ひびきのさと便り



No.5 学習障害と行動の抑制(中四国心理学会の発表より・T)  ('01.11.28.)

11月23日(金・勤労感謝の日)・24日(土)の両日、広島の安田女子大学を会場にして、中国四国心理学会の第57回大会が開催され、私どもも4本の口頭発表をおこなってきました。ここ数年続けてきている、学習障害研究に関するもの2本と、今たいへん人気のある心理学の考え方、「心の理論(セオリー・オブ・マインド)」に関するもの2本です。今週と来週で、おこなってきた発表の概略をご紹介し、私どもの立場や考え方を簡単にご説明したいと思います。今週はまず、学習障害についてのお話をいたします。

 学習障害は、英語名のLearning Disabilitiesの頭文字をとってLDとも言われます。1960年代のはじめにアメリカでこの考え方が提唱され、少し遅れて日本に紹介されました。1990年代になると、当時の文部省がLDの公式な定義を二度にわたって発表し、都道府県教育委員会などによる啓発が始まり、またマスコミで頻繁に取り上げられるようになって、いまではかなり知られたものになっています。つい先日、NHKの朝のニュースで小特集が組まれましたし、ある女性週刊誌の最近号も学習障害に関する記事を掲載しています。
 また近ごろ、学習障害以上に関心が高いこともあるのが、ADHD(Attention Dificit /Hyperactivity Disorder 、注意欠陥/多動性障害)です。しばらく前まで、ADHDと言えばその多くが子どものものと考えられていたのですが、成人しても注意散漫や、落ち着きのなさなどといった症状が残るケースが報告されるようになり、生涯にわたる問題として考えられるようになってきました。

 LDとADHDとは、医学や心理学の上では区別されていますが、学校・福祉・家庭・社会などの現場では、ほとんど分けて考えられていないようです。実際、区別することにあまり意味がないとも言えます。LDは教育学を基礎にして考えられたもので、そのため前述したように文部省が定義づけをおこなっています。一方のADHDは医学的な診断名です。それゆえ、LDについては指導法や教授法の開発が熱心になされ、ADHDについては、それと同等以上に医学的な原因の探究が盛んにおこなわれる傾向があるようです。具体的には、脳内で放出されるドーパミンという神経伝達物質がADHDの発症に関与していると考えられています。これはネズミやサルを使った動物実験や、神経に作用する薬の効き具合から推測されているのですが、本態の究明にはほど遠い状態にあって、実際、医者や研究者が「ADHDの原因は何一つわかっていない」と、論文に書いています。

 これから先も、ADHDやLDの生物学的、神経学的な原因が明らかにされる可能性は、ゼロではないにしても、さして高くないように思われます。また、原因が特定できることが、必ずしもそのことが子育てや教育にいい影響をおよぼすとは限りません。たとえば、ダウン症という発達障害は、染色体に異常があるために起こることが解明されているわけですが、ではそれがわかったことで、ダウン症児の療育が進歩したり改善されたりしたかと言いますと、まったくそういうことはありません。異論は多いと思いますが、障害の医学的な原因がわかることと、障害児・者が幸せに生きていけることとの間には、ほとんど関係がないと言っても過言ではないわけです。
 われわれのように、臨床や教育に携わる者が今しなければならないのは、LDやADHDの「行動特徴」を明らかにして、どういう状態をLD、もしくはADHDと呼ぶのかを、客観的に、的確につかむことだと思われます。現在、「何をもってLD、ADHDと言うのか」という基準はいちおうありますが、あまりにも漠然とし過ぎていたり、主観が入り込む余地が残っていたりして、実際に役立つとは言いがたい面が多くあります。

 こうした問題点を克服するために、私どもは、このホームページの「これまでに開発してきた心理検査」に載せております、「学習適応性尺度(Adjustment Scales of Learning : ASL)」を構成しました。私が構築した「人間精神の心理学モデル」では、人間の、意識レベルの精神機能は、「自我−人格」「認知−言語」「感覚−運動」「情動−感情」の4領域からなっていて、ASLはこれらの領域に現れる問題行動を数値化して捉えることができます。そして、さらにそれぞれの数値をABCの3ランクに分けられるように工夫してあります。Aの方がより問題が目立つことを示しており、したがって4領域すべてがAになる「AAAA」型が、学習障害としてもっとも困難が大きいことになります。
 今回の学会発表で用いたのは、全国の学習障害児親の会に所属している103人の子どもさんについて、その保護者の方に評定をお願いして得たデータです。それらを見たところ、「AAAA」型は、全体の約2割を占めました。判定類型は、3の4乗、合計81通りの組み合わせがありますが、実際は81パターンが均等に出てくるのではなく、特定の型にかなりはっきりと片寄るのです。LDは「学習」の障害ですから、勉強や授業にもっとも直接関係する、認知−言語領域の困難を判定に加える必要があります。ADHDの場合、いちばん問題になるのは注意力や集中力の欠如、多動性や衝動性で、学力的には高いということがめずらしくありません。そこで、自我−人格がAもしくはB判定で、なおかつ認知−言語がC判定になる子どもをADHDとする診断基準を設定しました。
 実際には、LDを「AA**」「AB**」「BA**」「BB**」、ADHDを「AC**」「BC**」と考えています。*の部分は「感覚−運動」と「情動−感情」の機能ですが、ここにはABCの何が入ってもいいとするわけです。

 いま、学校現場では、LDと考えるべきか、それともADHDと理解するべきかについて混乱したまま、とにかく不適応を示す子どもについては個別指導の場を設けて、プリント学習やゲーム的な指導、あるいは社会的なルールやマナーの訓練(ソーシャルスキル・トレーニング)に頼らざるを得ないような現状があります。こういう機会があればまだいい方で、担任の先生も友だちも困り果てた状態のまま、日々の学校生活を余儀なくされている場合も、決して少なくありません。医師や児童相談所から、「この子はLDです」「ADHDです」「両方が合併しています」と告げられても、現場としては「だから何なんだ」「何をどうしたらいいんだ」という悩みが解決するわけではないのです。
 ASLは保護者によって記入してもらいますが、扱いと結果の読みとりがとても簡単ですので、なるべく多くの方に使っていただき、子どもさんの実際の状況と合わせて見ることで、一人ひとりに応じた教育や子育てを考える際の大切な情報を得ていただけると思います。

 また、小学校に入って勉強が始まるとLDやADHDと言われるようになる子どもが、それ以前に自閉症(あるいは自閉傾向)と診断されることは少なくありません。つまり、LD児やADHD児と自閉症児の間には、行動の特徴に共通なものが多いと考えられます。
 そこで、私がいまから15年ほど前すでに開発した、「N式自閉傾向測定尺度(NSAT)」とASLとの、検査間の関係を調べることにしました。先に紹介した103名の保護者のみなさんには、ASLと同時にNSATへの回答にもご協力をいただいていたのです。
 検査間の相関関係を見るための統計的手法として、「正準相関係数法」というものがあります。数学的な説明は省きまして、この方法により分析をおこなった結果、いわゆる学習障害児(その中にはLD児やADHD児、自閉症児、軽度知的障害児などが含まれています)が示す問題行動の中で、もっとも特徴的であり、かつ自閉症との関連が大きいのは、ASLの中の「行動抑制尺度」、そして、NSATの中の「活動性尺度」にあらわされたものであることがわかりました。「これまでに開発してきた心理検査」をご覧いただければわかるように、ASLの「行動抑制」には、「無意味に動き回る」「建物や部屋、歩道から急に飛び出す」などが、そして、NSATの「活動性」には、「ひとりで狭いところに入り込む」「絶えず動いていて、落ち着きがない」などがあります。
 こうした、自分の行動を適切にコントロールできないことが、学習障害のもっとも大きな問題なのです。もう少し拡大して言いますと、しなければならないこと、した方がいいことができず、逆にしてはならないことをしてしまい、言ってはならないことを言ってしまう、こういう行動特徴が、学習障害の中核をなしているのです。そしてこれらは、精神の中の、自我−人格機能の働きに関係しているわけです。

 このように見てきますと、学習障害児が示す行動上の困難さが、実は多くの現代人が抱えている問題と同じであることがわかります。つまり、いまは多くの人が、してはならないことをし、言ってはならないことを言って、それで平気、もしくはそれが当たり前だと思っています。ひとつの例として、ウソをつくことがあげられます。自動車メーカーのリコール隠し、官僚の不祥事、狂牛病、こういった問題はどれもみな、ウソによって塗り固められたものです。社会的な大問題でなくても、多くの人の日常生活は、小さなウソの積み重ねの上に成り立っているようなところがあります。「どんなウソでも、絶対についたらイカン」と言われたら、困ってしまう人が大部分ではないでしょうか。仏教には「不妄語戒」という、ウソを戒める教えがあるのですが、現代ではまったく無視されています。むしろ、いかにうまくウソをついて利益を得るかが目標にすらなっています。
 ウソを一例として、これらはつまり、多くの現代人が、人間として正しい行動がとれない、行動の抑制、コントロールができないことを示しています。学習障害児は、みずからの身をもって、われわれに警鐘を鳴らしているのです。
 こういう反省や、障害の意味の問い直しを欠いたまま、障害のある子どもたちをただ「かわいそうな存在」と見て、訓練し、教え込んで、能力を伸ばしてやればよいとするような障害児教育のあり方が根底から変わらない限り、障害児たちの幸せはもちろん、この世に生きるすべての人々の、本当の幸せは、いつまでたっても実現されないと思います。

*調査にご協力くださった皆さまに、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。



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