悪いの区別はないとする、現代民主主義の目指す方向とは、正反対です。
 いまは、日本に限らず世界中で、民主主義がさらに進展し、より洗練されていけば、世界は平和になり、あらゆる人の幸せは実現されるようになると、おおかた信じられていますが、それが実はまったくの間違いなのです。現にいま、世界中で、民主主義の名のもとに、戦争、貧富の差の拡大、経済的対立、政治的対立、民族間の対立などなどが絶え間なく起こっていますが、それは民主主義が未成熟なせいではなく、反対に、民主主義が進んできたことによって必然的に起こった現象なのです。民主主義は基本的に「和」やゆずり合いや寛容さを欠いた、自己原理でのみ動く制度だからです。犯罪の多発と凶悪化も、民主主義の進展に比例する面が大きいと言えます。

 人々が自他の統合を目指していく上で、もっとも大きな役割を担うのは、教育であると言えます。しかし、現在の学校教育が子どもたちに「生きる力」をつけることを第一の目標にしているのは先述の通りで、これはまさに自己肥大のための教育を別のことばで言い換えたものに他なりません。なるほど、人間が生きていく上で「生きる力」を身に付けることは必要なのですが、相対な存在である人間は、自分1人の力で生きているわけでも、生きていけるわけでもありません。「自分が」「生きる力」を言うのであれば、それと同じように、あるいはそれ以上に、「他者を」「生かす力」を大切にしなければならないのです。
 残念ながら、いまの学校教育では、こうした点がまったくかえりみられていません。また、小学校以前に、幼児教育の段階から、エゴの主張が礼讃されるような風潮があることは、先月号の「こころのとも」(第14巻4月号)でも述べたとおりです。
 もし今から、教育そのものが、目指す方向を転換し始めたとしましても、その向きがきちんと定まるまでには、おそらく何年、何十年という年月を要するでしょうし、社会にその成果が現れてくるまでには、さらに長い時間がかかるでしょう。
 そのための努力はもちろんなされなければなりませんが、犯罪が激化し、社会の崩壊がほとんど目前に迫っているという緊急の事態にも、私たちは対応しなければなりません。
そのため、前の方でも申しましたように、実効性や速効性を確実に期待できる対症療法にも、やはり取り組まざるを得ないと思うのです。

 はっきり申し上げれば、いまはもう、犯罪者の人権を過度に尊重している時ではありません。富坂氏によるインタビューにありましたように、金のためなら「人殺しだって何だってやる」と公言してはばからない人間が少なくない現実がある以上、相応の厳罰をもって対処する以外には、もはや手だてがないのです。アメリカでの取り組み以上に、犯罪者の人権を大きく制限する覚悟で臨まなければ、栗本氏が謳う「世界一安全な国」どころか、「世界一危険な犯罪王国日本」が実現してしまっても、いっこうに不思議はありません。
その事態への傾斜は、もう明らかに始まっているのです。
 犯歴のある者の個人情報を公開することは、いまの日本でしたら早急に導入しなければならないように思います。必ずしもそれが「善いこと」なのではなく、「必要悪」としてやむを得ないのです。そもそも、刑事罰や、警察制度自体が、必要悪なのです。
 また、刑罰を今よりはるかに重くして、3回目ともなれば終身禁固も辞さないという手法も、犯罪の抑止には効果が高いと思われます。とにかく、日本の刑法犯罪に対する刑罰は、驚くべき軽さなのです。
 藤本氏は「威嚇によって凶悪犯罪を防ぐことには限界があ」ると述べていますが、それでは「威嚇」以外の方法が、いま他にあるかと言えば、残念ながら見当たりません。
 また、刑期を延長すれば刑務所人口が激増するという、必然的な結果も藤本氏は懸念していますが、今はもう、それに対応して、2倍、3倍の数の刑務所を新たに建設せざるを得ないでしょう。予算や経費の問題が出てきますが、刑務所の数を2倍にしたら、受刑者1人にかかる費用を2分の1、あるいはそれ以下に抑えることで対応するしかありません。 いま、日本の刑務所は「ホテルのように快適」と言われているのです。刑罰のために収容する施設が、いつまでもいたくなるほど居心地のいいところであっていいはずがありません。刑期を終えて出所したら、「もう2度とあそこには戻りたくない」と、すべての元受刑者が思うようでなければ、懲役刑の意味はないのです。

 なお、藤本氏は、結論部分で次のように述べています。

 最後に、刑事政策とは別の問題ではあるが、経済状態の改善こそが、実は、最大の凶悪犯罪防止策なのだということを付言しておきたい。

 この意見は、藤本氏が冒頭部分で、「犯罪と経済状態は密接な関係にある」と述べていることに対応しています。
 たしかに、犯罪と経済状態とは関係があると思います。しかし、日本の現状をこの視点から的確にとらえることができるのでしょうか。藤本氏の意見を別のことばにすれば、景気が良くなり、株価や地価が上がり、デフレから脱却し、バブル経済期や高度経済成長期のような世の中になれば、犯罪も鳴りをひそめる、ということになります。本当にこのようなことが期待できるのでしょうか。
 終戦後まもない社会の混乱期には、刑法犯罪発生のピークの1つがありました。これはまさに、「貧しいがゆえの犯罪」が多発していた現れだと思います。そのころの貧しさと、約半世紀後の今日の豊かさとは、まさに天と地、天国と地獄の差があると言えるほどです。
 バブル崩壊後の「失われた十年」を経て、いまも経済は低迷を続けているとは言え、大多数の日本人は、相変わらずぜいたくで快適な暮らしを享受しています。犯罪に手を染めなければ生きていけない人など、まず見当たりません。政治家も、「不景気が何だ、日本には1,400兆円の個人資産がある」と、胸を張っている状態です。
 経済状態が改善されれば、犯罪も防ぐことができる、というのであれば、現在は、終戦直後と比較して、経済状態は劇的に改善されているにもかかわらず、「昨年の刑法犯認知件数は約285万件と昭和期の約2倍であり、7年連続して戦後最多を記録している」(栗本氏)、「96年以降は、刑法犯の認知件数が戦後最悪を更新し続けている」(藤本氏)という実態と、つじつまが合いません。

 犯罪の多発と凶悪化は、日本人の心の荒廃にこそ、その原因を求めなければなりません。
その荒廃は、民主主義の行き過ぎによって、大多数の日本人に自己肥大と他己萎縮が進行していることから生じており、さらにその根底には、宗教や聖なる世界を否定して、信じるものを失ったことがあるのです。



                NO.37へ       戻る       NO.39へ