山よ、なぜそこにあるのか。(前編)

-津山盆地のなりたち-


我が家からは那岐連山(爪ヶ城、滝山、那岐山)がよく見えます。
朝夕山を見上げて30年以上考え続けてきたことがあります。
「山よ、なぜそこにあるのか。」
その答えを見つける思索の果てにたどりついた、ある荒唐無稽な結論へご案内いたしましょう。

この三題噺はおおむね科学的事実からできています。ただ、話を面白くするために題材を取捨選択している部分がありますので、その点誤解なきようご注意ください。

さて、第1話は津山盆地の堆積岩のお話です。
一般的に、地層とは古いものが下に、新しいものが上に重なっているものです。
この順序が崩れる時は、褶曲とか逆転、衝上断層といった、何かえらいことが起こったと考えてもいいでしょう。

それでは、津山の堆積岩の代表として
…はどれが新しくてどれが古いでしょう?
津山の堆積岩はバラエティに富んでいて、古生代、中生代、新生代全部揃っています。
上記の3箇所が、とりあえずいずれかの代表になっています。

先に答えを書いてしまわずに、まず、黒沢山山頂付近の岩を見てみましょう。

遠くから見た写真は何がなんだかわからないと思いますが、黒っぽくて、とにかく硬い岩石です。
近づいて見ると、バウムクーヘンのように薄い層が重なって出来ていて、層はあちこちでぐにゃりと曲がっています。
これは古生代の堆積物が地下深くの圧力を受けて変成した、千枚岩(または黒色片岩、泥質片岩)という岩石です。
分類上は変成岩に属するかもしれませんが、原材料は古生代の堆積岩です。

この堆積物が堆積したのは古生代、石炭紀とかペルム紀とか呼ばれるざっと3億年ぐらい前です。
古生層の岩石には、ここのような千枚岩・黒色片岩(もとは泥)、チャート(もとはマリンスノーのような微生物の死がい)、石灰岩(サンゴの死がい)、輝緑凝灰岩・緑色片岩(もとは海底火山性の堆積物)などがあり、大洋底のプレートに乗っかって長い時間をかけて日本列島に押し寄せてきたものです。
この千枚岩になった堆積物が堆積した当時の環境は、現在の太平洋の真ん中のような、陸から遠く離れた海の底だったと推定されます。
その後、大洋底の堆積物が日本列島に付加される段階になって、一旦地下深くもぐりこんだために強い圧力による変成作用を受けて、こんなに曲がりくねった、はがれやすい岩石になりました。
なお、黒沢山の千枚岩には、真っ白な石英質の部分をはさんでいるところがあり、写真にはうまく写っていませんがこの場所でもかなり大きな石英質の層が見受けられました。

次に、丹後山近辺の岩石を見てみます。
右の化石は丹後山で出たものではありません。30年ぐらい前に、たぶん田熊で採取したものだと思いますが、地質的には同じ時代の岩石です。
岩石の様子は、砂っぽくて、それでも一応硬く固まっています。この写真をとった場所はかなり風化していますが、川底などでは滑らかで硬い岩石として観察できます。
この丹後山と同種の岩石は、川崎、高野、広野地区など加茂川両岸に分布しており、津山城が築城された鶴山もこの岩石で出来ています。ところにより右の写真のような化石を産出します。

この化石は、エントモノチスといい、中生代三畳紀後期(2億3500万年前〜2億800万年前)の示準化石です。
示準化石といえば、地質時代のある時期に、世界中にいっきに繁栄し、その時代にしか見られない化石のことです。これを見つけることでその岩石の地質時代が特定できるわけです。

エントモノチスが繁栄していた頃、この地層はこの場所にあったかというと、2億年ちょっと前のことですからそうでもないようです。
次のジュラ紀になってから、先の古生層や三畳紀層が日本列島に付け加わり、白亜紀になるとその上にドカーンと火山が噴火したりして、地質には大きな変動が生じます。 したがって、「この場所」が大洋の底だったとか、エントモノチスが繁栄していたとか考えることはできません。

最後は、宮川の川底をチェックしてみましょう。
お気づきの方もあるとは思いますが、このお話は10年前の記事から続く研究の総集編になっています。
総合体育館以北の宮川の川底、それから二宮・院庄地区の吉井川の川底、高野地区の加茂川の川底などには広くこの地層が分布しています。
全体が砂っぽくて級化層理(粒の粗いものが下に、粒の細かいものが上に重なるしましまの地層)が発達していますが、固まり方が緩くて、爪で引っかいたぐらいで簡単に砂がとれてしまいます。
これは新生代第三紀、中新世(約1600万年前)の堆積物です。

この時代の化石は「なぎビカリヤミュージアム」で採集・観察することができます。
と、ここまで書いて採集に行ってきました。
この時代の堆積物は、その後の地殻変動の影響をあまり受けていない(現在の水平面とおおむね平行に堆積している)ことから、別の場所で堆積して日本列島に付加したものではなく、ここで堆積したと言ってよいと思います。
その頃の堆積環境は、暖かいおだやかな海であったといわれ、クジラやパレオパラドキシア(カバみたいな哺乳類)の化石も産出しています。
なお細かく言えば、津山盆地周辺の第三紀層は勝田層群と呼ばれ、下(古いもの)から植月層、吉野層、高倉層と呼ばれています。
植月層は陸上の河川による堆積物、吉野層は海岸や干潟の堆積物(ビカリヤ、クジラが産出するのは吉野層)、高倉層は瀬戸内海のような暖かい浅い海の堆積物です。

さて、冒頭の問題の答えはお分かりでしょうか。
 場所標高堆積した時代古さの順
@黒沢山山頂付近659m古生代(2億4500万年以前)いちばん古い
A丹後山146.6m中生代三畳紀後期(2億3500万年前)中ぐらい
B宮川・吉井川の川床おおむね100m以下新生代第三紀中新世(1600万年前)いちばん新しい

私が津山の地質に関して、一番納得がいかなかったのがこの点でした。
地質の新旧と産出地の上下が逆転してしまっていることは、何か大きな地殻変動が起こった証拠ではないかと、私はこの10年、いやそれ以前から考え続けてきたのでした。

上の図は、津山盆地の概略図に問題にした地点を図示した地図になります。
ところで、ここまでの展開は話を面白くするためにひとつ抜かしていることがあります。
第三紀層は、標高100m以上にはないかというと、そうではなく、津山盆地の標高200mまでの丘陵地は、ほぼ全て第三紀層で出来ています。津山盆地の周辺部のおだやかな起伏に富んだ独特の地形は第三紀層の存在によって特徴付けられた地形なのです。
超概略地質図超概略地質断面図

古生層と中生層の関係は今のところ(私は)はっきりと把握していません。
北端に赤の岩石、南端にオレンジ色の山塊が描いてあるのは火成岩の岩石からなる山です。

この10年、いやそれ以上にわたって、折にふれては岩石を調べ、地下の様子に思いを馳せて来た私は、最近になって大きな思い違いをしていたことに思い至りました。
1600万年前にあった古津山海と呼ばれる海は、マングローブが生い茂る暖かい穏やかな海だったわけですが、海岸の地形は決しておだやかではなく起伏に富んでいたということです。
イメージすれば今の備讃瀬戸のような幅のある海ではなく、尾道あたりのしまなみ海道みたいな非常に狭い海峡と入り組んだ海岸、海岸はところによってそびえたつ崖になっていたと考えると観察してきたことと符合するのです。

たとえば、ほぼ10年前の本サイトの記事津山盆地と中国山地の境界 -一宮に見られる大変動の証拠- の記事で観察したところは南西側の中山神社裏山が高い山になっている海岸で、山のふもとの堆積物(外錐性堆積物といいます)まで含んで一緒に海没して海になってしまった跡なわけです。断層が存在すると考える必要はありません。

また、大沢池の調査では漬物石大の謎の角れき(下写真)が第三紀層の中に転々と挟まっていました。

これはオーパーツでも隕石でもありません。考えてみれば何のことはない、10mほど北(今では大沢池の水面になっている場所)にあった崖から強風か地震のときにでも転げ落ちてきたものでしょう。

低いところほど新しい地層が見られる理由は、津山盆地の場合天変地異によって上下が逆転しているせいではなく、1600万年前の古津山海の海底地形が思いのほか起伏に富んでいたというのが理由だったのです。

このあたりは、近年になって岡山大学の鈴木茂之准教授によって発表された論文(岡山大学地球科学研究報告2003年10巻1号の4番目「津山盆地東部に分布する中新統勝田層群の堆積環境」)で解き明かされています。
それによると、1600万年前の津山盆地は、最初比較的大きな川が二股になって東から西へと流れていました(植月層・陸成礫岩層)が、しだいに海水面が上昇して入り江になり(吉野層・主に砂岩)、それからやや深い海になった(高倉層・泥岩)と考えられています。
この古津山海の存在した当時、現在の標高200m以上の山々は、姿は今のとおりではありませんでしたが陸地として存在していたようです。
黒沢山は北岸にそびえ、神南備山が南岸にそびえる狭い入り江に、さらに島として神楽尾山や丹後山が浮かんでいましたが、最終的には丹後山山系(点々と連なる鶴山諸島とでも言うべき島々)はほとんど海面下になってしまったのかも知れません。(ここのところは論文によるのではなく私の想像です)
この古津山海は最終的には神戸あたりの瀬戸内海と松江あたりの日本海をつなぐ海峡へと成長します。
勝田層群高倉層大野の整合(鏡野町)

カバ(パレオパラドキシア)やクジラが泳ぐ暖かい海、海岸に茂るマングローブ、両岸には豊かな森をたたえた山々、そして点々と浮かぶ島々。
そういう環境でこの第三紀層は堆積したのです。

ところで津山市高倉の特産といえば自然薯なわけですが、その生産と品質はこの第三紀層(高倉層)と密接な関係があります。 自然薯生産農家は高倉層の第三紀泥岩をトッコウ土(突鉱土)と呼んで、おいしい自然薯ができる土として大切に使っています。
私は最初、その理由について保水性が適度にあって砂利や雑菌、寄生虫の混入がないあたりなんだろうなあと思ってましたが、上記のような古津山海の姿を思い浮かべると、両岸にそびえる山々と豊かな森、そこから供給されるミネラルとそれを運び去らせない海の狭さも重要な要素だったのだろうと思い当たりました。
内海のため海の栄養分が豊かなおかげで江戸前の鮨や明石の鯛がおいしいのと同じように、森から供給される養分が大洋に流れ去らない古瀬戸内海は豊かな土壌を残したのです。

高倉地区の自然薯にとってはもうひとつ幸運な偶然がありました。
それは先に私が勝手に命名した「鶴山諸島」の存在です。
「鶴山諸島」のあった場所

上の図で茶色っぽく着色している場所が、1600万年前に古津山海が存在していた頃、はじめは大きな2本の川を隔てる尾根として存在し、次第に海没して島となり、ものによっては削られて海面下に没してしまった「鶴山諸島」のあった位置です。
これらの島々は波に削られ、新しい地層に埋められて地上から一旦はなくなってしまったのですが、改めて陸地となり、新しい地層が川に削られ始めてから、その硬さの違いによって再び姿を現しました。

上記の航空写真を改めてご覧ください。左側の大部分から右上部にかけて、シダの葉のようにギザギザした谷が無数に刻まれています。これは小規模ながら典型的な幼年期の地形です。高原に川が谷を削り始めたごく初期という姿をしています。
第三紀の地層は堆積してから年数が浅いために、河川によって非常に削られやすい地質です。津山盆地も普通ならばあっという間に削られてしまってもっと広い盆地ができていたはずなのですが、鶴山諸島が削られにくい岩石でできていたために、せき止められて盆地北部に広大な丘陵地が残ったのです。
鶴山諸島の存在は、高倉の自然薯にとって奇跡的な幸運だったわけです。

最後に、私の超稚拙な手書き説明図で津山盆地の古津山海の形成をおさらいしてみましょう。
植月層形成期(河川性堆積物)

第三紀中新世(1600万年前頃)、既に那岐山系、黒沢山、神南備山などは今の形のままではありませんがその原型になる山がそびえていたと思われます。
その間にかなり大きな川が2本流れていました。
説明図では表現できていませんが、かなり深く切りたったV字の谷を刻んでいたものと思われます。
また、その支流も周辺の山を刻んでおり、現在の地形よりももっと起伏に富んでいたのではないかと思われます。
ただ、この図には描かれていませんが、大きな川の下流から次第に海が迫ってきて、川の流れが滞ってきたために川の周辺には堆積物がたまりがちになり、大きな川原や三角州を形成してきたのでしょう。この堆積物が植月層ということになります。
津山市北部の植月層は、黒沢山山系から洗い出された石英の玉砂利が含まれているのが印象的です。もちろん他の場所の植月層はそうではありませんが、この玉砂利はその時黒沢山の原型がそこにそびえていたことを示しています。

吉野層形成期(入り江)

海がいよいよ津山盆地に入ってきて、三角江(エスチュアリー)と呼ばれる入り江を作ります。
谷の形のV字に沿って海が入り込んできますから、典型的なリアス式海岸の姿です。
今あるリアス式海岸を見ればわかるように、意外と海岸に砂浜や干潟は少なく、切りたった崖が海と陸地を仕切っていた場所が多かったのではないでしょうか。
湾の奥で砂浜や干潟になった部分はマングローブの茂る生物の豊かな海岸になり、たくさんの化石を残しました。

高倉層形成期(やや広い浅い海)

いよいよ津山盆地は古津山海と呼ばれる海となり、大量の土砂が堆積しました。
この時期でも海岸はリアス式の切りたった崖である場所が比較的多く、古生代の岩で出来た崖が第三紀層の上にそびえるという、一見奇妙な地質構造を作りました。
私は地学をかじったばかりに、古いものの上に新しいものという固定観念があり、長いこと惑わされてきたわけですが、古いもののに新しいものが堆積するということもあることをやっと理解しました。
なお、盆地中央部に点在する鶴山諸島ですが、最終的には削られて海に沈んだものが多かったのではないかと思っています。

海でなくなって陸化

その後、中国山地の隆起に伴い、海が退いて津山盆地は再び陸になりました。
陸になりたての津山盆地は今よりもっと広大な平野だったと思われます。
鶴山諸島が海面下になって第三紀層に埋まってしまったと考えられる根拠は、鶴山諸島が周辺の古生層と違って変成作用を受けておらず、いささかやわらかめだったこと、現在の標高がおおむね200m以下で第三紀層の最も高いところよりは低い山しか存在しないこと、そして津山市田熊・福井地区で貫入曲流(過去のこの記事の3枚目の写真)の地形を形成していること、などです。
まったいらな平野を自由に曲がりくねって流れていた川が、たまたまその真下にあった中生層を曲がった形のまま刻み込んだもので、そこに周囲より硬い山が顔をのぞけていたら貫入曲流は形成されなかったろうと思われます。

最近の地形

そして再び津山盆地は吉井川水系によって刻まれはじめるわけですが、そこに改めて顔を出したのが鶴山諸島です。
盆地の南側は吉井川・加茂川によって標高100m近辺にまで削られてしまい、作陽高校下、川崎落合橋付近などは基盤岩が出ています。
一方、盆地の北側は露出した中生層がいわば防波堤となって広大な丘陵地が残りました。
こうして、低いところに新しい第三紀層、小高いところに中生層が見られる盆地中央部の謎の地質構造が形づくられたのです。

地質学の大原則は「古いものが下、新しいものが上」そして「細かい泥は沖合い、砂や砂利は海岸近く、大岩は陸地」なのです。しかし津山の地質はなかなか味があって、古いものほど高いところにあったり、崖の横に沖合いの地層が堆積したり、川がわざわざ硬い地層を刻んだり、それでいて地質学の大原則には逆らっていないのです。
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