ひびきのさと便り



No.41 「協力社会」をどう実現するのか @   (2003.11.18.)


 毎日新聞の「文化 批評と表現」欄は、「日本の自画像/キーワードで語る」という連載を組んでいます。9月2日は、まさに現在の政治と社会におけるキーワードである「構造改革」をテーマにして、東京大学教授(財政学)の神野直彦(じんの・なおひこ)氏が寄稿していました。
 記事の見出しは、次のようになっています。

集団的狂気の克服/光り輝く協力社会へ

 「集団的狂気」「協力社会」とは何か、それらが「構造改革」とどう関係するのか、本文を何箇所か引用させていただいて、見ていきます。

 まず神野氏は、日本社会が歴史的に営んできた共同体的管理が、世界中の研究者たちの注目を集めていることにふれています。
 入会地などの共有地は、自分のものでないために過剰に利用されてしまい、それゆえ共有地は私有化されなければならないという「入会地の悲劇」という考えがあり、それは新自由主義の政策思想を支える常識になっている、と神野氏は述べています。しかし、実際には、その「悲劇」は生じていないことが、研究によって実証されているとのことです。そして、弘法大師の築造による満濃池の管理が、世界の研究者の驚嘆や礼讃の対象になっていることを紹介し、こうした日本の共同体的管理を可能にしてきたのは、人間同士の協力を不可欠とする稲作と、深く結びついていると指摘しています。
 こうしたことに続いて、神野氏は次のように述べます。

 競争原理とは他者が成功すれば、自己が失敗し、他者が失敗すれば自己が成功する原理だとすれば、協力原理とは他者が成功すれば、自己も成功し、他者が失敗すれば自己も失敗する原理だということができる。稲作を機軸として経済を営んできた日本は、伝統的に協力原理で経済を営んできたということができる。(下線は筆者、以下の引用でも同)

 このために、日本では、国家であれ、企業であれ、疑似共同体として認識されるようになる、と述べられています。政府の産業政策は、新規産業の育成や、衰退していく産業への妥協的政策などについて、企業間の協力による産業構造の転換を図るものであり、各企業も、業績を従業員の共同作業の成果と考えて、賃金格差を広げず、企業への帰属意識の培養を重視した、と説明されています。
 同じような指摘を、仏教学者である中村元氏の論文、「日本人の思惟方法」にも見ることができます。そこで、中村氏は、日本では支配者と被支配者との対立が弱く、両者はあたかも互いを家族であるかのように感じ、さらには日本の社会全体が家族の拡大のように見なされてきた、と述べています。
 神野氏は、このような日本の歴史的あり方を、次のようにまとめています。

 協力原理は日本の社会に、敵意や憎悪よりも友愛や安心を育み、安定した社会秩序をもたらした。

 しかし、神野氏は、「協力原理には『陰』の側面が存在したことも忘れてはならない」としています。そのことは、次のように説明されています。

 それは集団への協力を重視する余り、時の流れに流されやすい傾向があるということである。異端の思想の自由を認める真の民主主義が育ちにくいといいかえてもよい。そのため、社会の方向性を切り誤ると、止めようのない集団的狂気が発生してしまう。つまり、ファシズムを醸成する・・・精神的風土にも変貌する。

 「時の流れに流されやすい傾向」や「異端の思想の自由を認める真の民主主義」といった部分には、とくに気をつけて、のちに再び検討をしたいと思います。

 神野氏の考察は、戦後から現代へと及んできます。氏によりますと、戦後、貧困の克服という目標と、走るべきレールが定まっていた時代には、協力原理が健全に機能していた、と言われます。しかし、経済成長が行き詰まりますと、「時の流れに乗り遅れまいと、集団的狂気に浮かされ、バブルが生じてしま」い、そのバブルが崩壊した後、10年以上に渡って続いている経済不況から脱するために「構造改革」が連呼されるようになった、とされています。そして、氏は次のように述べます。

 「構造改革」とは、日本型協力社会を、アングロ・アメリカン型競争社会へと転換させる改革だといってよい。 

 そこでは、次のようなことが起こると、神野氏は指摘します。

 協力原理を破壊し、無慈悲な競争原理を社会の隅々にまで強要する。つまり、貧富の差を拡大し、強者が強者として生きていく社会の実現を目指すことになる。
 もちろん、その結果は共同体的人間の絆が寸断され、社会的病理現象がはびこることになる。
 

 神野氏は、こうした構造改革が、日本型協力社会の欠陥を克服する改革ではないことに注意を喚起しなければならないとして、次のように説明します。

 「構造改革」とは、一度社会の方向性を誤ると集団的狂気が発生するという日本型協力社会の「陰」の部分に根差している。そのため「構造改革」という時の流れに乗り遅れまいと、アングロ・アメリカン型競争社会を受け入れるべく奔走する。
 しかも、「構造改革」を実行すればするほど、社会的惨劇が激化しても、それは「構造改革」が足りないからだと、失敗を繰り返す。「構造改革」に疑問を挟めば、忽ち「抵抗勢力」というレッテルが貼られ、集団的狂気の血祭りに上げられてしまう。


 神野氏は、このような「『構造改革』の悲劇」から脱却するために、「アングロ・アメリカン型競争社会の視線からではなく、日本と同じ協力社会であるスウェーデンの視線から」日本を見ると、何が見えてくるかを推測することを提案します。
 神野氏は、スウェーデン社会のあり方を、次のように説明しています。

 スウェーデンは個が個として自立すればするほど、社会の構成員の協力が強められていくという協力社会である。多様な個人が主体性を強め、協力しているため、状況に柔軟に対応していける。

 そして、日本はスウェーデンに学び、協力社会のメリットを生かして、かつ、その欠陥を克服し、新たな改革のシナリオを描くべきであると主張しています。神野氏は、記事を次のような一文で結んでいます。

 集団的狂気に踊るのではなく、国民の1人1人が冷静に判断し、協力すれば、日本は光り輝く未来へと船出ができるはずである。

 引用を読みますと、神野氏が、民主主義、個の自立、1人1人の冷静な判断などといったことを、とても強く信頼しており、その信頼に立った上で考えを組み立て、意見を述べていることがよく分かります。こうした神野氏の基本姿勢は、たとえば氏の近著である『人間回復の経済学』(岩波新書,2002年)にも、いっそう鮮明に表れています。また、この本には、神野氏がモデルとすべきと主張するスウェーデンの社会システムなどについて、より詳しく説明されています。「ひびきのさとだより」の次回は、その『人間回復の経済学』を取り上げさせていただくことにして、今回は、ここまで引用させていただいて来ました、毎日新聞の記事に基づいて、神野氏の考えを検討していきたいと思います。

 神野氏による「構造改革批判」の出発点は、それが、「日本型協力社会(協力原理)」を、「アングロ・アメリカン型競争社会(競争原理)」に転換させるものである、というところにあります。そうしますと、日本には、現在に至るまで、古来からの協力社会が、連綿と続いてきている、ということが、議論の前提になります。
 この、神野氏の現状認識は、残念ながら、的を外れてしまっているのではないでしょうか。つまり、現在の日本は、かつての協力社会としてのあり方から変質し、どちらかと言いますと、すでに競争社会的になっている、と考えられるのです。構造改革が叫ばれる前からそうなっていたと思いますし、そうだからこそ、小泉政権が成立して、今のような構造改革の考え方が出てきたのではないでしょうか。
 終戦直後までは、たしかに日本にも、協力社会としての精神的風土が残っていたと言えます。私の「自己・他己双対理論」の言葉でいえば、人々に他己があった、ということです。他者に心を開き、他者と心を通わせようとし、他者の喜びや悲しみを我がものとしようとする、「人の心を感じるこころ」があった、ということです。それには、功罪はともかくとして、終戦まで徹底的に行われていた学校教育が、かなり大きな役割を果たしていた、と言えます。
 当時の教育で、絶対的な基盤とされていた教育勅語には、たとえば「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ」とあります。ここに示されていた「孝」「友」「和」「信」などの価値は、どれも他己(または自己と他己の統合)に属することがらです。こうしたことを、単なる徳目として掲げておくだけではなく、子どもに対してそれこそ骨の髄まで染みこませるように教育したため、社会全体に、他己が存在しているところが大きかったのです。
 ただ、付け加えておきますと、それは、「富国強兵」「殖産興業」を完遂し、世界に冠たる大日本帝国を打ち立てようとする、明治以来の指導者たちの国家エゴ(国家レベルの自己肥大)に発するものでした。ですから、当時の人々は絶対的な政策によって他己を強制されましたが、国家や民族の枠を超えて、普遍的な愛や真理を求めるという、本当の自己と他己の統合とは大きく隔たっていました。
 しかし、繰り返しになりますが、そうではあっても、終戦までの日本は、協力社会、他己社会としての形を保っていたのです。
 このような社会のあり方が、終戦と同時に大きく転換され、戦後の歴史を通じて、社会の変化は加速度的に進んできました。その転換や変化の原動力となったのは、欧米型民主主義の直輸入と、その浸透です。

 自己・他己双対理論から考えますと、民主主義は、基本的に、他己を欠いた、自己のみを追求する制度です(中塚善次郎・小川敦・清重友輝:現代民主主義の欠陥とその克服 −自己・他己双対理論による検討− 鳴門教育大学学校教育実践センター紀要15巻pp111-120,2000年)。ホッブズ、ロック、ルソーなどに代表される民主主義の確立者たちは、他者や社会への配慮をまったくないがしろにしていたわけではありませんが、発想はあくまでも自己に閉じたものであり、民主主義は自己追求の原理でしか成り立たないものになっているのです。
 民主主義が自己追求の制度であるといいますのは、そこにおいて、人々が、自己の利益と選好を極大化することを合理的とし、その考えに基づいて行動するということです。言い換えれば、あらゆることが個々人の損得勘定と、好き嫌いで判断されるのです。こうした傾向が蔓延した結果、たとえば日本の中高校生は、人生の目的を、楽をしてたのしむことであると考えている割合が、海外よりも抜きん出て高く、あるアンケート調査の結果、そのように答えた若者が、6割に達している、という事態が生じています。
 アメリカの場合、人生の目的を「高い社会的地位や名誉を得ること」と答えた若者が4割だったのですが、日本でそう答えたのは、わずか1.8%です。日本では、相当数の若者が、地位も、名誉もいらないと言い、それらに伴うであろう高い収入も、別に欲しくはない、と考えています。とにかく、楽をして、たのしく過ごせればいい、それ以上の目的や希望はない、これが、日本の若者の、損得と好き嫌いの感覚です。こうした若者が、数年後か十数年後に、社会に出て、親となっていくのです。最近まで、日本人は世界から、金もうけのことしか頭にない「エコノミック・アニマル」だと言われていましたが、世代が下がって、今はもう、金もうけすらどうでもいいと考える人が、だんだん増えてきた、ということです。こうした若者が、近い将来に、社会の中核をにない、親となっていきます。

 日本に現代民主主義を植え付けた本家である欧米(とくにアメリカ)には、自己追求の制度である民主主義と、車の両輪をなす形で、人々の他己をなすキリスト教への信仰が、根強く残っています。そのために、そうした国々では、日本よりもはるかに、人々の自己と他己のバランスが保たれています。もちろん、犯罪、麻薬、失業等々、社会的な危機が多く見られることは確かで、楽園のような国が存在しているわけでは、決してありません。しかし、少なくとも日本と比較した際には、人々の意識はかなり「まとも」な面があります。そのまともさを支えているものが、信仰心です。
 日本の場合は、終戦後のアメリカによる占領政策や、新しい憲法の制定などにより、国家として、宗教を完全に否定し、放棄しました。憲法第20条は、信教の自由を規定していますが、それは、国としては宗教を一切排除するけれども、信仰を持つか持たないか、または何の宗教を信じるかは、まったく個人の自由である、と定めたものです。
 これに対して、欧米においては、キリスト教を信じることが、大多数の国民や市民にとってはほとんど当然の、人間として生きていく上での大原則と考えられています。いわば「憲法として定めるまでもない」ことですらあるのです。こうしたことが最も鮮明なのはアメリカですが、先進諸国には共通した傾向があると言え、その中で日本だけが例外的存在となっています。
 真の宗教は、自分を捨てることを説くものです。ですから、自己追求だけをその原理とする民主主義の考え方とは反するものであり、それゆえに互いが、「車の両輪」になり得るのです。民主主義だけを金科玉条にし、限りないエゴの追求を良しとしながら、「宗教を信じたければ信じたらよろしい」と言うのでは、人々の信仰心が廃れ、失われていくのは必然的な結果です。
 こうして他己を萎縮させ、自己のみが肥大した人々が、さらに子どもを育てて、教育していくのですから、その傾向は、当然、どんどんと高まって来ます。日本では、民主主義が浸透するにつれ、協力社会的なあり方が徐々に薄れてきて、競争社会的になってきたのです。このような流れに乗って、現在の社会が現れています。

 バブル経済が崩壊する前までは、先ほどもふれましたように、豊かになること、お金を儲けることが、多くの人にとって最大の目的でしたが、今はもうその意欲が社会から薄れてきています。若い世代の人々に、地位も、名誉も、お金も、別にどうだってよく、毎日が楽しければそれで十分、という考えが広まっているのです。
 ただ、これは、欲望が少なく、謙虚で、つつましい日本人が増えてきた、ということになるのかと言いますと、決してそういうことではないと思います。
 自己・他己双対理論の基礎をなす「人間精神の心理学モデル」では、意識領域の根底に、自己の情動と、他己の感情を想定しています。このうち、情動の働きとして、欲求があり、それは「食欲」「性欲」「優越欲」の3つに大別されます。
 食欲には、物欲や、金銭欲も含まれます。また、性欲には、生命延長や、子孫繁栄の欲求も含まれます。
 食欲(物欲、金銭欲)について考えますと、マスコミでは相変わらず料理や食べ歩きの紹介などが、飽きるほど取り上げられますし、買い物や、お金もうけ(投資、宝くじ、ギャンブルなど)に関する情報もあふれています。また、性欲(生命延長欲、子孫繁栄欲)につきましても、日本ほど、性の乱れがあらゆる世代に及んでいる国は、世界にほとんど例がありません。援助交際や出会い系サイトなどがその典型です。また、医学が発達して、以前なら不可能だった救命が可能になったり、不妊の治療や解決に新しい局面が開かれたりしています。多くの人々は、そうした技術に頼って、生命や子孫についての希望をかなえようとしています。
こうした実態を見ますと、日本人から、食欲や性欲が薄れているとは言えない面が多くあります。ただ、若い人々の間では、欲求を直接に満たすことができず(または満たそうとせず)、摂食障害になってしまったり、インターネットやゲームなどで擬似的な満足にふけったり、欲求を満たせないことに耐えられず、あらゆることを放棄して引きこもってしまったり、果ては安直に自殺してしまったりと、欲求に関する、さまざまに屈折し、混乱した姿が多く見受けられます。こうしたことは、欲求(情動)のレベルだけで論じられることではなく、情動−感情と統合されて、精神機能領域の「目的論的」側面を構成している、自我−人格との関わりで理解する必要があります。ただ、このことは、それだけで大きなテーマになりますので、ここでの深入りは控えておきたいと思います。なお、情動−感情(こころ)と、自我−人格(たましい)からなる、精神の「目的論的」側面は、人間に生きている意味を自覚させたり,「生かされて生きている」喜びを感じさせたりする働きを担っています。
 さて、3つの欲求のうち、優越欲が残っています。この欲求は、他者に優越することによって、自分自身の存在を確かなものと感じたい、というものです。あの人よりは、自分の方が、頭がいい、人柄がいい、健康である、力が強い、お金持ちである、出世している、子どもの出来がいい、等々、いろいろと考えをめぐらしては、優越感に浸ろうとします。 現在の若い人たちは、この優越欲が肥大していることにおいて、かなり特徴的であるように思われます。社会的地位やお金など、どうでもいいと言い、自堕落になっている人は多いのですが、決して自己への執着が薄れているわけではありません。実際は反対で、他者から愛情をかけてもらわなければ、支えてもらわなければ、存在や価値を認めてもらわなければ、耐えられないのです。自意識が非常に強く、自己のみに意識が集中しており、それだけ他者には無関心であるとも言えます。人の心を感じることができず、自分の好みに合うかどうか、利用できる相手かどうか、付き合って得になるかどうか、などといった視点でしか、他者を見ることができなくなっています。優越欲が、そのような形で現れている、と言えるのです。
 こうなりますと、ちょっとした困難やつまずきに出会っただけで、自我が大きく傷つき、くじけてしまいます。そして、自意識だけは強いために、そのくじけてしまった自分を直視し、自分と対峙することができません。その場から逃避したり、問題を他者や社会のせいにしたりして、自分に引き受けることができないのです。
 その結果、人によっては、神経症や心身症などの病気に逃げ込むことになったり、引きこもりに陥ったり、あるいは無差別に他人を殺傷したりすることなどが起こります。

 民主主義は、自己に執着することを勧める制度ですから、この考え方に依っていたのでは、上で見てきました欲求の混乱や肥大、大きく言えば自己肥大と他己萎縮を原因とする、現代社会の病理的現象を克服することはできません。むしろ状況はますます悪化していきます。いま求められているのは、民主主義制度の欠陥に気付いて、「他己社会」を回復することなのですが、そうした議論に出会うことはありません。民主主義がもっと進めば、あらゆる問題は解決され、この世は良くなっていくと述べるものが圧倒的多数です。

 民主主義によって自己化した現在の日本では、人は他者に対する関心や愛情を失い、自己の利益と選好のみに基づいて行動するようになっています。その結果、必然的に貧富の差や、弱肉強食の状況が出現しています。また、さまざまな社会病理的現象が見られるようになっています。先ほど引用させていただきましたように、神野氏もそのことにふれています。ただ、神野氏の議論には、そうした状況が民主主義制度に根ざしているのだという問題意識はありません。
 日本ではすでに協力社会が崩壊し出して、競争社会的になってきています。そして、そこで見られるさまざまな問題状況を、さらに悪い方向へと引っぱり、あるいは押しやっているのは、中央官僚たちの動きです。
 官僚が、自己の利益と選好のみに基づいて、政治を動かすようになっているのです。ここ数年、中央省庁における不手際や不祥事が相次いでおり、外務省、国土交通省、農林水産省などでは、とくにそのことが目立っています。どこの省庁でも、現実には、行政の実権が大臣にはなく、官僚にあります。大臣は、ただの操り人形、傀儡(かいらい)に過ぎなくなっているのです。
 小泉首相は、最近になく長い期間、政権の座にあるとも言えますが、それはあくまでも、以前の首相があまりにも頻繁に交代しすぎたからです。そして、日本の内閣では、首相の交代以上に、さしたる実績が上がらず、国民の印象にもほとんど残らないまま、大臣がどんどん入れ替わっています。その裏には、大臣とは比較にならないほど長期にわたって、実権を握り続ける多くの官僚たちが存在しているのです。
 かつて、行政は、国家(市民)のために行われてきました。日本に、協力社会的な風土があった時代には、官僚の中にも他己がある人がいて、使命感をもって職務をまっとうしようとする努力が見られたと思います。
 しかし、民主主義が次第に浸透し、他に思想も哲学も持たない日本では、官僚が行政を私物化して、自己の利益と選好のためのみに、それを動かすようになってきました。そして、日本がまだ協力社会であった頃に得たさまざまな権益にしがみつき、それらを守ろうとしています。日本の行政は、このような動機によって操られていると言えるのです。

 人間は、他己が弱体化しますと、他者が何を喜び、何を悲しむのかが分からなくなり、また、そうしたことに無関心になって、知ろうとも思わなくなります。また、自分が何を他者から期待され、要請されているかも分からなくなりますので、社会に適応して、その中で適切な行動をとることが困難(不可能)になります。それはつまり、外界の変化について行けず、柔軟に対応することができない、ということです。政治家や官僚の仕事で考えますと、政治、経済、軍事など、さまざまな面で目まぐるしく変わっていく国内外の情勢を前にして、適切な対処ができないのです。
 世の中のあり方には無数のバリエーションがあり、それに対して限られた行動のレパートリーしかもっていないのでは、たちまち行き詰まってしまいます。また、場面や問題ごとの行動レパートリーをいくら増やそうとしても、そのような努力にはすぐに限界がやってきます。どんな状況に直面しても、柔軟に対応し、適切な行動がとれるようになるためには、他己を豊かにもつ以外にはありません。それは、自己への執着を捨て、他者や社会の立場に立つことだと言えます。
 また、他己がないといいますのは、時間論で考えれば「過去」がないということです
(中塚善次郎・大田雅美・大向裕美・木村みどり・上松育代:障害児教育を効果的にするためのコミュニケーションの研究(T) −自閉症児の時間障害を理解するための時間論の構築−,鳴門教育大学学校教育研究センター紀要,11巻,pp75-84,1997年)。過去がないとは、大きく見れば文化や文明、人類の歴史そのものの意義や価値が分からないことであり、また、伝統、慣習、規範、法律などを簡単に踏みにじってしまう、ということです。また、人との関係で言えば、他者の期待や願いを無視したり、約束を反故にしたりすることに他なりません。
 神野氏との共著も多い慶應義塾大学経済学部教授の金子勝(かねこ・まさる)氏は、近著『長期停滞』(ちくま新書,2002年)の冒頭で、市場原理主義の経済学を非難して、次のように述べています。

 経済学者ほど信用ならない人間はいない。多くの人々がそう感じている。その理由を見つけることは比較的簡単だ。まず何よりも、市場原理主義を掲げる主流経済学者、あるいはその主張に基づいて政策を立案している政府や政策担当者の言うことが、あまりに目まぐるしく変わるからだ。しかも彼らは、「その場しのぎ」で状況に対応しているうちに、本来の考え方とは正反対の主張に行き着いてしまう。つまり主張の一貫性が完全に失われてしまったのだ。それは、救いようのない論理破綻と言ってよい。

 金子氏の指摘は、まさに、経済学者、政治家、官僚などが、他己=過去を失っていることを述べたものです。
 自己・他己双対理論に基づく時間論では、過去が他己、未来が自己、現在が自己と他己の統合と考えています。ですから、過去がないといいますのは、未来との統合ができないということですので、両者の統合としての現在が存在しないことになります。現在が存在しないとは、「今」という時間があるにはあるのですが、それが、何の脈絡も意味もないまま、とぎれとぎれに存在しているだけ、ということになるのです。
 ですから、実は、そこに本当の未来もありません。未来への期待や願望は、たった今、ただちに実現されなければ、我慢できないのです。しかし、未来は「未だ来ていない」時間ですので、自分の思い通りになるかどうかは分かりません。そのため、そこには、常に耐えがたいほどの不安がつきまといます。その不安が、今すぐ実現しなければ、という焦りをよけいにかき立てます。金子氏の述べるように、苦し紛れに、その場しのぎの対応を続けて行かざるを得ません。ひとことで言えば、刹那的、ということです。

 神野氏が記事で述べたことに戻りますと、氏は、日本型の協力社会が、集団への協力を重視する余り、時の流れに流されやすく、集団的狂気が発生するという、「陰」の部分をもっており、現在叫ばれている構造改革は、そこに根ざしている、としています。しかし、集団への協力を重視すると、どうして時の流れに流されやすくなってしまうのか、ということについての説明は、十分でないと思います。集団への協力体制や、帰属意識がしっかりしていれば、むしろ簡単に流されることはなくなる、と考える方が、より自然だろうと考えられるのです。
 集団への協力を重視することは、「異端の思想の自由を認める真の民主主義が育ちにくいといいかえてもよい」とも、神野氏は述べています。しかし、「真の民主主義」が、「異端の思想の自由を認める」ということは、本当なのでしょうか。
 自己追求を原理とする民主主義においては、基本的に、互いに認め合う、ということはありません。相手を認めるのは、相手が自分の説得に応じて同調した時、あるいは屈服した時だけだ、と言えます。国連、WTO、APEC、環境サミット等々、世界の「民主主義的」な交渉の場では、現実にそうなっています。相手が同調や屈服をしない場合、「異端の思想の自由」を認めるわけではありません。仕方なく、当面は放置するだけです。機会があれば、自分の勢力下におこうと狙っているのです。
 このような状況では、確かに集団というものはあり得ません。各国や個々人は、みなバラバラです。自由を認め合うのではなく、互いの意見や考えには耳を貸さず、相手の立場には配慮しないのです。そして、利害が一致すれば節操なく手を握り合いますし、一致しなければ義理も人情もなく裏切ることが起こります。これは非常に刹那主義的なあり方で、まさに「時の流れに流されやすい」と言うことができます。
 つまり、時の流れに流されやすい、といいますのは、必ずしも集団への協力を重視するからなのではなく、自己が肥大して、他己=過去が失われ、そのために一貫性がなくなることの方が、はるかに大きな原因である、と考えられます。ですから、民主主義(あるいは個人主義)の蔓延が、実は神野氏が危惧する、集団的狂気の発生を招く危険性がある、と言えます。だれもが、目の前の損得や好き嫌いに目を奪われて、他のことが見えなくなってしまうということです。
 日本の集団的狂気といいますと、戦前、戦中のファシズムが連想されますが、これも、国家エゴが肥大して、多くの国民も、「世界に冠たる日本」の実現に浮かされたことが根底にあります。

 小泉政権が強行しようとしている構造改革(規制緩和や、公団の民営化など)は、過去を切り捨てることで進められようとしています。それは、他己を失った日本国民が、他己のない政治家を「好みに合う」とばかりに選び出した結果でもあります。そしてそのことが、行政の実権を握っている官僚たちにとっても、きわめて好都合なのです。
 そこでとられる政策は、他己がなく、すなわち過去がなく、思想も哲学もないものですので、当然、行き当たりばったりの、刹那的なものにならざるを得ません。
 話が少し横道に逸れますが、ここ数年、文部科学省が進めてきている教育改革にも、刹那的な現れがはっきりと見て取れます。ゆとりが大事だ、ということで学習指導要領を改訂し、教育内容を削減したら、学力低下が心配だと言われ、今は実質的にゆとり教育からの方針転換がなされています。「教育は国家百年の大計」とはよく言われることですが、百年など、とんでもないのが現実で、わずか半年や1年の間に、政策や見解がころころと変わっています。 
 構造改革を押し進めようとする政治家や官僚が、一生懸命お手本にしようとするのがアメリカで、それを神野氏は「アングロ・アメリカン型競争社会への転換」として批判します。
 先進国の中で、異例に強い信仰心を保ち続けているアメリカでも、最近では、キリスト教の衰退と言わざるを得ないような状況が見え始めています。そして、それと同時に、国内で貧富の差が拡大し続けたり、粉飾決算などの企業不祥事が明るみに出たりしています。また、同時多発テロの後も、ニューヨークの大停電ですとか、カリフォルニアの山火事とかといった、人々の不安を増大させる事件が続いています。また、アメリカが、市場主義、自由競争、グローバリズムを世界中に広めていることで、国際社会は混乱を来しています。 そして、この日本は、先進国の中でも例外的に宗教と信仰を放棄した国です。信仰がないといいますのは、他己の根幹をなすものがないということです。他己がないところで、その上、民主主義制度を基礎とし、市場主義、自由競争、グローバリズムと、自己原理のみで動く考え方や社会システムを至上とするなら、もはや競争社会と言う以上に、弱肉強食の修羅場が出現することは必定です。その表れは、もう、いろいろな場面に見え始めています。それらは、早晩、社会の崩壊につながっていくと思います。
 すると、日本における構造改革は、信仰がない、すなわち他己を喪失した国民に合った改革でなければならない、ということになります。しかし、そんなことは無理なのです。それは「改革」と呼べるものにはなりません。
 まず、日本人が信仰を取り戻して、他己を回復しなければなりません。他己が思想を形成します。時間論で言えば、過去が意味を持つようになり、同じように意味のある未来と統合されて、現在という時間が真に充実するようになります。
 これは、とくに日本において急務なことですが、世界中の国々でも、多かれ少なかれ望まれる考え方であると思います。

 神野氏は、日本のとるべき道として、アングロ・アメリカン型競争社会に変わっていくのではなく、協力社会を実現しているスウェーデンに学ぶことを提案しています。しかし、果たしてスウェーデンの社会が、他己の原理をもっているかどうかは、きわめて疑問です。 インターネットで、スウェーデンの宗教について情報を検索したところ、スウェーデンでは、16世紀にローマ・カトリックが廃止され、ルター派が国教として設定されて、今でも9割の人々が国教に所属しているとのことでした。また、宗教教育が義務教育の一部とされているそうです。ただし、一般の人の宗教性は薄らいでいると言われています。
 スウェーデンにおけるものの考え方について、興味深いデータがあります。アメリカの著名な社会学者であるリプセットが、『アメリカ例外論 日欧とも異質な超大国の論理とは』(上坂昇・金重紘訳,明石書店,1999年)という著書の中で紹介しているもので、それによりますと、次のようなことがあります。
 1990年に行われた「世界価値観調査」の中に、善悪の判断をどう考えるか、という、二者択一の設問がありました。「善悪の判断には、絶対的な指針があり、それは、誰に対しても、どのような状況においても、適用されるべきである」と考えるか、「善悪の判断には、絶対的な指針はあり得ず、それはすべて時代の状況による」と考えるか、を選ぶものです。リプセットは、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・カナダ・スウェーデンの、7カ国の回答結果を引用していますが、全体的な傾向としては、アメリカに、「善悪の判断は絶対的である」と答えた人が多く、他の6カ国では、「善悪の判断は状況による」と答えた人が多くなっていました。そして、後者の6カ国の中でも、スウェーデンにおいては、「絶対的」と答えた人が他国よりずっと少なく、反対に、「状況による」と答えた人が明らかに多い、という結果が表れていたのです。また、リプセットは、数値を示していませんが、日本では、これら7カ国よりも、「状況による」を選ぶ率がさらに高いことに触れています(以上、前掲書p86)。
 神野氏は、スウェーデン社会の特徴として、個が自立していること、個人が主体性を強めていることを挙げていますが、上記のデータは、それらを裏付けるものと考えられます。そして、個人の自立や主体性が高まれば高まるほど、お互いの協力が強められていくのが協力社会としてのスウェーデンであり、そのため、状況に柔軟に対応することができている、といいますのが、神野氏の見方です。日本はそのような面に学ばなければならない、と主張されているわけです。
 しかしながら、個の自立と、相互の協力ということが、いったいどのような原理に基づいて統合的に成り立っているのか、についての説明はありません。お互いが協力し合って、つまりエゴの主張を控え、ゆずり合い、許し合って、社会全体が状況に柔軟に対応していけるといいますのは、他己の原理によるほかはないのです。
 自己原理に基づき、互いの利害が一致する限りにおいて、協力関係を結んでいるというのでは、はやばやと限界が訪れると考えられます。そうした社会では、神野氏が記事の中で述べているような、友愛、安心、安定した秩序がもたらされることは、残念ながら、ないのです。
 リプセットが述べていますように、日本では、スウェーデン以上に、絶対的な指針に従うべきと考える人が少数になっています。そういう意味では、日本の方が、より「個が自立している」と言うこともできます。個人が自立するほど、社会の協力が強まることがあり得るのならば、日本は今のままでも十分に協力社会を成立させることが可能になるはずです。そうならないのは、日本に自己の原理しかないからです。そして、スウェーデンにしましても、自己原理を脱し、他己原理で社会が成り立っているとは、神野氏の議論から読み取れません。つまり、スウェーデンに学んで改革を行ったとしても、期待は幻想に変わるしかないのでは、と推測されるのです。

 神野氏は記事の最後で、集団的狂気に踊らず、1人1人が冷静に判断することが必要だ、と述べています。しかし、どちらも、自己に閉じた(利益と選好に基づいた)行動であるならば、外見が違うだけで、していることは同じです。どちらからも、真の協力は生まれて来ません。
 また、記事は、日本は光り輝く未来へと船出ができる、と結ばれています。しかし、先ほど見ましたように、本当の未来は、過去と統合されることで意味をもつものです。未来ばかりを見るだけでは、つまり自己に執着するだけでは、未来は刹那に陥らざるを得ません。
 キーになるのは、他己の回復です。他己の根幹をなす、信仰・宗教の回復がいるのです。




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