ひびきのさと便り



No.35 迷走する司法@ −新潟女性監禁事件控訴審判決− (2003.1.21.)

 以前、本欄の第13回に、「条文金科玉条主義」と題する評論を載せました(2002年1月29日)。これは、2000年の1月に発覚しました、新潟県での女性監禁事件に関し、新潟地裁が佐藤宣行被告に対して懲役14年の判決を言い渡したこと、および、当時の毎日新聞社説(2002年1月23日付)が、「量刑には疑義がある」「上級審の判断を仰ぎたい」と述べていたことを取り上げたものです。くわしくはそちらを参照していただければと思います。
 この事件の控訴審判決が、昨年12月に下されました。内容は、産経新聞の報道によりますと、次のようになっています(2002年12月11日付。以下、この事件に関する引用は、他紙についてもすべて同日です)。

新潟女性監禁/一審破棄、懲役11年に減刑/東京高裁判決「法定刑超え違法」/併合罪適用に課題残す/
 新潟県柏崎市の女性が小学校4年の時から9年2ヶ月にわたって監禁された事件で、・・・控訴審判決が10日、東京高裁であった。山田利夫裁判長は「一審判決の量刑には違法がある」とし、懲役14年の実刑とした一審判決を破棄、懲役11年を言い渡した。


 裁判の過程や判決理由については、次のように報じられています。

 監禁致傷罪の最高刑は懲役10年だが、検察側は下着を盗んだ窃盗罪で追起訴し、最高刑がもっとも重い罪の1.5倍になる刑法の併合罪規定で懲役15年を求刑。この主張をほぼ認めた一審・新潟地裁判決の量刑を、どう判断するかが最大の争点だった。
 判決理由で山田裁判長は、一審が「法定刑の範囲内では適正妥当な量刑ができない」としたうえで懲役14年としたことについて、「併合罪について解釈を誤った結果、逮捕監禁致傷罪について法定刑の上限である10年を超える趣旨のものと言わざるを得ない」と判断。逮捕監禁致傷を最高刑の10年、窃盗を同1年と指摘した。・・・
 ただ、山田裁判長は佐藤被告の行為については「情状酌量の理由があるわけではなく、1人の人間の人生を台無しにしてしまったことを自覚すべき」と厳しく述べ、今回の事件について「法の予想を超える著しく重大で深刻なもの。法的刑が軽すぎるとすれば、将来に向けて法改正をするほかない」と言及した。
(下線は中塚、以下の引用においても同じ)

 産経新聞は同じ欄で、今回の判決についての解説と、識者のコメントも掲載していますので、そちらも引用させていただきます。

 ・・・東京高裁は、わずか2,400円の窃盗罪の懲役はせいぜい1年と判断して懲役11年を言い渡しており、この計算からすれば一審判決は、窃盗罪1年と逮捕監禁致傷罪13年の懲役を言い渡していることになる。高裁が「法定を超えて刑を言い渡すことはできない」と一審判決を破棄したのは、こうした理由だ。
 9年以上も監禁された女性に配慮した「被害者の救済」と「法の厳格な適用」との距離が浮き彫りになった形だ。・・・
 ・・・元東京地検特捜部長の河上和雄弁護士は・・・「ひと言でいえば『裁判官の非常識』。法律の細かな条文にとらわれて、事件の全体像を的確にとらえることができなかった。残念な判決」と批判する。
 ただし、法律関係者の間からは的確な法律の運用を求める声もある。弁護士でもある井戸田侃・大阪国際大教授(刑事法)は「一審判決は『脱法的』。逮捕監禁致傷罪の最高刑10年を最大に考慮し、わずかな額の窃盗罪を併合した高裁判決の方が妥当といわざるをえない」という。
 そのうえで、「法治国家である以上、刑罰は法の範囲内で科すべきで、今後は法を改正していくしかない」と話した。


 引用が続きますが、産経新聞としては、この判決をどう捉えたのかということが、社説である「主張」欄に掲載されています。

やはり法の改正が必要だ/
 もう少し被害者の処罰感情に立ち、人間味のある判決を下せなかったのだろうか。法律を厳格に解釈し過ぎた判断だ、との印象はぬぐいきれない。・・・
 事件の重大性、特異性や世間に与えた衝撃度などから、検察の判断と一審判決は妥当であったといえる。
 東京高裁は、判決の中で「併合罪の規定を適用しても、逮捕監禁致傷罪について法定刑を超えた量刑ができるわけではない」と、法解釈に厳しい判断を下した。・・・(また)「国民の健全な法感情からして、逮捕監禁致傷罪の上限が懲役10年では軽すぎるとすれば、将来に向けて法律を改正するほかない」と、現在の法律の限界に言及している。今回の事件で教訓にしたいのは、この点である。
 

 事件を正確に把握するために、他の新聞からも引用をさせていただきたいと思います。朝日新聞には、次のようにあります。

新潟女性監禁/3年短縮し懲役11年/高裁判決「法定刑超え違法」/
 ・・・検察側はこの事件に関連して下着4枚を盗んだ罪で追起訴。弁護側は、この窃盗の刑は最大限に評価してもせいぜい懲役1年であり、逮捕監禁致傷罪の刑の上限である懲役10年と併合しても懲役11年にしかならないと主張した。
 山田裁判長はこの点について、「併合罪を構成する個別の罪について、それぞれの法定刑を超えることはできない」との解釈を示し、「一審判決は、逮捕監禁致傷罪について法定刑である懲役10年を超える量刑を行った違法があり、刑法の併合罪の解釈を誤っている」と述べて、弁護側の主張を認めた。
 そのうえで、量刑の理由を説明。「少女期から青春期に至る人間の尊厳を極限までじゅうりんする悲惨な犯行で、被害者は解放から3年近くが過ぎた今でも、身体には犯行による影響が残っている。法が許す範囲内で最も重い刑で臨むほかない」と述べた。
 この事件では、・・・検察側が・・・刑法47条の併合罪加重の規定を適用して、懲役15年まで科すことができるようにした。
 ・・・新潟地裁は1月、「逮捕監禁致傷罪の法定刑の範囲では適正妥当な量刑を行うことはできない」と懲役14年を言い渡していた。


 また、社説で一審判決を批判した毎日新聞では、次のように報じられています。

新潟女性監禁/「一審は違法」と減刑/東京高裁が懲役11年に/
「法の上限超える」/
 ・・・弁護側はこの点
(=一審における併合罪の適用)を最大の争点と位置づけ「軽微で被害弁済を終えた窃盗はせいぜい懲役1年程度なので、懲役11年が限度」と主張した。
 判決は、・・・「逮捕監禁致傷罪の法定刑の上限の懲役10年を超える(算定方法を取った)もので、違法」と指摘し、弁護側の主張を受け入れた。
 佐藤被告の行為については「女性の精神的苦痛は想像を絶する。今でも身体的な影響だけでなく、家族や社会との適応に相当の苦労を強いられている」と断罪した。


 そして、法廷での様子や、被害女性および家族の近況について、次のようにあります。

「情状酌量じゃない」/裁判長が佐藤被告に/
 思春期から青春時代の「輝く時間」を奪った犯罪が、再び断罪された。
 「犯情が良いとか、情状酌量では全くありません」。一審判決を「重すぎる」と語り続けてきた佐藤被告に、裁判長が厳しい口調で減刑理由を述べても、法廷では無表情のままだった。・・・
 「1人の人間のかけがえのない人生を台無しにしたことを身にしみて自覚しなさい」。裁判長が最後に説諭しても、佐藤被告は目さえ合わせなかった。・・・
 ・・・(被害女性は)パソコンに興味を持つなど、回復の兆しも見える。だが、「『これで元気になったと言われては困る』という思いが、被害者の家族には強い」(関係者)という。「懲役14年でも短すぎる。日本の法律が歯がゆい」。母親の調書も、法廷に提出された。


 また、毎日新聞は、次のような解説記事を掲載しています。

新しい犯罪類型の検討を/
 9年2ヶ月の監禁に対する量刑は、懲役何年が妥当かが争われた10日の東京高裁判決は、一審の懲役14年から3年も減刑した。併合罪の一方の罪が、通常起訴しない軽微な窃盗(被害額約2,464円)だった点を重視したもので、検察側に大きな課題を残した。判決は法改正にさえ言及したが、元々、法務省内部にも「今回のケースは法の想定外」という声があった。今後は、実態にあった法整備が求められる。・・・
 控訴審判決の前日、法務・検察幹部は「併合罪の成立は当然。大幅な減刑もないだろう」と語った。
 しかし、判決は・・・大幅に軽くした。・・・これは、「無理に量刑を引き上げている」という一審判決に対する法曹界の異論に沿ったものだ。・・・
 長期間自由を奪い、人格を踏みにじる行為に、どう対応すべきか。「逮捕監禁罪だけの法定刑を引き上げると、他の犯罪との均衡を欠く。通常の監禁とは違う犯罪類型が必要」と語る法務・検察幹部もいる。
新しい罪の創設など、法改正に向けた検討が必要だ。

 事件の地元である新潟県では、地方紙がこの判決をどのように報じているのかと思い、インターネットで検索してみました。新潟日報の社説では、次のように述べられています。

監禁控訴審判決 法定刑では償えぬ重さ/
 ・・・9年2ヶ月という犯罪史上例がない長期監禁事件の重さ、被害女性や家族のうけた傷の深さをあらためて考えさせられる判決といえよう。
 控訴審では、複数の罪のうち最も重い刑の1.5倍まで刑を加重する併合罪の判断が焦点となった。逮捕監禁致傷罪の最高刑は10年だが、佐藤被告が窃盗罪で追起訴され、最高刑が15年となったことの是非である。
 控訴審で弁護側は、窃盗が約2,400円の衣類の万引きで「処罰を加える必要はなく、検察官の考える量刑のために行われた」と主張した。検察側は一審の論告で「10年では被害者の監禁期間の1日を懲役1日で償うことになる」と、併合罪とした背景に触れていた。 一審判決については、専門家から窃盗の追起訴は量刑を市民感情に沿ったものにするためであり、法律的に無理があるとの指摘があった。・・・
 過去に例のない特異な事件であっても法は厳格に運用する。これが高裁の示した判断であり、法の解釈に照らせば分からないではない。問題は、これで果たして奪われた「9年の闇」にこたえられるかどうかである。
 高裁判決は「法定刑の上限が軽すぎるとすれば、法律を改正するしかない」と指摘している。問われているのは予想を超えた事態に対応できない現行法だ。・・・
 人の自由を奪う監禁という行為はむごい。悲劇を繰り返さないためにも、現行法の見直しが急がれる。


 どの新聞も、被告が減刑されたことについて、被害者や家族の心情を思うと、どうしても釈然としない、といった趣旨のことを述べるのですが、「それではどうすべきなのか」「どうしたらよいのか」ということについては、「現行法を見直すしかない」とするだけです。判決を下した、当の高等裁判長が、そう言っているわけです。
 またしてもここで、「条文金科玉条主義」が繰り返されています。しかも、繰り返した結果、被告人に対する処罰は軽くなっているのです。いったい、生身の、心をもった人間と、紙に書かれたものに過ぎない刑法の条文と、どちらが大切だと考えられているのでしょうか。
 山田裁判長も、大阪国際大学の井戸田教授も、官僚も、各新聞も、「現行法を改正しなければならない」と述べています。それではそのうちの誰かが、自身の発言に責任をもって、具体的な改正に向け、何らかの行動を起こしてくれるのでしょうか。そうであれば結構なことです。しかし、あまり期待はできないようにも思います。

 たびたび引き合いに出しますが、たとえばアメリカでは、母親がわが子を半年間、押し入れに閉じこめただけで、終身禁固の刑を言い渡されています(「こころのとも」第13巻3月号をご参照いただければと思います)。
 同じ視点から新潟の監禁事件を見たら、まず、死刑に相当する罪だと判断されるのが当然だと思います(誤解のないようにことわっておきますが、佐藤被告を死刑にせよ、と言っているのではありません)。
 アメリカの刑法には、「子を監禁した親は、その期間の長短にかかわらず、終身禁固に処する」と、書いてあるのでしょうか。読んだわけではありませんが、たぶんそんなことはないと思います。
 アメリカをはじめとして、日本以外の諸外国では、倫理や、道徳に著しく反していると考えられる、重大な犯罪が起きた場合には、法律の規定を超えて、厳しく罰するのが相当である、という社会通念や共通理解が、徹底していると思うのです。
 イギリスで、10歳に満たない少年が幼児を殺害したとき、その少年は実名を公表されました。この対応の厳しさも、日本では絶対に考えられません。しばらく前、大分県で、少年が、近所の知り合いの家に侵入し、3人を殺害して、3人に重傷を負わせる、という凶悪犯罪を起こしましたが、この事件に関しては、だれ1人として刑事責任を問われていないのです。そして、これほど衝撃的な大事件でも、その後つぎつぎと発生する新たな犯罪にかき消されて、あっという間に風化してしまっています。
 ついでに例を挙げれば、アメリカでは、教師をピストルで撃ち殺した13歳の少年が、禁固28年の判決を受けています。
 日本における刑罰の「軽さ」は、世界的に見ても際だっているのです。

 外国には、法律を超えて、法律を規制する(あるいは支える)、絶対的で、改正不可能な規範が、厳然と存在しています。アメリカを代表とする、キリスト教信者の多い国々では、それは聖書の教えです。反対に言いますと、聖書の教えに拠るかぎり、そのもとで、いくらでも法律の弾力的な運用が可能になっているのです。
 その他の国々でも、たいていは、みなが共通して従うべき原理原則(axiom、アクシオム)があると考えられています。人間の相対的な判断で作り上げた法律は、いつでも改正が可能であるし、改正されていなくても、時と場合に応じて、柔軟に使いこなせばいいものです。改正や運用に際しては、アクシオムに照らせば、誤りが生じるおそれがないのです。
 アメリカの雑誌「The Atlantic」は、日本中がバブル経済に浮かれていた1989年、すでに、日本には普遍的で、絶対的なアクシオムがなく、それこそが日本の弱点であるということを、的確に見抜いていました(このことに関しては、「こころのとも」第12巻9月号をご参照くださればと思います)。
 まさにその指摘どおり、日本にはアクシオムが決定的に欠けています。裁判制度がそうですし、政治にも、教育にもアクシオムがありません。アクシオムがないので、これまで行ってきたことを適切に評価し、反省し、総括することができません。そのための視点を欠いているのです。そしてまた、将来はどうしたらいいのかという長期的な展望も、もてません。モグラ叩きのごとく、その時々に発生する問題をつぶしていくだけで、手一杯なのです。そして、問題が解決するならまだしも、振り下ろしたハンマーが、正確に「モグラ」の頭を打っていない、というのが実状です。

 裁判以外の実例ですが、ここ数年の「教育改革」をめぐる文部科学省の対応を見れば、教育について、アクシオムが欠けていることが非常によくわかります。
 総合学習は体験重視、とか、授業時間を減らして学校にゆとりを、とか言っていたかと思うと、「学力低下をどうする」と批判されるや、総合学習の時間にドリルをやってもいい、とか、宿題や補習を増やす、とか、学習指導要領は最低基準なので、それを超えた内容を教えてもいい、とかと言い出す始末です。
 また、昨年の秋に、中央教育審議会が、教育基本法の改正などに触れた答申の中間報告を行いましたが、その中で、「教育振興基本計画」を定めるよう、政府に進言しています。そこでは、「教育は国家百年の大計である」とした上で、「あまり長期間に設定すると社会や時代の変化との乖離が大きくなるおそれがある」、「従来の教育関係の個別の計画には5年間程度のものが多い」等々と述べ、「計画期間については・・・おおむね5年間とすることが適当であると考える」と言っているのです。
 国家百年の大計、と、自分たちでぶち上げておきながら、実際の計画となりますと、たったの5年間しか見通せない、と言い出すのです。こんな調子では、作られた計画が5年間もつかどうかすら、怪しいものです。
 さらに話が飛びますが、小泉内閣の前、森喜朗氏が総理大臣だったときには、「5年間で日本を世界一のIT立国にする」と言っていました。いまでは、そんなかけ声を覚えている人の方が少ないだろうと思います。「世界一のIT立国」どころか、先進各国からは「世界経済の足手まとい」と見なされているのが、いまの日本の姿なのです。
 敗戦の後、日本は、金銭的、物質的に豊かになることだけを至上として来ました。「金もうけ」「損得勘定」だけが頭にあったわけで、それは「思想」とは言えないものです。
当然のことですが、人間としての精神生活を支えるアクシオムにはなり得ません。
 アクシオムをもたないまま(中には、その必要性を自覚していた人がいたかも知れませんが)、金もうけに奔走してきた日本人は、1980年代に至ってついにアメリカと肩を並べ、経済大国として世界の頂点に立ちました。しかし、その後、バブルの崩壊を経験し、じわじわと国際競争力を落として、いまや過去の栄光は遠くなりつつあります。
 はっきり言って金もうけしか取り柄がなく、それだけが心の支えだった戦後の日本人だったのに、その金もうけがうまく行かなくなり、海外に負け始めてしまったのです。日本人から金もうけを取り上げたら、思想も哲学もアクシオムも、何にも残らないのです。
 いま、政府も、企業も、経済の建て直しに必死になっていますが、国家財政は企業会計や個人の家計になぞらえたら、とっくに破産だと言われています。また、企業も、まともに利益が出ているのは非常に限られたところだけになっています。ごく大ざっぱに言えば、日本経済は息も絶え絶えの状態なわけです。
 そして、ここから脱却ができないのも、考えてみれば当たり前のことなのです。経済を支えるアクシオムがないので、経済自体がつぶれそうになった時に、何をどうしたらいいのか、だれにも分かりません。自動車の運転の仕方しか知らない人が、エンジンが故障して動かなくなってしまったときにお手上げなのと同じです。
 金もうけの方法はよく知っていても、それがうまく行かなくなったら、なぜそうなったのか、どうすれば回復できるのか、まったく見当がつかず、ああでもない、こうでもないと、そこら中をいじくり回してみるのですが、元に戻らないどころか、ますます状態が悪化してしまう、こういう悪循環に、いまの日本は陥っています。
 そもそも、経済といいますのは、単なる金もうけのことではありません。経済が人間の行為である以上、その基礎には人間性、すなわち精神性が深く関わっているのです。私は独自に構想している「人間精神学」の体系において、新しい経済学の構築を、非常に重要なテーマと位置づけ、これから何年かかけて取り組んでいきたいと思って、いま準備を進めています。
 経済に精神性が関与していると言いますのは、経済が、自己・他己双対理論に照らしますと、「自己」と「他己」のバランスの上に営まれる、ということです。つまり、自己の利益と選好だけが経済のすべてではありません。「人の心を感じるこころ」もまた、経済の大切な基盤となるはずなのです。しかし、現在の経済原則には、人の心を感じるこころはまったく欠けています。その際たるものが市場経済や自由競争を至上とするグローバリズムで、そのために今、世界のいたるところで経済や貿易をめぐる摩擦が起きているのです。
 人の心を感じるこころ、すなわち他己は、論理や理屈を超えた、人間を人間たらしめているアクシオムにほかなりません。それを欠いた金もうけは、本来、人間社会のなかで通用するはずがないのです。それがまかり通ってきた(現在もまかり通っている)というのは、反面で数え切れないほどの人々が犠牲になってきた、ということです。そしていまや、そのツケが世の中全体に回ってきたのです。
 アクシオムを失った人たちが寄り集まって、アクシオムなき金もうけを復活させようと、いくらもがいてみても、何かをするそばから空しく崩れていくのが当然、ということです。

 話を裁判に戻しますと、ここでもアクシオムのなさは決定的です。裁判官も、検事も、弁護士も、拠るべきアクシオムを欠いています。こうなりますと、頼りにするものが、法律の条文しかありません。そこで、日本の裁判制度は、条文金科玉条主義に陥ってしまうわけです。
 これまで例のない、「著しく深刻で重大な」凶悪犯罪であっても、適用できる刑罰が最高で懲役10年ならば、絶対にそれを超えてはならない、という判断しか、下せません。「法の想定外」の犯罪であると認識しながら、そうは言うものの、とにかく今ある法で間に合わせなければしょうがない、ということなのです。そうやって、「法を厳正に運用してこそ法治国家だ」と言うのです。
 しかし、そんなことで、乱れてしまった社会秩序を回復できるはずがないと思います。「法の厳正な運用」を叫べば叫ぶほど、加害者の「人権」ばかりが大切にされて、被害者は泣きを見なければならず、社会はどんどん荒廃していくという、この矛盾を、一体どうすればいいのでしょうか。
 一審では、検察側が、なんとか、もっとも重い罪の1.5倍にまでもっていこうとして、監禁致傷罪の懲役10年に、窃盗罪の懲役5年を加えて求刑をしました。判決は窃盗による分が1年減って、4年プラスの懲役14年になったわけです。
 ところが控訴審では、「たかだか2,400円の万引きでは、せいぜい懲役1年である」として、そう考えると監禁致傷罪の部分が懲役13年ということになってしまい、法定刑の上限を超えている、と判断されて、懲役11年の判決が下されました。
 この高裁の判断が、どこまで現実の社会のあり方に即しているのでしょうか。実際に、2,000円そこそこの万引きをした人が逮捕、起訴されて、しかもその上懲役1年の実刑判決を受ける、というようなことが、起こるものでしょうか。
 『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンは、パンを1つ盗んだだけで投獄されました。しかし、現代の日本では、万引きくらいで起訴されることなど、まず考えられません。絶対にないとは言えないにしても、まず99.999…%、あり得ないことだと思います。毎日新聞の解説にもふれられていた通りです。監視員に見つかって、盗った品物を出すように言われ、始末書を書かされるか何かして、お説教をされ、帰ってよし、となるのが、おそらくもっとも普通のパターンです。たとえ常習犯で、逮捕、起訴の上、実刑を喰らったとしても、懲役1年などというのは、とうていあり得ません。いまでさえ日本の刑務所はパンク寸前なのに、そんな程度の犯罪者をいちいちつかまえていましたら、収拾がつかなくなってしまいます。
 「2,400円の万引きで懲役4年は長すぎる」とされたわけですが、そう言うのなら、1年であっても十分に「長すぎる」のです。弁護側が「処罰を加える必要はない」と言ったのが、現実の社会常識に近い考えであり、窃盗との併合罪にしよう、というのが、そもそも「無茶」なことだ、とも言えると思います。

 9年2ヶ月に及んだ監禁期間をつぐなうに足る懲役刑は、果たして何年をもって妥当とできるのか。これが裁判の争点でした。一審では、逮捕監禁致傷罪の最高刑10年では、懲役の1日をもって、監禁の1日をつぐなうにほぼ等しく、処罰感情に合わない、と検察側が主張し、併合罪規定の上限に近い懲役14年の判決が下されました。細かい見方をすれば、監禁の1日に対して、懲役は約1日半だとしたわけです。これが「処罰感情」に合うのかどうか、感じ方は人それぞれだとしましても、これすら、ごく当たり前に考えて、つぐなうに足る長さだとは、とうてい思えません。
 新聞によりますと、新潟地裁は一審の判決に際して、「法定刑の範囲では適正妥当な量刑を行うことはできない」と、かなり思い切った、「まともな」ことを述べています。これまで例を見ない、きわめて自己中心的で、非道な犯罪に対して、刑法の規定ではとうてい対応できない、ということで、日本の裁判制度が陥っている「条文金科玉条主義」に、一石を投じていたのです。
 しかし、その波紋は、かえって「法を超えた処罰があり得るのか」という、アレルギー的な反応を引き起こしてしまいました。司法関係者だけでなく、世論にもそれが起こり、そのひとつが、以前とり上げました、毎日新聞の社説なのです。
 そして東京高裁は、違法な判決はいかなる理由があっても認められない、として、1日あたり半日のプラス分、という計算はまかりならず、監禁1日に対して懲役約1.1日、つまり1日と2時間程度が妥当である、と判断しました。この場合、「処罰感情」はどうなるのでしょうか。
 そこではもはや、「感情」など、どこかにとんでしまったとしか言いようがありません。自己・他己双対理論での「感情」という言葉は、「人の心を感じるこころ」のことです。被害を受け、虐げられた人のつらさや痛み、悲しみを我がものとして、ともに痛みを感じ、悲しみを共有し、人を踏みつけにしたりおもちゃにしたりするような行為は断じて許さない、と、その人のために、ひいては社会のために怒ってあげる「こころ」です。そういうこころをもっているからこそ、ヒトは人間なのです。
 人の心を感じるこころが、人間の人間たるゆえんであり、それが枯れてしまったら、見た目は2本足で立っていても、その人は人間性を決定的に欠いているのです。「てめえら人間じゃねえ」というせりふが、時代劇か何かでありましたが・・・。
 残念なことですが、日本の裁判に、人の心を感じるこころはないのです。条文にこだわる人たちが言いたいのは、「感情的な」、つまり情緒や気分に流された審理や判決は断じてあってはならない、それらを排してこそ法治国家だ、ということだろうと思いますが。
 3年もの減刑を決定したのは、法の厳正な適用の結果である、ということで、その判決に対して予想される反論や非難に対しては、精一杯の「言い訳」をしておかなければならなかったようです。「減刑は情状酌量ではない」、「人間の尊厳を蹂躙(じゅうりん)する悲惨な犯行だ」、「被害女性の人生を台無しにしたことを自覚せよ」等々、言葉の上ではきびしいことを言っています。しかし、どれほど言葉を並べてみても、実際の判決で刑が軽くなっていれば、そんなものは一切合切「チャラ」になってしまう、というのが、裁判であり、「世の中」というものなのではないでしょうか。
 「ゴメン」で済むなら警察は要らない、とはよく言うことですが、この判決の場合は、まるで、「ゴメン」だけで警察は要らないようなものです。何という取り返しのつかないことを、と責めておいて、ま、今度からは気をつけてくれたまえよ、と、軽く済ませているわけです。
 そんな程度で許していいのか、という意見に対しては、これ以上、何をどうしろと言うんだね、と、開き直りに近いようなものを感じるのです。
 裁判所が関知するのはあくまでも被告人の処罰についてだけであり、被害者がどこでどうしているか、何を思っているか、これからどうなるのか、そうしたことは、新潟県の行政や医師やカウンセラーの領分である、それら一切は判決に反映させられない、ということなのでしょうか。
 「日本の法律が歯がゆい」と嘆く、被害女性の家族の声が裁判所に届くことは、いまの情勢から見ますと、ほとんど期待できません。それは、日本の裁判制度が、人の心を感じるこころを失っているからです。そのこころを支え、条文の柔軟な運用を可能にする、不動のアクシオムを、日本は決定的に喪失しているのです。

 いったい、裁判は何のためにあるのでしょう。犯罪者を処罰して徹底的に反省を迫り、社会秩序をきびしく維持していく制度、として、新たな犯罪を抑止する、このような存在意義が、本来のものだと思いますが、いまはむしろ逆の効果しかないように見受けられます。「あれだけのことをしても、こんな程度の処罰で済む」という実例ばかりを示しているようにすら、思えるのです。これでは、やり得、やられ損になって、犯罪がますます増えていくことになってしまいます。
 現実に、昨年12月20日の、テレビや新聞の報道によりますと、2002年1〜11月における、日本の刑法犯罪発生件数は、戦後最悪だった一昨年の同時期を、さらに4%上回る可能性がある、ということです。
 犯罪の凶悪化、多発化に合わせて、刑法を改正していかなければならない、と、司法関係者やマスコミが言うのですが、「これが起こったからこうする」「あれが起こったからこうする」と、対症療法的に条文を変えたり付け足したりすることが、どこまで可能なのでしょうか。
 実際の様子を見ましても、そういうかけ声が上がるばかりで、具体的な変化や改善は、少しも見られません。また、仮にそれができたとしても、果たしてどこまで有効なのか、大いに疑問です。
 法を改正する、と、ひとくちに言いますが、「予想を超えた事態」が次々と起こる中で、いったい何を根拠に、何を基準にして改正や見直しをするというのでしょうか。普遍的な基準がありませんので、「監禁致傷罪だけを重くすると、他の犯罪とのバランスが崩れてしまう」と危惧する意見が出るのが当然です。監禁致傷の法定刑をさわるのなら、それに合わせて殺人も、傷害も、誘拐も、窃盗も、詐欺も、恐喝も、刑罰を見直していかなければなりません。各種の犯罪で、今後ますます「予想を超えた事態」が発生する危険性が高いのです。
 神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件も、オウム真理教によるサリン事件も、大阪教育大付属池田小学校の児童・教師殺傷事件も、いったいだれが、あれほどの異様な事件を予想できたでしょうか。増加する一方の児童虐待も、DV(ドメスティック・バイオレンス)も、ストーカー犯罪も同様です。
 それから、昨年あたりから目立つようになりました、パワーショベルなどの重機を使ってATM(現金自動預払機)を破壊し、機械ごと現金を持ち去るという犯罪も、これまでの常識を超えています。警察が、通報後5分から3分で現場に急行しても、犯人は早々と、どこかへ逃げおおせているのです。スーパーやパチンコ店などから、重さ何百キロという金庫が、まるごと持ち去られるという事件も、あとを絶ちません。警備会社と契約していようが、カギをかけていようが、チェーンやボルトで固定していようが、関係ありません。「金庫破り」などというのはいまや昔話になってしまい、とにかくぶち壊して運び出してハイさようなら、という感じです。いままでの「防犯」という意識や常識が、通用しないのです。
 「予想できない」犯罪を「想定」して、法改正をする、という考えは、そもそも矛盾しています。
 新しい罪を創設しなければならない、とも言われていますが、そのことが本当に犯罪の抑止につながるかどうかも疑問です。この意見は、精神疾患治療のマニュアルが整備されればされるほど、病気や障害の種類がどんどん増えてきた事実を連想させるのです。
 たとえば、いま、子どもを中心にして話題になることが多いADHD(注意欠陥/多動性障害)は、ついひと昔、ふた昔前まで聞かれないものでした。この障害名が広まることによって、もちろんプラスになった面もありますが、ADHDをめぐって、新たな誤解や混乱が多く生じてしまったことも事実です。「精神科医の数だけ精神病名がある」とまで言われる状況は、必ずしも患者の減少や、治療・福祉の充実発展を実現したわけではありません。
 それと同じように、警察官と検察官と裁判官の数だけ犯罪名がある、という世の中になったら、それが果たして平和で安全な社会と言えるのでしょうか。そうでないことは明らかです。

 あくまでも相対的な取り決めに過ぎない法律や憲法を超えた、絶対的なアクシオムが欠如している限り、何をどうしようとも、結局は「モグラ叩き」や「イタチごっこ」に終始しなければなりません。
 どんな犯罪であっても、刑法の条文に規定されている以上の処罰は、絶対に科してはならない、という、条文金科玉条主義こそが、対応がますます難しくなる凶悪犯罪を、自ら招き寄せている、と言える面が、多々あるように思うのです。
 いまのように条文金科玉条のままで、社会秩序を維持していこうとするならば、もはや、窃盗、詐欺などは被害の多寡にかかわらず、被告は終身禁固か死刑、傷害も同様、人を死に至らしめた場合は、過失致死であっても殺人であっても死刑、誘拐も死刑、児童虐待も監禁も死刑、被害者が複数の場合は被告の家族もすべて死刑、このような、「過激」で、もう後がなく、問答無用の刑法にするしかないのかも知れません。おそらくこうすれば、凶悪犯罪の発生はかなり抑えられると思います。もちろん、そのことにより、社会が平和で、穏やかなものになるわけではありません。反対に、きわめて殺伐とした、住みにくい世の中になることは間違いないところです。
 たいていの人は、そんな厳しい刑罰など非現実的だ、と考えられるだろうと思います。しかし、日本における社会崩壊の危機と、人心の荒廃は、取り締まりと処罰の強化・徹底という「必要悪」以外の方法では、もはや克服のしようがないところまで来ていることも、事実であろうと考えられるのです。

 アメリカやヨーロッパの方が、日本を上回る凶悪な犯罪が日常的に多発しており、それに比べたら日本の方がはるかに平和で安全だ、と考える人は多いだろうと思います。
 犯罪発生率などの数字を比べるだけであれば、日本の方が「安全だ」と言いたくなる面があるかも知れません。しかしそれは、「木を見て森を見ない」態度です。つい2、30年前には「水と安全はタダ」とまで言われ、犯罪検挙率も世界のなかで抜群に高かった日本社会が、まさしく坂道を転げ落ちるように現在のような有り様になってしまったことは、数字を単純に比較するような見方では、とうてい的確に把握することができません。
 銃がふつうに流通しているアメリカで、たとえば乱射事件などが起こっても、1人の犯行によって死者が10人を超えるようなことは、あまり例がありません。ところが最近の日本では、たった1本の包丁やナイフによって、何人もの命がいっぺんに奪われることが、めずらしくなくなっているのです。あるいは凶器さえなく、殴打や蹴りなどによって、路上や駅のホームで人が殺されることも、しばしばです。この日本で、社会に銃が存在していたら、いったいどういうことになるのでしょうか。アメリカをやすやすと抜いて、世界一危険な国になることは、おそらく間違いないのでは、とも思います。
 しかも検挙率が下がっていて、未解決の事件はどんどん積み重なっています。さらには、今回とり上げた問題にも関係しますように、たとえ逮捕、起訴されても、明確な殺意や計画性が見当たらなければ(時にはそれらが存在していてさえ)、おどろくほど軽い罪で済んでしまうことが、ごく当然になっているのです。
 海外でも、人々の精神的な危機は、かなり深刻なものになっています。凶悪犯罪、薬物依存、精神病や自殺の増加等々、手のつけようのない状態が広がっているところは少なくありません。しかし反面、社会秩序を維持しようとする、きわめて強力な力が働いていることにおいて、それらの国々は日本と大きく違っています。そのおかげで、データの上で日本より悪い状態を示してはいても、社会に見られる安定感は、日本以上に強いものがある、と言えます。
 その、秩序を維持しようとする力を支えるアクシオムは、究極的には、相対な人間を超えた、絶対の、聖なる境地を信じ、その教えに従っていこうとする信仰心に他なりません。
そのアクシオムは、最高法規である憲法をも超え、憲法を規制している(あるいは支持している)のです。このことは、先月号の「こころのとも」(第13巻12月号)の随筆、「GHQ型民主主義」でもふれていますので、ご参照くださればと思います。
 日本の司法制度が「まとも」になるためには、絶対的なアクシオムを取り戻す以外に道はありません。もし、たった今、そのことへの取り組みが始まったとしても、それが軌道に乗って、円滑に運営されるようになるには、相当の時間がかかるでしょう。日本は戦後、半世紀以上かけて現在のような姿になってきたのですから、少なくともそれと同じだけか、それより長い歳月を要することは避けられないと思うのです。
 しかし、どれほど困難で、労力と時間を必要とすることであっても、あきらめずに取り組まない限り、大げさでなく、日本人、および人類全体に未来はないと言えます。



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