ひびきのさと便り



No.39 「倫理の鉱脈」はどこにあるか @   (2003.7.8.) 

 いま、「倫理」というものに対する人々の関心は、ある面でかなり高まっている、と言えます。景気はいっこうに回復せず、企業の不正や倒産が相次ぎ、政治家や公務員の不祥事が次々と明るみに出、教育はほとんど混乱の極に達し、北朝鮮やイラクやアメリカなどへの対応をめぐって外交は右往左往を繰り返し、犯罪の凶悪化や低年齢化、および検挙率の低下は止めようがないほどです。
 そういう国内情勢、国際情勢の中にあって、倫理の問題があらためて注目されるようになっている、と思うのです。
 ちなみに、「倫理」ということばの意味を、『広辞苑』で確認しておきますと、次のようにあります。

りん‐り【倫理】
 @人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。
 A倫理学の略。


 さて、しばらく前のことなのですが、今年1月の上旬に、毎日新聞の「文化 批評と表現」欄は、「黒井千次 連続対談 2003年 幸せのカタチ」という3回のシリーズを組みました。ゲストを迎えた黒井千次氏は、日本文芸家協会の理事長を務めておられる作家で、2002年6月9日の毎日新聞「ひと」欄に載った紹介によりますと、「1932年東京生まれ。代表作に『五月巡礼』『群棲』(谷崎賞)『羽と翼』(毎日文芸賞)『横断歩道』など」とのことです。
 1月9日に掲載された最終回は、黒井氏と、国際基督教大学教授で科学史および科学哲学が専攻の、村上陽一郎氏との対談でした。村上氏のプロフィールは、そこでは以下のように紹介されています。
 「1936年、東京生まれ。東大大学院博士課程修了。・・・近代科学に対する過度な信頼を批判する視点から活発な問題提起を行っている。著書に『生命を語る視座』『近代科学と聖俗革命』など」

 この対談には、次の見出しが大きく掲げられていました。

 新しい倫理の鉱脈を求めて

 対談の導入部では、構成した記者が次のように述べています。

 人間の欲望はどこまで行くのだろう。技術の果てにあるものは? ・・・自然と人間の新たな関係を求めて、2人は近代文明と戦後日本の歩み、私たちの心根へと分け入った。

 対談の本文を引用させていただきながら、そこで話し合われたことについて考察をしていきたいと思います。冒頭から見てまいりますと、以下のようです。

黒井氏  ・・・最近のご著書で(村上氏は)自然と人間の行為の双方を相手にしないと 今の文明を語れないと指摘されていますね。・・・
村上氏  自然のままに放っておかれる状態を負の価値とし、それを人間の手で都合の良 いように作り直すことが文明の一面だと私は考えています。文明が進めば必然的に人為 的要素は増えていきます。その中で、「敵」である自然に対して作ったものの中に人間 を脅かすものが出てきた。・・・
黒井氏  物がなかった時代に考えられたより良き未来は、食べ物や着る物があるといっ た物質的な条件だったと思います。満たされると、もっと別のものを探さなければなら なくなった。それは何かという問題に直面した時、幸せの条件と思われていたものが幸 せそのものを突き崩し始めた。一体どうすればいいのかというところに今、立っている と思います。・・・
村上氏  出産にも人間の手が加わるようになったのが、極限状態にある現代の文明です。 そうなった理由は、欲望の解放にあるのではないか。かつては宗教が規制を加えていま したが、一度捨てた宗教に戻れるかというと、なかなか難しい。
黒井氏  もはや宗教にそれほどの力はないとしても、精神的な何かには可能かも知れない。
(下線は筆者、以下の引用でも同じ)

 この部分を読みますと、おふたりの宗教に対する立場や考え方が、とてもよく表れているように思います。それは、何もこのおふたりに特殊なのではなく、現代の多くの人々に共通するものであり、世界全体に広まりつつある(国や地域によって濃淡の差はあると思いますが)立場であり、考え方であると言えます。
 これはつまり、宗教が、人間生活を快適で便利にするための、手段としてしか捉えられていない、ということになると思います。生活上の利便性、快適性、享楽性をひたすらに追求し、実現することを目指してきたのが現代文明の姿であり、そのことには村上氏も別の言い方で触れていますが、宗教もまた、その文明の中に組み込まれて、結局のところ欲望の追求に奉仕するものに過ぎない、と、理解されているのです。断言するのは少々いい過ぎかも知れませんが、そういう傾向があるように読み取れます。
 宗教によって、人間の欲望が規制されてきたことで、これまでは多くの人間が「幸せ」に暮らしてこられた(あるいは「幸せ」だと思い込んできた)のだけれども、その宗教を捨ててしまい、「欲望の解放」が起こったことで、「一体どうすればいいのかというところに今」、立たなければならなくなってしまった、と述べられています。
 そうは言っても、「一度捨てた宗教に戻れるかというと、なかなか難しい」し、そもそも、「もはや宗教にそれほどの力はない」と考えられているのです。そこで、宗教以外の「精神的な何か」に、欲望のコントロールが「可能かも知れない」という期待が出てきています。
 現代文明と、それを支える思想や社会制度(すなわち、現代民主主義)の延長線上に、ふたたび幸せを回復することができるはずであり、その方策をどこに求めたらよいかという考えが、対談のベースにある、と言えます。

 前述の発言に続いて黒井氏が問いを発し、村上氏がそれに答えます。

黒井氏  人の生き抜く道としての倫理が、近代的な知性によって生み出されるかも知れないという可能性は?
村上氏  残念ながら、その答えは私も持ち合わせていません。19〜20世紀の哲学者たちは、欲望を抑制するメカニズムを理性で生み出そうとして苦闘しました。倫理の原則として、「他人に迷惑をかけなければ何をしても良い」とよく言われます。もちろん、してはいけないという意味での原則です。宗教的原則によらない倫理基盤が説かれてきたのは確かだし、倫理学は一応それで成り立っています。しかし、一般の人がその通り行動するとは限りません。


 村上氏は、「他人に迷惑をかけなければ何をしても良い」(=「他人に迷惑になることをしてはいけない」)という、「倫理の原則」を一例としてあげています。「宗教的原則によらない倫理基盤」の例でもあり、「倫理学は一応」このような宗教的原則によらない倫理基盤で成り立っている、という説明です。
 「他人に迷惑をかけなければ何をしても良い」といいますのを、憲法で見れば、「公共の福祉に反しない限り」ということばに当たると思います。憲法第13条は、「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利」について、次のように規定しています。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 村上氏は、「一般の人がその通りに行動するとは限らない」と述べています。現実の社会では、「迷惑をかけずに行動するとは限らない」どころではなく、ひと昔前なら「常識」では考えられなかったような行為でも、まさに「人の迷惑もかえりみず」、社会的な場で堂々と繰り広げられているのが実状です。
 コンビニエンスストアに集まってくる、おもに若い人が、駐車場にたむろしてゴミや空き缶を残していったり、これもやはり若い世代に多いと言えますが、列車の通路や歩道などに直接すわり込んでものを食べたりおしゃべりしたりするなど、数年前でこそいろいろ話題になりましたが、いまではそんなことを問題視する人の方が少数派になりつつあります。
 他者や社会に迷惑なのかどうか、という基準が、大きく変わってきたと言えます。以前は、他人に直接の損害を与えるようなことでなくても、たとえば「見苦しい」とか「みっともない」などと言って、服装や立ち居振る舞いまでが、「迷惑かどうか」という見方をされていました。いまや「みっともない」という言葉そのものが死語になりつつあり、むしろ、それこそが個性であって、もっとあからさまにしたり、堂々と発揮したりすべきだと考えられるのがふつうにすらなっています。

 これは、善悪、真偽、正邪の判断が、あくまでも個人の「良心」にゆだねられているところから出てくる、必然的な結果だと言えます。「良心の自由」については、憲法第19条で、次のように定められています。

第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 自分の行為が「公共の福祉に反」しているかどうかは、自分の良心にしたがって判断することになります。これは、実際的には、法律に触れるかどうかで判断するしかない、ということになっていくのではないでしょうか。あるいは、法的に罰せられることもいとわないのであれば、訴えられたり逮捕されたりすることも承知、覚悟の上で、「良心」にしたがい、違法行為にのぞむ、ということも起こります。良心が、「公共の福祉に反していない」と判断すれば、処罰されることはあっても、その「良心」までもが侵されることは、決してないわけです。
 こういうことが倫理の原則なのであれば、他人に迷惑をかけるかどうか、などということは、吹けばとぶような軽い問題になってしまうのが、当たり前と言えば当たり前だと思います。

 また、村上氏は、「19〜20世紀の哲学者たちは、欲望を抑制するメカニズムを理性で生み出そうとして苦闘」した、と述べていて、その「苦闘」が実を結ばなかったことが暗黙のうちに示されているようです。しかし、なぜそうなってしまったのか、については、とくに何も話されておらず、「宗教原則によらない」ことに限界があったのかどうかも、直接的には考察の対象にされていません。
 自己・他己双対理論と「人間精神の心理学モデル」では、「欲望」は意識レベルの基礎である情動−感情(こころ)の中の、自己の情動に属しています。そして、「理性」は、認知−言語(あたま)と、自我−人格(たましい)との協同による働きです。
 精神機能領域のいちばん上に位置している自我−人格は、精神全体をコントロールし、モニターする働きを担っており、欲望など、自己のこころの動きである情動も、やはり自我−人格の統制を受けます。しかしながら、自我−人格の働きだけで、十分に情動をコントロールしようとしても、それは不可能なことです。もちろん、知識が豊富になり、教養が高まって、認知−言語の能力が向上しても、同じことです。平たく言えば、いくら頭がよくても、欲望に流されない生き方ができるわけではないのです。かえって、知能や技能が高まると、それらを使って、より巧みに、より多くの欲望を満たそうとするのが、現実に見られる、多くの人々の姿です。理性が欲望を抑制するどころか、むしろかき立てることにすら、なりかねません。
 欲望から離れよう、欲望がわいてこないように抑え付けよう、と、いくら意識的に努力しても、その通りにはできません。キリストの弟子であったパウロが、「精神には神が宿っていて、善を為そうとするのに、肉体に宿った悪魔が、悪を為さしめる」と嘆いたとおりになってしまいます。私が四聖と呼ぶ1人である、キリストの弟子にして、こうなのです。

 なぜなのでしょうか。それは、精神の根源にある、無意識の世界の統合が成っていないからです。人間精神の心理学モデルでは、無意識の世界に、自己モーメントの煩悩蔵識(個人的無意識)と、他己モーメントの如来蔵識(集合的無意識)を仮定しています。人間は、ごくふつうに成長していきますと、次第に自己の煩悩蔵識の肥大と、他己の如来蔵識の萎縮が起こる傾向がある、と言えます。技能や知能が発達して、いろいろなことができるようになっていくといいますのは、自己肥大と他己萎縮が起こる、ということでもあるのです。
 意識下で、本人の知らないうちに、煩悩が大きくなり、如来の輝きがおおい隠されて、だんだんに輝きを失っていきます。現代はそれに加えて、民主主義という、自己拡張を徹底的に目指す社会制度のもとで、子育てや教育が行われていますから、意識できる領域においても、自己の肥大と、他己の萎縮が進んでいます。そして、ほとんどの人が、そのことを良しと考えています。 
 意識のコントロールが及ばない領域において、自己が肥大しているのであれば、どれほど理性でどうにかしようとしても、欲望の抑制は、根本的には不可能だと言えるのです。

 欲望をコントロールして(自己統制)、人の心を感じるこころを豊かに働かせる(他心感応)ことができるためには、意識できる世界で努力をしても、すぐ限界に突き当たってしまいます。パウロが悩み、哲学者たちが苦闘してきたとおりなのです。
 意識であれこれはからうのではなく、そうした努力やはからいの及ばない、無意識の世界に沈潜することが、どうしても必要です。それは、たとえばヨーガや、瞑想や、坐禅や、お祈りや、読経や写経などの、宗教的修行によるほかはありません。もちろん、お断りするまでもないと思いますが、「○○教」「○○宗」といった、特定の宗派にこだわったり、片寄ったりするのは無用のことです。むしろ、そうしたこだわりが、修行の妨げになる場合もしばしばだと思います。
 また、修行への動機づけや、修行を続けられるための心のありようとして、「信じる」ことが決定的に大切です。
 無意識のレベルにおいて自己と他己の統合が成る、といいますのは、いくら考えてみても、自分では「意識できない」ことであり、その境地に達した人でなければ決して分からない世界です。そこに至っていない、圧倒的多数の人々にとっては、そういう境地がある、ということを、ただ「信じる」以外にはありません。しかし、科学文明とその発展を最高のものと見なしている現代人にとりましては、科学的、物理的に実証できないことを信じるのは、ほとんど不可能と言って差し支えないほど、困難なことです。
 これもまた、欲望の抑制と同じく、いくら理性で「信じよう」と努力しても、こころは勝手に動いてしまい、疑いや、人によっては軽侮の念がわき起こってくるのを抑えることが、なかなかできません。
 そうなりますと、「いくらがんばってみても、自分にはとうてい信じることができない」ということで、「もうやめた」と、あきらめてしまう、といいますか、開き直ってしまう人が少なくないわけです。在家の人ばかりでなく、人に教えを伝え広めるのが本分である宗教家の中にすら、このようなことを公言してはばからない人が見受けられます。
 信じることが難しいのはたしかなのですが、そうは言いましても、信じることをやめてしまったら、もはやそれまで、であるわけです。望ましいのは、幼い頃から生活のさまざまな場面で、自然なかたちで信仰にふれていくことだと言えます。これは、いまの日本人の生活の中からは、ほとんど消滅していますし、教育からも徹底的に排除されています。そしてまた、やり玉にあげるように思われるかも知れませんが、今回とり上げました対談で、黒井氏と村上氏が話されているように、「もはや宗教に力はない」と考え、発言する人が少なくないわけです。
 宗教に力がなくなった、というより、人々から、人間を超えた存在を信じて従おうとする心が失われたことこそが問題とされなければならないのですが、そうした視点もまったく欠落しています。
 こうした現状では、人間が謙虚さをとりもどす機会は、ほとんどなくなってしまったと言わざるを得ません。謙虚さを失い、ごう慢になった人間は(本人にその自覚があるとないとにかかわらず)、どうしても、他者をないがしろにし、自分の欲望や栄達などのための、手段として用いるようになっていきます。自己肥大、他己萎縮の必然的な結果と言えます。
 有名な哲学者であるカント(1724〜1804)は、かんたんな言葉にしますと、「他者を手段ではなく、目的とせよ」と述べましたが、現実の社会では、カントの言ったこととは正反対になっています。また、「自分がしてもらいたいと思うことを、他者に対してせよ」とも言いました。これは「黄金律」と言われるもので、聖書にも同様の教えがあります(マタイ福音書第7章12節、「こころのとも」第9巻3月号の「『聖書』解説」をご参照くださればと思います)。
 しかし、カントのあとに出たヘーゲル(1770〜1831)にいたっては、「戦争こそが文化を発展させる」と、黄金律にまったく反することを言っているのです。「頭の良い」哲学者たちが、どれほど知識や理性によって理屈をひねってみても、かえって過ちを犯してしまうことの、いい(悪い)例だと思います。

 対談の続きを見てまいります。村上氏は、若者の携帯電話を使ったやりとりや、中国の一人っ子政策が、子どもの脳にとって負担になっていると、「脳生理学者らが心配して」いることなどを例としてあげ、「人間としてのつながりを実感する前に、バーチャルな空間で何かを共有しあっている状況は怖い」、「似た年代の人間同士のコミュニティーをないがしろにした」と述べています。それを受け、対談は次のように進みます。

黒井氏  ・・・戦前までは、家庭や近所づきあいの中で引き継がれたものが共通の気持ちのあり様としてあった。・・・封建的なものは駄目でデモクラシーでなければいけないというのが戦後民主主義のスローガンでした。あの時に否定したものを見直さないと、いろいろなことが分からないと感じているのです。
村上氏  この間、新渡戸稲造の『武士道』を学生たちに読ませてみたのですが、かなり違和感があるらしい。「武士道」という感覚は、若い人にはもう分からなくなりかけています。新渡戸がなぜ『武士道』を書いたかというと、「宗教がない日本社会で、どう して倫理が成り立つのか」と海外で言われたことがあるからです。そこで新渡戸は、宗教の役割を日本では武士道が果たしていると考えた。明治・大正までは、庶民にもそれが語り継がれてきたのではないでしょうか。・・・
 ・・・我々は
(武士道やその感覚を)上の世代から聞かされましたが、それを本気で語り継いでこなかった・・・。
黒井氏  時代の雰囲気を考えるとそれは非常に難しかったし、誤解されることもあったでしょうね。
村上氏  今でも誤解されると思います。
  

 私はここを見て、新渡戸稲造が『武士道』を書いた動機に、たいへん関心をもちました。そして自宅の書庫に行き、『武士道』を出してきて、さっそく読んでみました。すると、序文の冒頭に、たしかに村上氏が対談で言われたようなことが、新渡戸自身のことばとして書かれてありました。
 ただ、ここで『武士道』や、新渡戸の考え方にふれ出しますと、おそらくかなり長くなってしまいますので、今回は黒井氏と村上氏の対談に考察の焦点をしぼることにし、次回、この続きとして、『武士道』の内容をとり上げたいと思います。

 対談は、黒井氏が先に述べた、欲望を規制できるような「精神的な何か」「共通の気持ちのあり様」は、どこに求められるのか、という話し合いへと展開します。

黒井氏  ・・・極限状態に追い込まれた時に現れる心の能力があるのでしょう。それがある限り、いつかは鉱脈にぶつかるかもしれない。・・・
村上氏  一つのポイントは倫理的な判断をする時、我々は「美しい」という言葉を使うことです。あの人は美しいと言うと、高い倫理観があるという意味に近くなります。も う一つは、「自然」という言葉です。不自然だからやめる、自然でいいという言い方ですね。そこに含まれる心のあり様は日本人の中にいつもあって、何かの拍子に現れてくるのではないでしょうか。・・・
  我々は何かを自分の中に見出さなければならないと、感じてはいる。しかし、具体的に満たされるものが見つからないという状況は深刻です。ある調査によると、将来を明るいとみる人々は韓国などの70%に比べ、日本では30%台しかありません。
黒井氏  日本は「悲観先進国」みたいなものですね。
村上氏  その意味では、環境問題は人類社会が変わっていくための重要なきっかけではないかという気がします。・・・
  私は毎日新聞で、「21世紀を幸せにする科学」という中高生の懸賞論文の選考委員をしています。昨年、目立ったテーマは環境問題でした。言葉は違っても同じような夢を語っていると知って、明るい気分になりました。
黒井氏  そういうものが日常生活の中で見られるといいですね。特殊な問題を突き付けられた時でなく、手を洗うとか一つ一つの行動の中に。
村上氏  そうなった場合、私は新しい人類倫理といったものが出てくると思います。
黒井氏  本当は、それを倫理という言葉で呼ばない方がよいのかもしれません。それこそ、自然な生き方に光が当たるのを見たいですね。
 

 将来を悲観的に考える人が、海外に比べて抜きん出て多いということは、現在の日本で広く見受けられる現象です。村上氏があげたものの他にも、このことを示すデータにはしばしば出会います。
 一体どうしてこういうことになるのでしょうか。よく言われる原因の1つに、日本は急速に豊かな社会を実現し、生きがいや目標を見失ってしまったから、というものがあります。たしかに、アメリカに次ぐ経済大国である日本で、現実に将来を悲観する人が増えているのですから、豊かさにそうさせる何かがあることは言えそうです。
 しかし、もう一歩考えを進めて、物質的、経済的に豊かになると、どうして人間は将来を悲観するようになるのでしょうか。こうなりますと、私はこれまで、十分に納得できる解答に出会ったことがありません。
 ごく単純に、豊かさが人間を悲観的にするのであれば、アメリカ人は日本人以上に将来を悲観していなければつじつまが合いません。しかし現実は違います。村上氏の話に出てくる韓国にしても、GDPなどでは日本より下位とはいえ、経済的な豊かさはかなりの水準に達しています。高速インターネットの普及率では、日本をはるかに引き離しているほどです。繰り返しになりますが、豊かさは悲観的な発想の、原因の1つになるかも知れないにしても、それだけでは十分な説明がつきません。やはり、人間の心のあり方そのものに、原因を求めなければならないと思うのです。

 そもそも、将来、すなわち未来という時間は、人間にとってどういう意味をもっているのか、ということが問われる必要があります。これは、「時間論」という、哲学上の問題になります。
 私は、自己・他己双対理論に基づいて、まったく独自な時間論を構築しています。いまの時点では、その論文*をホームページ上で公開しておりませんが、ご関心がおありの方は、お申し付けくださればコピーをお送りいたします。
 その時間論の骨子は次のようです。
 自己・他己双対理論でいうところの、「自己」は「未来」を、「他己」は「過去」を形成する働きを担い、そして、自己(未来)と他己(過去)の弁証法的運動とその統合の過程が、「現在」を生み出していきます。
 自己は自分の生を追求しようとする主体的、主観的な働きですし、一方の他己は他者を求め、法や他者の期待・要請に応えて行動しようとする客体的、客観的な働きです。自己が未来を形成するのは、自己の可能性を追求して生きていこうとする期待や予期の働きによります。また、他己が過去を形成するのは、他己が自分のなしてきたことを客体化する働きによります(すこし補足しますと、たとえば個人的な経験や行為の積み重ねも、習慣となってそれに従うようになりますから、それが他己となっていく、ということです)。
この、自己=未来と、他己=過去との統合が現在となるのです。

 現代人は自己を肥大させて、他己を萎縮させており、日本人においてそれはとりわけ顕著な傾向です。法や伝統や慣習に従うよりも、個人的な判断を優先させるべきであり、そうできることこそ素晴らしい、とされています。そのために、知識を増やし、教養を高め、「賢明」になることが目指されるのです。これが民主主義の考え方であり、さらにそのルーツである啓蒙思想の述べるところです。
 こうなりますと、過去=他己が軽んじられ、さらにはないがしろにされていくことは明らかです。先ほど申しましたとおり、過去=他己と、未来=自己の統合として、現在があると考えられるのですが、過去を喪失していくことで、バランスの片方を欠いてしまうために、現在という時間が、きわめて危ういものとなって来ます。過去と未来の統合ができなって、充実した現在、意味ある時間としての現在が失われてしまうのです。
 過去を失い、現在にも実感や手ごたえを感じられないとしますと、残るのは未来だけ、ということになります。しかしそこには、過去と統合されることのない未来が、自分の思いとしてのみ、あるわけですから、すぐにでも実現されるべき、猶予のない未来が、いつでも「いま、ここ」に、「私」に対して迫ってくる、ということになるのです。

 ここで話がすこし横道にそれるのですが、先日、文春新書として発行されている『寝ながら学べる構造主義』(2002年)という本を手に入れました。著者は、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授で、フランス現代思想、映画論、武道論がご専門の内田樹(うちだ・たつる)氏です。
 構造主義とは何か、内田氏がこの本でどのような論を展開されているか、等のことは、ここではいっさい割愛させていただいて(機会がありましたら考察したいと思います)、
私が関心を抱いた部分を引用させていただきます。

 私たちは、歴史の流れを「いま・ここ・私」に向けて一直線に「進化」してきた過程としてとらえたがる傾向があります。歴史は過去から現在めざしてまっすぐに流れており、世界の中心は「ここ」であり、世界を生き、経験し、解釈し、その意味を決定する最終的な審級は他ならぬ「私」である、というふうに私たちは考えています。
 「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えをフーコー**は「人間主義」(humanisme)と呼びます。(これは「自我中心主義」の一種です。)
 「人間主義」とは、言い換えれば、「いま・ここ・私」主義ということです。「いま・ここ・私」をもっとも根源的な思考の原点と見なして、そこにどっしりと腰を据えて、その視座から万象を眺め、理解し、判断する知の構えをフーコーは「人間主義」と呼んだのです。この人間主義的歴史観によれば、歴史は次々と「よりよいもの」、「より真実なもの」が連続的に顕現してくるプロセスとして理解されます。(だって、「いま・ここ・私」がすべての基準なのですから、それが最高到達点であることは自明の前提です。)
 フーコーはこの人間主義的な進歩史観に異を唱えます。・・・
 「歴史の直線的推移」というのは幻想です。
 というのは、現実の一部だけをとらえ、それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限り、歴史を貫く「線」というようなものは見えてこないからです。選び取られたただ1つの「線」だけを残して、そこからはずれる出来事や、それにまつろわない歴史的事実を視野から排除し、切り捨てる眼にだけ「歴史を貫く一筋の線」が見えるのです。・・・
 歴史の流れが「いま・ここ・私」へ至ったのは、さまざまな歴史的条件が予定調和的に総合されていった結果というより、・・・さまざまな可能性が排除されて、むしろどんどんやせ細ってきたプロセスではないのか、というのがフーコーの根源的な問いかけです。
 フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。・・・
 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点・・・にまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カッコに入れて」、歴史的事象そのものにまっすぐ向きあうという知的禁欲を自らに課さなければなりません。
(『寝ながら学べる構造主義』 pp80〜86)

(**フーコー【Michel Foucault】フランスの哲学者。構造主義哲学の代表者の一人。狂気と理性、知と権力などについて批判的歴史的研究を行なった。著「狂気の歴史」「言葉と事物」「監獄の誕生」「性の歴史」など。(1926〜1984) 『広辞苑』)

 長くなりまして恐縮です。フーコーが批判した「いま・ここ・私」主義、人間主義的な進歩史観は、きわめて自己に閉じた考え方です。「『いま・ここ・私』をもっとも根源的な思考の原点と見なして、そこにどっしりと腰を据えて、その視座から万象を眺め、理解し、判断する知の構え」といいますのは、デカルトのことばである「われ思う、ゆえにわれ有り」を思い起こさせます。
 そのような見方では、真の歴史をとらえることができないのではないか、と、フーコーは異議を唱えたようです。それでは、フーコーが提案する、歴史上のその時点までさかのぼり、考察する主体=「いま・ここ・私」をカッコに入れて、歴史事象そのものにまっすぐ向きあう、という態度が、本当に可能だと言えるのでしょうか。あるいは、もし可能だったとしても、そうすることが、現実に生きている人間にとって、どれほど意味のあるものになり得るのでしょうか。
 フーコーの言わんとすることをかんたんに表現するなら、歴史を見る際、規制の枠組みを捨てて、ただ歴史事象そのものだけを直視せよ、ということになろうかと思います。しかし、個人個人が、何ら視点も立場も持たず、好きなように歴史を見、解釈したらどうなるでしょうか。真に客観的な判断ができるのでしょうか。
 くわしい考察は別の機会に譲ることにしますが、結論的に言えば、フーコーや構造主義者の主張も、「自己を捨てよ」と言っているようでありながら、めぐりめぐって自己に執らわれた見方に陥ってしまう限界があるもののようです。
 時間や歴史に関する、従来の思想や哲学は、さまざまな試みにもかかわらず、自己に閉じた観点から脱することができていません。時間も、歴史も、精神としての存在である人間に固有なものです。つまり、精神のあり方を統合的にとらえられない限り、人間にとって本当に意味のある時間や歴史は、理解できないと言えるのです。

 話を将来への悲観に戻しますが、未来はいつでも、「未(いま)だ」「来ざる」時間ですので、不安に満ち満ちています。こうあって欲しい、こうあるべきだ、と期待して、そこに依存したい、そして安心を得たい、自分の存在をたしかなものにしたいと切望しても、その願いが実現するという保証はありません。
 他己を失い、自己に閉じた人間には、未来しかないのですが、未来に定位しようとすればするほど、かえって不安が増大してしまうのです。たいていの場合、人々はその不安から逃れるために、刹那的な享楽に身を任せます。過食、薬物依存、性や暴力やスポーツの追求などなどによって、欲望を直接的に、ただちに満たさなければ耐えられなくなっている、と言えます。そして、経済的に豊かになったことで、ごく簡単に、刹那的な欲望を満たすことができる世の中が実現されました。しかし、欲望は、満たせば満たすほど、渇きがますます強まっていきます。ビールをぐっと飲み干したとたん、もう次の1杯に手が伸びるようなものです。つねに、貪欲に渇きを満たし続けていなければ、我慢ができません。
 こうして、未来しかないのに、その未来には夢も希望も抱けないのです。日本人は、世界でもっとも自己肥大が進行していることと、同時に世界でもっとも、将来に対して悲観的であることとは、このように統合的なとらえ方ができる、と考えられます。

 黒井氏が、「日本は悲観先進国みたいなものだ」と述べたのを受けて、村上氏は、環境問題に、「人類社会が変わっていくための重要なきっかけ」が求められるとしています。どうしてこのような発想になるのか、この対談を読んだだけでは、釈然としないものがあります。環境問題に取り組むことで、なぜ将来への悲観を払拭できると言えるのでしょうか。
 そこで、新渡戸稲造の『武士道』といっしょに書庫から出してきました、村上氏の著書『科学者とは何か』(新潮選書,1994年)を読んでみました。するとその中に、村上氏の考え方を理解する助けになりそうな記述がありました。それは、次のような部分です。

 ・・・今日の「環境問題」の・・・顕著な特徴は、現実に、今被害に苦しむ「被害者」が多数存在するという状況であるよりは、むしろ何世代か後の、われわれにとっては未だ見ぬ未来の子孫たちにとって、大きな被害があり得るかもしれない、という可能性に対しての考慮であり、配慮であるという点である。・・・
 ・・・一般論としては、「環境問題」として捉えられている問題が、未来志向であることははっきりしている。そのことは、科学的に正確な因果関係が現在は特定できない場合でさえ、もしことが悪い方に運んだときに、今対策を講じて置かなければ、将来間に合わなくなる惧れがある、という認識が、「環境問題」の背後にあることと無関係ではないだろう。
 その意味では、ようやく人間は、現在の自分たちの利益や福祉ばかりでなく、遠い未来の子孫たちの利益や福祉にまで、心を配ることを考え始めたのだと解釈することもできるだろう。
(『科学者とは何か』pp146-147)

村上氏によれば、環境問題は、未来を志向するもの、すなわち何世代も後の子孫たちのことに配慮するゆえに出てくるものであるから、多くの人が将来を悲観している日本の現状や、ひいては人類社会全体のあり方を変えていく可能性を有している、ということになります。
 しかしながら、ここで決定的に問題となりますのは、村上氏の考え方が、きわめて自己に閉じたものであることです。
 村上氏は、現代人が、まだこの世に生を受けていない、遠い未来の子孫たちの利益や福祉にまで、心を配ることを考え始めたことに、希望を見出そうとしています。それが、この対談記事の見出しで言う「倫理の鉱脈」であり、村上氏の発言の中でいえば「新しい人類倫理」と考えられているのです。
 しかし、対談や著書を読む限り、村上氏は、環境や自然といったものが、人間の利益や福祉に奉仕すべきもの、言い方を換えますと、人間はみずからの利益や福祉のために、どこまでも環境や自然を利用すればいい、と考えているようです。実は、人間こそが環境によって守られ、環境によって生かされている存在なのですが、残念なことに、そうした謙虚な自覚が、村上氏の発言には見当たりません。人間が環境を保護すべきなのは、あくまでも、自分たち自身や、将来の子孫たちの利益を守るためである、という考え方を、一歩も出ていないのです。
 人間は、無意識での自己と他己の統合が成りますと、自分自身への執着から離れることができ、自分が生きることと、他者が生きることとが等しくなる境地に至ります。それは、自分自身と、社会や環境とが一体であると実感できる境地でもあるわけです。
 自己に執らわれた人間は、どこまでも環境や自然をむさぼり、利用し、そこから収奪し続けることになってしまいます。対談を引用させていただいた中に、人間の文明にとって、自然は「敵」である、とありました。こうした姿は、自己のもう一方に他己を宿しているという、人間の根源的なあり方に、まったく反しています。
 あらゆる人が、必ず、自他の統合された境地に到達できるとは限りません。しかし、そうした心境に至った人(聖人)の説くところを信じ、それに従って生きていこうと精進を重ねているとき、すでに限りなくその境地に近づいていると言えます。それはつまり、実際の生活の中で、間違いを犯したり、悪を為したりすることがなくなる、ということなのです。

 こうしたことを自覚したり、反省したり、自分の心を磨く努力や精進のないまま、つまり自己に閉じこもってそこに安住したまま、子孫の利益や福祉をたしかなものにしたいという欲求に基づいて環境問題に取り組むのでは、そこに他己が回復されることはなく、さらなる自己肥大が生じる危険性があるばかりだと思います。
 人間の利益を確保するための環境対策など、すぐに限界が来ますし、実際に有効となることもありません。地球温暖化を防止しようとする京都議定書でも、決めることは決めたものの、ろくに守られていません。そもそも、国益の確保を前提として環境問題を話し合うということ自体が、本末転倒なのです。
 人間としてのあり方を見失い、環境に生かされていることを忘れて、「環境を保護する」などと言いますのは、ごう慢のきわみであるとしなければなりません。自分自身が善い人間になろうとする努力もせず、自分の頭の上のハエも追えない人間が、自分を生かしてくれている環境を保護するなど、本来できるはずのないことなのです。
 きびしいことばかり書くようですが、対談しているお二人が述べているような、「手を洗う」などの日常行動の中から「新しい人類倫理」が生まれることなど、あり得ません。もしそれが可能ならば、環境問題など、とうに解決しているはずです。
 「環境を大切に」「地球にやさしく」「自然との調和」「省資源」「リサイクル」などなど、かけ声だけは、いまも世間に満ち満ちています。しかし、現実がまったくそうなっていないことは、多くの人が認めるところだろうと思います。
 なぜそうなってしまうのでしょうか。それは、根本的に、人々が自己に閉じ、他己を失っているからです。自己肥大(閉鎖)、他己萎縮(喪失)という共通の根っこから、環境破壊や、未来への悲観など、あらわれは異なった問題が発生しているのです。
 こうした問題を解決するには、1人ひとりが、真の、人間らしい人間、本当の善い人間にならねばなりませんが、それは、自然に実現できることではありません。また、知識や教養を豊かにして可能になることでもありません。
 真の人間、本当の善い人間になった人々(四聖)の教えを信じて、自己のはからいを捨て、ひたすらな修行に励むことこそが、大切なのです。
 黒井氏と村上氏の言う、「倫理の鉱脈」も、それ以外のところにはありません。



*中塚善次郎・大田雅美・大向裕美・木村みどり・上松育代(1997) 障害児教育を効果的にするためのコミュニケーションの研究(T) −自閉症児の時間障害を理解するための時間論の構築−,鳴門教育大学学校教育研究センター紀要,11,75-84




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