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■ 木地師の歴史

木地師の歴史は古く、平安時代貞観(860年)までさかのぼります。

始まりは木地師の祖神とされている文徳天皇第一皇子の惟喬親王が、滋賀県小椋荘で家臣に木彫りの食器を作らせたことだといわれています。 そして親王側近の太政大臣、藤原実秀公が天皇より小椋姓と全国山々入山許可証を賜ったのを契機とし、小椋郷で生まれた木地師たちが夫々小椋姓と木地師免許証を持って全国各地に散り木地業を伝えたのです。

■ ジプシーと呼ばれた木地師

木地師は江戸時代から日本中の山々を良材を求めて移動していました。そのため、木地師は流浪の民・ジプシーと呼ばれています。全国各地に木地師はいるのは、そういうわけなのです。

■ 木地師が少なくなった理由

全国各地にいた木地師なのに、現在はその存在をほとんど知られていません。 木地師は椀や盆など生活などに必要なものを作っていました。しかし、明治に入り、陶器やプラスチックなどの普及により、木製品の必要がなくなってきたため生計が成り立たなくなってきました。

また木地師は非定着民族だったため、いろいろな悪い噂やレッテルを貼られ、木地師の子孫だということを近所に隠す必要があった地域もあるようです。 そのため、おおやけに出ることがなく今まできました。ですから木地師に関する情報は少ないようです。

■ 当家と日本木地師学会

木地師は日本の文化を支えてきた職人たちです。私、木地師十三代小椋芳之は木地師の技を受け継いだ一人です。ただ黙々と父と共に岡山県津山市で木地師の仕事をしていましたが、昭和60年、木地師のことを 研究している木地師学会の会長に出会い、私自身も木地師のルーツを知ることができました。そのことを少しでも多くの方にお伝えできればと思っています。

■ 轆轤と轆轤鉋

木地師の使う道具として、主に轆轤(ろくろ)と轆轤鉋(ろくろがんな)があります。これは扱う人が使いやすいように自分で作ります。私が父から教わったことは、自分が使う道具は自分で作るということです。

■ 轆轤(ろくろ)の歴史

平安時代貞観のむかし、惟喬親王が都を逃れて蛭谷、君ヶ畑(滋賀県)に隠れてこの轆轤挽き(巻物のひもにヒントを得て考えついた)の業を木地師の元祖ともいわれる小椋実秀卿に命じて、土地の人々に伝授したといわれる。 昔は手挽き(二人挽き)轆轤を使っていたが、その後、足踏み・水車轆轤などに変わり、現在では電動轆轤に変わってきた。

写真は木地師発祥の地といわれている滋賀県東近江市(旧滋賀県永源寺町)で行われた二人挽き轆轤の様子です。一人が轆轤を回しもう一人が刃物で木地を削っていきます。

■ 当店で使っている電動轆轤

当店では二台(大・小)の轆轤を使い分けながら製作しています。轆轤も自分が使いやすくする為、すべて手作りです。どちらの轆轤にも、足元に三本の木があります。これを足で操作し、回転・逆回転・止まるを行います。 手作りの為、トラブルが発生すると自分で修理をしないといけないので、大変です。一日で直るときもあれば、直らないときもあるからです。

■ 木地師十三代小椋芳之が使う轆轤鉋(ろくろがんな)

挽く器(木の材料)を、細長い鉄の棒状の先にJ状の刃物を作り、その刃物で円形の器を挽き出す道具を「轆轤鉋」、あるいは「バイト」と呼ぶ。この轆轤鉋は日本の木地師特有の道具である。

刃先は基本はまっすぐなものだが様々ありすぎて私の言葉ではいい表せられない。私は「安来ハガネ青」と「ハイス四種」を使っている。二つの刃先を使っていて思うことは、「ハイス」は熱に強いのかわからないが、削るときの摩擦性が高いような気がする。 「安来ハガネ」の場合は、削ると刃先がすぐ摩擦してしまう。だから、何度も研ぎながら轆轤を挽くことになる。また、鍛冶屋をするときには「安来ハガネ」はカナヅチで打つと良く伸びるので、自分の思い通りの形になってくれるが、「ハイス」はなかなか思うようにはなってくれない。[2002年]