ひびきのさと便り



No.43 「総合学習の見直し」   (2005.2.25.)


 昨年末に、二つの国際的な学力調査で、日本の子どもの学力が低下していることが判明しました。それを受けてこの一月二十八日に、中山成彬・文部科学相が「ゆとり教育」の象徴である「総合学習の時間」・(総合学習)の見直しに言及し、波紋を広げています。
 この総合学習は、「詰め込み教育」の反省から生まれた「ゆとり」の理念から、新たに開設されたもので、小中学校では始まって、まだわずか3年しか経っていません(高校は一年遅れ)。それが、見直されるということで、教育現場は戸惑っているのです。
 そこで、なぜ、こうも文部科学省はぐらぐらと方針が変わるのか。「教育は国家百年の計」と言われながら、なぜ、数年で基本的な考え方まで変わってしまうのか。この問題をめぐって、少し考えてみたいと思います。
 まず、そもそも総合学習とはどんなものなのか。小学校の学習指導要領の第1章総則の第3「総合的な学習時間の取り扱い」の「2」で、その「ねらい」が次のように述べられています。少し長くなりますが、また、読みにくい文章ですが、引用してみます、

「2 総合的な学習の時間においては、次のようなねらいをもって指導を行うものとする。
(1) 自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
(2) 学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。
(3) 各教科、道徳及び特別活動で身に付けた知識や技能を相互に関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすること。」

 これらの「ねらい」を見てみますと、まず、基本となる(1)が、これを書いた人、その人にもこの本質が理解できていないのではないか、と思えるのです。
 この(1)のねらいには、「自ら・・・、自ら・・・、自ら・・・、主体的に・・・」とあります。私から言わせますと、このねらいはすべてが自分に閉じているように思えるのです。これだと、自分に閉じて成長させ、その結果として、自分で判断し、自分で問題を解決できるような資質・能力を育ててやる、ということになります。それを、発達段階を無視して小学校段階から、行うということです。
 まさに民主主義の原理を見ているようで、エゴ追求に偏っているとしか思えません。詳しくは省きますが、実は、こうした考え方は、ルソー、ペスタロッチ、フレーベル、エレン・ケイ、デューイ、ブルーナー、と延々三百年間に渡って受け継がれてきた考え方なのです。
 (2)では、こうした自分に閉じた「学び方やものの考え方を身に付け」れば、「問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度が育ち、自己の生き方を考えることができるようになる」かの如くに書かれていますが、そんなことは、自分に閉じていては、到底、不可能なのです。
 なぜなのでしょうか。
 先に「自分に閉じて」と書きましたので、熱心な読者の方にはお分かりと思いますが、人間は、「自分に閉じた心(自己)」の他に「他者に開いた心(他己)」も持っているのです。飛躍するかもしれませんが、この二つの心のバランスの中にこそ、精神の安定を得ることができますし、また、幸福を感じることもできるのです。そして、そのバランスがとれたとき、初めて、自ら考え、自ら学ぶ、真の主体性と創造性が育ってくるのです。
 また、完全な自他の統合は、発達過程の最終段階で実現されることになります。
 私の理論では、主として自己が育つ時期と、他己が育つ時期とが、成長につれて交互に訪れてきます。
 学齢期について言いますと、小学校の時期は他己期に、中学校・高校・大学の時期が自己期に当たっています。そして、他己期には意識が主として他者に向かい、他己が育ちます。また、逆に自己期には意識は主として自分に向かい、自己が育ってくるのです。
 しかし、この自他交互の発達過程のどの時期にとっても大切なことがあります。それは、少なくとも、養育者(大抵は父母)と子どもとの間に「情動の共有」が維持されていることです。一般の言葉で言いますと、こころとこころが通じ合っていることです。親が、子どもの喜びを我が喜びとし、子どもの悲しみを我が悲しみとすることができるということです。実は、こうしたことは、親が子に真の愛情をかけていなければ実現することができません。
 こうした愛情の土台の上に、自己期には主として「自由」を、他己期には、主として「統制」を与えるのです。しかし、その前提として、前の時期の発達が十分果たされていることが条件となります。また、この自由と統制は、どちらに重きを置くかであって、極端に傾いてはなりません。
 このように、小学校時代は、他己優勢の時期だと言えますので、どちらかといえば、大人が統制を与える時期なのです。統制に素直に従いたがっている時期なのです。それによって、大人の「価値」を取り込んでいくのです。
 ということは、小学校段階では、総合学習が目指す「自ら考え、自ら学ぶ」というよりも教師の誘導によって、考え、学ぶ時期と言えるのです。
 それを悪く言えば、「管理教育」と呼べるでしょうし、「詰め込み教育」と呼ぶこともできるでしょうが、小学校時代は、「自ら」ではなくて「教師のリード」で、後の基礎となる学力を付けていくことに重きを置き時期なのです。
 実は、この随筆を書くために、小学校教育で業績をあげておられ、今回、中央教育審議会委員になられた、いま評判の陰山英男氏の本を読んでみました。
 それは、文藝春秋社から出ています『本当の学力をつける本』です。
 この方の教育の中心は、基礎的かつ基本的な「読み書き計算」の学力を徹底してつけることです。それは具体的には、算数の「百ます計算」、国語その他の教科書や読本の「音読」、それに「漢字ドリル」です。
 この方は、徹底した学力アップの「実践」の中から、これらの方法の有効性に気付かれ、それらを採用されました。そして、自分が小学校で教えた子どもたちの中から、中・高を経た6年後に、有名大学の合格者が続出するという成果を上げられました。
 有り難いことに、私は、この本を読んで、自己と他己の働きを含む私の「理論」が、この方の殆どすべての実践を説明することができることを知りました。
 紙数に制限がありますので、いちいち具体例を取り上げることはできないのですが、一つだけ上げますと、例えば、この本の七六頁の「読み書き計算の力がつくと子どもたちが落ち着く」という見出しで、次のように書かれています。

 「こうした指導によって、予想外の変化が起きました。まず、子どもたちが落ちつくのです。読み書き計算の力がついてくると、子どもの言動は落ちついたものになってきます。・・・/写生などでも、たいへん粘り強くなり、緻密な絵を描く子が増え、結果的にコンクールなどの入賞者も多くなります。/授業でも、書く作業を指示すると、鉛筆を走らせるコンコンという音しか聞こえなくなるなど、集中と粘りが出てくるのです。」

 なぜ、子どもたちに落ち着きや粘りや集中が育つのでしょうか。
 こうした精神の働きは、私の理論では「自我−人格」の働きによってもたらされます。〔なお、私の理論につきましては論文『哲学を取り戻すべき心理学』(鳴門教育大学研究紀要 教育科学(編)第8巻 1993)をご参照下さい〕。
 では、なぜ、計算をしたり、音読をしたり、漢字の練習をしたりすると、「自我−人格」の働きがよくなるのでしょうか。
 ゲームのような単なる受動的な行動と違い、計算、音読、漢字練習は、すべてが精神の緊張をもたらすものです。つまり、能動的に目的意識をもって「作業」を行わなければならないのです。その作業遂行の目的を果たすために、先生の教示に耳を傾け(情動−感情の働き)、目と手を供応させ(感覚−運動の働き)、あたまを使って(認知−言語)の働き
、立ち向かわなければならないのです。それは、大げさに言えば、ある種の苦しみを伴うものです。しかし、その苦しみは、作業が目的通りに遂行されたあかつきには、喜びに変わるものと言えます。
 自我−人格の働きは、こうした、ある一つの作業を遂行するという「目的」を設定し、その目的を遂行するために、情動−感情、感覚−運動、認知−言語の各々の働きを「統合」するという大きな働きを担っているのです。そうする訓練を重ねることで、どんな学習目的の遂行のためにも、注意を集中し、粘り強く作業を行う力が養われてくるのです。
 先に、小学校時代は、他己期にあると言いましたが、それは、前述しましたように、大人の価値を取り入れたがっている時期でもあるということです。だからこそ、その時期に、その文化の基礎的・基本的な学力をつけることができるのですが、それを「他己の形成」ということで言いますと、手段的な側面の他己を形成していることになっています。それは、いわゆるソーシャルスキルとしての他己を形成していることになるのです。
 でも、真の他己を形成するためには、こうした読み書き計算による基礎学力の養成だけでは不十分で、前述しましたように、教育に関わる者(親や教師)と子どもとのこころとこころとの通い合いが必要なのです。それは、親や教師の愛情に基づく行為であって、そうした人たちのエゴの追求に過ぎない「過干渉」であったり、「過保護」であったりしてはなりません。いわば無償の愛を注がなければならないのです。そうするときはじめて、真の他己が育つのです。いま、信仰を失っている日本人にとって、それは極めて難しいことです。なぜなら、無償の愛は、信仰なくしては不可能だからです。
 繰り返しますが、他己期にふさわしい基礎学力を身に付けることで、子どもの自我−人格は育っていきます。自己の「目的」を遂行するために、粘り強く、集中して、自分の各精神機能を「統合」することができるのです。そして、小学校時代に形成された、その自我−人格の働きは、一生を通じて「一貫」して維持されていきます。
 陰山英男氏の教え子たちは、小学校卒業後6年を経過しても、なお同氏の教育の成果として形成された自我−人格の働きは失われることなく、一貫して維持され、後のいわゆる「自発的学習」を支えて、目を見張るような実績を残し得たのです。
 こう見てきますと、「自ら考え」「自ら学ぶ」総合学習は、他己期にある小学校時代ではなく、自己期に移行していく中学校・高等学校・大学段階で徐々に強めていくべき学習形態だと言えるのです。しかし、それが十分な成果を上げるためには、「自ら考え、自ら学ぶ」のではなく、「教師のリード」による他己期での基礎的な学習が十分行われていることが前提条件になるのです。
 そして、願わくは真の他己が、親や教師の温かい愛情によって形成されていて欲しいのです。そうでないと、いくら学力はついても、いま以上に子どもたちのエゴを肥大させるだけに終わるからです。
 真の他己が育たなくて、エゴが肥大しますと、はじめにあげました指導要領の中にあります「創造的に取り組んだり、自己の生き方を考えたり」、あるいは「知識や技能を学習や生活に生かし、それらが、総合的に働きようにする」ことは不可能なのです。
 日本人は、いま、世界に類を見ないほど自己肥大・他己萎縮に陥っています。なのに、人々の「自ら考え、自ら学ぶ」という活力が失われ、「生きる力」が弱まってきているのです。この総合学習はその危機意識の反映のように感じられます。
 でも、他己の育成を無視していますから、いくら総合学習で自らの生きる力をつけようとしても、ますます、逆の結果を招くだけに終わると思います。生きる力が弱まったのは、エゴイスティックに自ら閉じて「生きる力」をつけようとしてきたからなのです。
 真の生きる力は、他者を「生かす力」から生まれてくるのです。それは、他己にほかなりません。そのバランスの中から、人類にとっての真の福祉や平和をもたらすような「創造的」な力や思想が生まれてくるのです。
 実は私は、大学の学部学生および大学院生が学問をする上での心構えを「学道要諦」として著しましたが、いま読んでみますと、そこには総合学習の考え方に合致するものがかなり含まれていることが分かりました。
 大学でこそ、総合学習にもっと力を入れて、取り組まなければならないと思うのです。それは、大学教員が自ら手本を示すことなのですが。
 結論として、総合学習を見直すなら、小学校では取りやめ、中学校・高等学校では、学年が進むに連れて、「自ら考え、自ら学ぶ」程度を高めていく、あるいはその時間数を多く取るようにすべきです。そして、大学では、多くの授業時間をこの考え方で進めるべきなのです。
 人間を育てるのに、人間性への洞察を欠いたうえ、世論に惑わされて教育方針を立て、行政的にそれを実行しようとするところに文部科学省の「国家百年の計」を誤った、右往左往の原因があるのです。


※前回に続き、今回は『こころのとも』第十六巻二月号の自作随筆選「総合学習の見直し」を、内容の緊急性が高いと思われましたので、ここで特別に掲載しています。


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