向山洋一教育実践原理原則研究論文/ 4学年 学級経営 /
          

 人間関係づくりの原理原則
       
  岡山県津山市立北小学校    岡田健治


あれは四年生の社会科の授業をしていた時のことである。
まだ、一学期初めで、ようやく子どもの顔と名前が一致したくらいの頃だった。 私が今日はこれから校内の水道の蛇口の数を調べますでも授業中ですから「人に迷惑をかけないということを約束してください」と指示すると突然A君が、
「僕は約束はしない!守れるわけない」
と大声で騒ぎ出した 私はこんな暴挙は絶対に許さないとばかりに彼の声を上まわるくらいの大声で、
「やってもいないうちから[約束できないとは何事か!」
と叱責したのだった。
するとA君は突然教室を飛び出し家の方へー目散に逃げ出したのだった。その後は町内を舞台に私とA君との捕物が展開したことは言うまでもない。
 (何でこんなことになったのか…)
と私は心の中で反芻しながら必死で追いかけ続けついにA君を空き屋の
ブロック塀まで追いつめた。そして私は彼に優しい声で、
「先生は叱らないからもう逃げなくたって良いんだよ。」
と苦しまざれに発したのだった。
 すると彼は急に逃げるのをやめ近くに止めておいた私の車に素直に乗ってきたのである。
 伊藤重平氏は、その著書「ゆるす愛の奇跡(黎明書房)の中で次のように述べておられる。

 ゆるせば自分もゆるされ与えれば自分も与えられることを愛には愛のお返しがあるという。
 裁くとはよいか悪いかを判断してその人の責任を追及しゆるすことをしないことをいう。 (中略) 子どもを裁かないということは叱ることをしないという意味で決して放任することではない 子育てでは叱らずにゆるしそのあとで教えることが大切である。

 なるほど私が苦しまぎれに発した言葉の中には偶然にも人間関係づくりにとって極めて重要な原理原則が内包されていたのである。
これを「裁かずにゆるす愛の原理原則」ということにしよう。
 とかく教師も親も子どもが問題行動を起こした場合一方的に叱責してしまいがちである。
「何度言えばわかるのだ!きみはこんなに悪いことをしたのだ!」
と、こんな言葉で徹底的に追いつめてしまったら子どもは絶対に心を開くことはないのである。
 さて話をA君の件にもどそう学校に帰ってきたA君を私はまず車から降ろし花壇のブロックに座らせた。そして私は対面して座らず彼の横に座った。
 そして、
「ずいぶんと逃げ方がうまいね。足が速くて驚ろいたな。今までも逃げ出したことがあるのかい。」
と私は彼の逃げ方の素早さをほめた。
 私が、心からA君をゆるしいとおしいと思う気持ちが自然に発した言葉であったがこの言葉で彼は急に私に心を開き今まであったことを話し始めた。
「友達に馬鹿にされて逃げたこともあったし、先生に叱られて逃げ出したことも何回も何回もあった…。」
 そういうA君の横顔を見ていると、私はいよいよかわいそうになり、
「今年は楽しいことをいっぱいやろうな。でももう逃げ出しちゃあいけないよ。あぶないからな。」
と肩を抱いて話したのだった。
 それにしても先の私の逃げ方の素早さをほめた言葉で、どうして彼が心を開いてくれたのだろうか。
 伊藤氏は前掲書の中でやはり次のように述べられている。

昔から子どもは叱るよりほめて育てよと言うがこれには深い意味がある。子どもの自発性や自主性が育つからほめることが大切なのではない。子どもをゆるすというゆるしの愛を与える意味があるからである。

つまりほめるということはゆるしの愛を与えることになっていたのである。そして、今までも逃げ出したことがあるのかいという私の問いかけに対してA君が話すことを私はひたすら共感しながら聞きつづけた。
「そうか、友達に馬鹿にされたのか。つらかっただろうね。へー先生に間違えられて叱られたこともあったのか。くやしかったろうねなるほどなるほど……。」
聞いてやると彼の表情は見る見るうちに元気になっていった。
 我々教師も親もすぐにああしてはいけないこうしてはいけないお前も悪いのだもっと反省しろと善悪の判断を示し反省を強要し、心にもないごめんなさいという言葉で事件を処理したつもりになりがちである。しかし、とにかく子どもの話を聞いてやらねばならないのである。
 長年少年院法務教官を務めてきた相部和男氏は、教師も親も傾聴画接を心がけてほしいと子どもの話に耳を傾けることの重要性を、その著書「わが子を救う緊急カウンセリング・普通の親なのになぜ問題児に泣かされる」(PHP研究所)の中で主張されている。
ここにも人間関係づくりの重要にして必要欠くべからざる原理原則が厳然と存在している。これを「傾聴の原理原則」と呼ぶことにしよう。
 考えてもみると自分の話を聞いてくれず共感もしてくれず通りいつべんの分かりきった理屈を並べたてたり説教したりする人に人は心を開くことができるであろうか。
自分のことばかり終始話し続ける人には、我々でも心を開くことはできないのである。 人間関係研究の先覚者であるDカーネギー氏は人を動かす(創元社)の中でやはり聞き手にまわることの重要性を、次のように述べている。
 自分のことばかり話す人間は自分のことだけしか考えない。長年コロンビア大学の総長を務めたニコラスバトラー博士はそれについてこういっ
ている――自分のことだけしか考えない人間は教養のない人間であるたとえどれほど教育を受けても教養が身につかない人間である。
 話し上手になりたければ聞き上手になることだ。興味を持たせるためにはまずこちらが興味を持たねばならない。
 このように傾聴という受容的態度は相手に心を開かせる上でとても大切なことなのである。
 その上、傾聴していると、人間関係をつくる上でも、指導する上でもこれもまた、重要な事の原因がどこにあるのかということが分析でき対応の方法を検討する資料情報が数多く集まるのである。
先のA君の場合だと、小さい頃に友達に名前のことで馬鹿にされたということが分かれば折にふれ気にかけたり、万一似たような事件が発生すれば早急に対応でき深刻化するのを防止することができるのである。これは教師がお説教をまくし立てて、子どもにあやまらせるのとは雲泥の差である。
 駒沢大学の総長を長年務められた水野弘元先生は「釈尊の人間教育学」(佼成出版社)の中で次のように述べられている。

(前略)教師の生徒への感化や融和の態度によって問題は発生しなくなる一ともいえますもちろん生徒の個性や資質に応じた指導が必要ですが生徒や
子どもが何を苦しんでいるのか問題そのものの所在がどこにあるのかを把握することがまず肝心です仏教ではこうした心の問題あるいは諸現象の問題解決のための視点として四諦説を説きますまず第一に苦諦です諦とはあきらかにするという意味で真理のことですまず相手は何が苦しいのか何を苦しんでいるのかをあきらかにすることが大切です次に(中略)その病気がいかなる原因理由から生じたのかということを正しく突き止めることですこれが第二の集諦です(中略)健康体の"標準となるのが第三の減諦ですそれは苦のない理想の状態を指します生徒の場合ならいきいきと学校にきてよく学びよく遊ぶという生徒の健全な状態でしよう苫集は理想に反するマイナスの価値です
このマイナスが取り除かれている状態が減諦であり除く方法が第四の道諦です。

 我々教師や親はせっかく心を開いて話している子どもの話をただ漫然と聞くのではなく、苦集減道の四つの視点で分析しつつ受容し、より良い対応の方法を冷静に検討してゆかねばならないのである。
 無論他にも感謝や反省謙虚さ人のせいにしない自己責任など人間関係づくりに大切な原理原則はあるだろうしかしまずごく基礎基本的な裁かずにゆるす愛の原理原則傾聴の原理原則を常に心にとめておきたいと考える。


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詳しくは、向山洋一教育実践原理原則シリーズ(明治図書)向山洋一監修 岡田健治・小林幸雄編集 向山洋一教育実践原理原則研究会著をご高覧ください。